※男主人公








(どうにでもなってしまえ)

腕に抱いた女に、そっと口づける。一瞬触れて目を合わせると、やっぱり驚いた表情で。でも、赤い頬が喜びに緩んでいるのが、俺にはつらかった。


みんなが玄奘に好意を寄せているのを知って、俺は彼女に手を出した。けれど、天竺にたどり着き、敵を排除し、経典を正しく使った。仲間との旅も終わってしまった今、求めていたものはなんだったのかわからなくなっていた。
――みんなと同じになりたい。
――みんなを出し抜きたい。
――しあわせを手に入れてみたい。
これまで巡っていた願望は、玄奘と結ばれた現実とは重ならない。心はカラカラで何もない。仲間たちから、祝福されたときが一番いたたまれなかった。それからはずっと、顔に笑みを浮かべても、重石が乗ったような気の重さと頭痛が俺を縛り付けている。


「‥‥‥‥。!」
「うわっ。‥‥玄奘かぁ、どうかしたの?」
「どうかしたの、じゃありません。飛鳥こそどうしたんですか? ぼんやりして、悩みでもあるんですか?」

目の前で手をひらひらと振られる。残像の合間からは、不安そうに眉の下がった表情が見えて、苦笑いが出た。ごめん、君を受け入れてよかったのか悩んでる、なんて言えないな。

「ちょっと、考えてて。‥‥あの、今後のこと」
「今後、ですか。そうですね、の家族にどう挨拶するか、考えないと‥‥。確か弟と妹が四人ですね? 喜ぶものを用意しておくべきですよね。どんなものが好きですか?」
「えっ、うーん‥‥最後は石ころを好き好んで集めてたけど、あいつらは飽き性だしなあ。いいよ、そんなの用意しなくたって。‥‥いや、いいって、本当に」
「ですが、家族として受け入れてもらうんですから、心ばかりでもなにかしたいではありませんか」
「たしかにそうだなぁ。俺も寺の和尚様と子供達になにかしたいな。子供たちはどれくらいいるの?」

張り付けた笑顔のはずが、楽しい、どこかでそう感じて自然に緊張が少し解ける。
玄奘を好きか?――好きだ。仲間と同じように。
でも、もしこう尋ねられたら?――愛しているか?――家族と同じように‥‥

遅れをとりたくない。だから玄奘に近付いた。みんな好きな玄奘に、誰より親しくなれたら、みんな一目置いてくれると思っていた。けれど、祝福してくれるみんなと、腕に抱き締めた女。自分の賤しさを痛いほど感じるし、人一人の人生を抱えることを今更自覚した。みんなと別れて、二人だけになって、その責任が少しわかってしまった。


話し続けているうちに、夜は更けて切り上げて休むことにした。一度眠りについたものの、いくばくか寝ただけで目が覚めてしまった。俺の頭に胡座をかいた後悔。息苦しく心地の悪さから、足は玄奘の部屋へ向かう。
扉をあけて、寝息の規則正しいのを確認して、枕元へ近寄った。月明かりの逆光が、彼女の顔に影を落としている。なにもかも、風さえ立たず静かだ。前髪で隠れる彼女のひたいに触れる。

「君を幸せにできないかもしれない」

経典に願った、搾取されない世界。干渉されない世界。努力が報われる世界。俺は怖い。不義にも報いがくるだろう。

「ごめんね‥‥‥‥。周りに紛れられないのが、こわいなんて。君が俺だけを見てしまったら、きっと最低な俺を見つけてしまうよね‥‥」
「‥‥ちがいます‥‥」

手のなかの睫毛がカサカサと手のひらをくすぐった。返事が聞こえて、気のせいではないとわかって手を離す。真っ直ぐな瞳。

「げ、玄奘、起こしちゃった? ごめんね? 俺、もう寝るから‥‥っ」
「待って‥‥!」

きゅっと裾を掴まれて、体が固まる。起き上がりで全然力が入ってないのは、シワの薄いことからも感覚からもわかる。でも振り払えなかった。
――飛鳥、聴いてください。
静かな声がほんの少し空気を揺らした。

「わたし、なんとなく知っていました。が気持ちを‥‥つくっていること」

玄奘は息継ぎを挟みながら、ゆっくり話す。

「それでも知らないふりをしました。あなたを支えにしていたかったのです。私は酷い人間です。あなたを好きだから、自分の気持ちを優先してしまったのです。あなたの言葉が本意かどうかなんて関係ありませんでした。私こそ、あなたにつらい荷を背負わせて、ごめんなさい。
‥‥でも、偽りだとは思えません。人は、その人自身が少しでも何かを感じられなければ、どんな言葉も浮かぶはずがない。の言葉には、心にとても馴染む、温かみがあります。だから好きなんです。過去に虚飾があったっていい。私は、これからは、あなたの支えになって、あなたを甘やかして、あなたが何にも惑わされずありのまま言葉を言えるようにしていきたい。そうしても、いいですか?」

雲が薄くかかったのか、明かりはより薄暗く、かえって玄奘の表情がはっきりみえる。
彼女の言うこと全部が合っているとは言えない。でも涙が溢れてきて、胸は痛いほど何かを叫びたがっている。嗚咽が込み上げて、たった一言が精一杯だった。