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エルメントラウト教頭は頭を抱えるほどの不安を覚えていた。いつと関係なくいつもアルレビス学園の先行き、教育の程度、生徒の学習態度や素行、校長の頼りなさ、自身の研究。アルレビス学園の教頭として、頭を抱えずにはいられない問題が山ほどあるのに、一人の保護者としてまで悩まされなくてはならないのは、教頭自身、胃に穴でも空くのではとさらに不安を覚えるほどだ。 ため息を静かに吐いては、姪への心配を紛らわせている。よもやあの子が、よりによって、あの、アトリエを気に入るだなんて。なにか悪影響が顕れたら、母親になんと言ったらいいのだろう。 教頭は、学内見回りの名目で、の安否を確かめに立った。これが毎日のことだから、教頭もうたぐり深いものだ。 「ヴェインお兄ちゃん。これ、どうやるの?」 包丁を片手に、くるりと振り向く。危なくないかなあ、落としたりしないかなあと不安になって、その手を上から握る。 僕には可愛い妹がいる。とは言っても、本当のではない。アルレビス学園の、教頭先生の姪っ子だ。僕等が時計塔を探索しているうちに辿り着いた校長室前で、ひとりで居たのだ。まだ十歳ぐらいの子が、どうしてこんなところにいるんだろう。そう不思議に思って僕等は女の子に色々と聞いて、遊んで、教頭先生が出てこない内にすっかり仲良くなっていた。 それからははよく僕等のアトリエにやって来て、「これはなあに?」「あたしもやりたい!」「遊んでよ」とカルガモの子供の如く後を着いてくる。 今も、僕の調合中、素材を切りたい切りたいとせがんで、それに負けてしまったという状況だ。 「こうやって、まずこのヘタを切り落として、輪切りにしていくんだ。できそう?」 「うん」 重ねた手を離して、自分で切っていく様子を見て、指を怪我したりするほどは危なかしくはない。輪切りの厚みは問題にしないで言えば、は上手に切っている。 ヴェインはいくらか安心して、釜に向かった。が一生懸命切ってくれたキャロ芋だから多少形が悪くてもいいだろうと、入れる頃合いを計っていた。いたのだが、穏やかでは済まなかった。 「ちゃん、こういう素材は均等に切らないといけませんよ。でないと火の通りがバラバラになってしまいます」 「はあい」 少し様子を見ていたヴェインだが、その手の覚束なさに口を出した。初めてできた妹のような可愛いに、怪我でもあったら嫌だと思って。アンナも、なにも傷付けるためにやらせているわけではないのだから、口を尖らせて言い返す。 でも…、と零しても、譲歩するのは大抵ヴェインなのだが、その一歩手前で教頭がやってきた。 「なにを言い争っているんです? それも珍しい二人が」 「教頭先生!」 「まさか、に何かあったんじゃないでしょうね」 じとりとした目に二人は強張る。ねめつけられるほど悪いことをした覚えはないが。教頭先生ということでもあるし、やはりはを間に喚くことが良いとは弁えていないからだ。視線にプレッシャーを感じるが、黙ったままでは説教がくる。姪のこととなると、教頭でさえもやはり針小棒大に感じるようだ。しかし、根底の真面目さ、公平さによって特別罰を加えたりはしないものの、小言という名の説教には刺がある。 「あの、教頭先生、僕たち別に…」 お説教は避けたいと、ヴェインが申し訳を立てようとするが、言葉が続かない。悪いことをしているつもりはないし、アンナが悪いとも思わない。たたのちょっとした口論に過ぎない。かといって、教頭の姪の可愛がりようから、なんでもないですませられるかわからない。 ロフトから、フィロとニケとが「大変だねえ」と同情をかけているけれど、その声音は可笑しそうに明るい。 先の言葉を、教頭が続きを促すが、なんと言ったらいいのかが浮かばないで、「ええと」「その」いいよどむばかり。そこを、過度の緊張が解けたアンナが、チャンスとばかりに「教頭先生!」と声をあげた。 「先輩が黒い溶液を作っていたんですが、材料をがちゃんが切るにあたって、正確に切らせようとしないんです。見てください、これ!」 確かに、輪切りと言うよりかは乱切りのように太く不均等。黒い粉を作るのには不具合だ。教頭もそれを見て、頷いた。神妙な顔付きで見られて、はは眉尻を下げる。いざこざの原因は自分なんだとわかってきた。やりたいことが出来て満悦だった。それなのに、厳めしい顔に囲まれて、もう怖いだけ。包丁に触れてみたい好奇心もあった。でも手伝いもしたかった、厚意によるものだったのに。 詰問と弁明と訴訟が続くうちに、釜は沸き立っていた。水蒸気が立って材料を入れるには遅い。一つの調合品としてももうダメになってしまう。