日記 2013年11月

耳元でそっと囁く、進捗どうですか。

11月12日 火曜日

研究室で小腹が空いて、餅を焼いて食べた。

今の時分では少し季節外れだが、正月になれば誰もが餅を焼いて食うだろう。そして毎年の恒例のように高齢の方々が餅を喉に詰まらせて死ぬニュースを聞く。人が餅を食い、餅が人を殺めるという関係性が日本には息づいている。

この関係性は妖怪と人との関係、すなわち妖怪が人を食い、人が妖怪を退治する関係によく似ている。

かつて人間が今ほど知恵を持たなかった頃、身の回りの自然現象の原因を妖怪という存在に求めた。そして自然に対する畏怖はそのまま妖怪に対する恐怖という形で現れた。妖怪が人を食うことで妖怪に対する恐怖は保たれ、人が妖怪を退治することで妖怪の実在性が保たれてきた。近代以降の科学の発展により人間は自然現象に対してより確かな説明を得た。それはこれまでその役割を担ってきた妖怪に対する存在の否定であり、現代においては妖怪は幻想になった。

同じことが人と餅との関係においても言えるのではないだろうか。すなわち、我々人間も餅が生み出した想像の産物であり、餅が抱く思念を確固たるものにするために我々が餅を食うことで我々人間の実在が保たれてきたのではないか、ということだ。だとすれば人間の行く末についても1つ考えが浮かぶだろう。餅が想像を抱くに至ったその事象について新たな事物の登場によってより確かな説明が与えられた時、我々人間もまた幻想となり消えていくのだ。

我々の知る限りでは近代から現代までの科学の発展に見るような思考の革新が餅たちの間に起きているようには感じられない。しかしそれは安心材料とはならない。我々はそもそも餅の思念を知覚することができないでいるのだ。それゆえ彼らの思考をうかがい知ることはできず、彼らの間で思考の革新が起きていたとしても知ることができない。そう、既に革新は起きているのかもしれない。

我々人間が実在を保っていくためには人間と餅との間に新たな関係を築いていく必要がある。そのためにはまず餅との思念の共有が必要だ。我々は餅と対話しなければならない。