底がこげだして、鼻につく臭いが一際濃くなったって、やっと傍にいったヴェインが反応した。あっと声を上げて慌てて引っ掻き回す。焦げがボロボロと釜底から剥がれだし、どこを反しても混じっていた。 「ああ…、もったいないですね」 「もうダメじゃないですか?」 口にされる諦念に心を傷つけたのは誰であろうか。 ロフトから覗いていたニケはその変化に気付いてマズいと思ったが、待ったをかける間もなかった。小さい影が走り抜けてアトリエを脱した。カランという包丁がまな板に打ち付けられた音と、キ、という観音開きの扉の開かれる音とが、跡を残していった。誰もその跡をぼんやり把握しているのをニケが「あんたたち! を泣かしてどういうつもり?」そう熱り立った。ただもう一度扉が軋み大きく弾かれて、いくつも発音出来なかった。結局残った彼らはぼんやり扉が内外の境を行き来するのを、乗り捨てられたブランコを眺める気持ちで見守った。 間もなく後を追い始めたことが幸いに、階段を駆け上がる足音、小さな背中が左方に見付けられた。その道は屋上に繋がっている。ヴェインはより大きい歩幅で、階段も一段飛ばし一段飛ばしして駆け上がった。 階段を上る何瞬間に、ヴェインはちょっと考えることができた。さっきはアンナと教頭の発言を聴いているしか働かなかった。二人の物言いは無情に感じた。ムッとせずには居られなかったのは確かだ。口達者なアンナと、尊厳ある教頭に言い返すことなど出来ず、しどろもどろに自分を正当化する考えを述べようとしたが、説得力もない。つらい。 ヴェインはアルレビス学園入学までの出来事を思い出しそうだった。誰もヴェインとは馴れ合わず、知り合わず、客とも認めず、嫌って嫌わせ、疎んで、石を投げて、町から追い出した。町人も、無実のヴェインの言葉を聞かなかったし、一方的な防衛、ヴェインからしたら理不尽な攻撃を行った。 階段を上りきった。正面奥にがしゃがみ込んで、肩を震わせている。 は悲しんでいる。気遣いのできる優しい性質のヴェインだし、つらい思いをしてきたから、なぜ悲しいのかをすぐに想像できた。僕らが、#name#の親切とやる気を冷たく裁断してしまったからだと。そして彼らが可愛がっている優しさ無邪気さは、やもすると折れてしまうのだ。手応えがあってもなくても、一事にしてでも徐々に傾くにしても、有り得る。それは総ての子供に降り懸かる。直ちに添え木を施さなければ、修正はだんだん困難になる。 折れたままでは日を遮る枝を伸ばす。折れたままでは陰は広がり、修正できても折れ目は残る。どちらも性格を歪める様である。ただ二者の違いは修正を試みるかどうかで、それは重大な違いだ。後者は生長なのだ。歪みを補正して培って真っ直ぐ上へ軌道修正する。失敗を成功へ転化させる礎だ。そうだから年長の私達は努力をしなければならない。私達は少なからずの経験があるために。 ヴェインはまだ声をかけるのを戸惑ったが、小さなさよりが悲しんでいるのを見るに耐え兼ねて呼び掛けた。は嗚咽で返事が直ぐには出来なかった。 「大丈夫?」 「う、うん…」 しばらく待ってやっと返事があった。しかし嗚咽は引かない。 「大丈夫?」 「ひっく…うっ、うん…」 「……よしよし」 背中を撫でてやる。やり慣れないからぎこちない。そうして少しづつ呼吸が落ち着いてきた様子で、ヴェインは、小さな子を相手にして、気恥ずかしさともどかしさを感じながら謝った。でも、こんなに泣かしてなんてことをしたんだろうと思う。ヴェインが一番に悪いというわけではないが、あの場でのことを考えていなかったことが、罪悪感を生む。そして、ヴェイン自身が体験したあのつらい記憶を思って、慰めないではいられない。さらに、がアトリエを出ていく瞬間、逃げ出したいとヴェインも思っていたのも事実ある。 ようやく本当にしゃくりが落ち着いて、涙も大体引っ込んだようだ。 「大丈夫?」 「…うん……」 「ごめん…。えっと、今度…」 言葉が途切れて、間が空く。 「また一緒に調合してくれないかな…」 自信なく言う。果たしてこんな慰めでいいのかわからないで、口にしてしまったものの、はこくんと頷いた。 「あたし、ヴェインお兄ちゃんと一緒につくりたい」 ぎゅうっともう一度抱き着き甘える。それにヴェインはほっと胸を撫で下ろした。そう言ってもらえてよかった、嫌われなくてよかった、機嫌が直ってよかった、色々な安心が笑顔を誘って声を立てると、も明るく笑った。 こうなれば誰と険悪だったろうがなんだろうが、仲も直ると決まったようなものだ。アンナと教頭に会うことにちょっと緊張はあるけれど、二人はアトリエに戻っていった。 昨日も今日もそうだったように、明日も同じような、ちょっとの変化を加えた日を迎える。アトリエは毎日賑やかで退屈しない。だからはここが好き。 |