悲運な戦国武将をフォロー

「打倒!秀吉」の一心で真冬のアルプス越えを成し遂げたド根性武将

佐々成政と言えば、後世の脚色もあるかと思いますが大の秀吉嫌いで有名です。九州攻めの功績で与えられた肥後統治に失敗し、秀吉に釈明をするため大阪城に向かっている途中で途中で切腹を命じられました。この時、秀吉憎しの一心で大阪城の方角を睨みつけたまま腹を切り、目一杯歯を食いしばったためか、歯がポロポロと抜け落ちるほどだったといわれています。

成政は馬廻からキャリアをスタートさせて、数々の戦功あげて信長の親衛隊である「黒母衣衆」に抜擢されました。その後は遊軍部隊として戦地を転々とし、柴田勝家の北陸遠征の際の与力となったあと、49歳にしてようやく越中一国を任された典型的な叩き上げの武将です。

羽柴秀吉、明智光秀、柴田勝家、前田利家、丹羽長秀、滝川一益のような多士済々の信長家臣団のなかにあっては、どうしても地味なイメージが拭えず、先述の肥後に統治の失敗(検地に反対した大規模な一揆が発生)と切腹という点だけで彼の人生が語られているような気がして気の毒になりません。

肥後の舵取りの失敗は成政の性急な改革(検地など)が一因とされていますが、彼は一般的にイメージされる猪突猛進型の戦専門の武将ではありませんでした。越中統治時代には度重なる河川の氾濫に悩まされていた領民のために、大規模な堤防工事を実施しわずか数年で水害を無くして領民に慕われました。この堤防は「佐々堤」と名づけられて現在でも、その遺構が残っています。

内政面でも有能である彼が肥後で検地を急いで実施しなければならなかったのも、自分の人生がそれほど長くはないということを知っていたのではないでしょうか? 実際にこの頃の成政は病に侵されていたといわれています。

また、「賤ヶ岳の戦い」と「小牧・長久手の戦い」のニ度にわたって、秀吉に逆らった彼を統治の難しい肥後を任せて、あわよくば国人衆らによる反乱などを理由に失脚させようと秀吉が考えていたかもしれません。同じく秀吉による徳川家康の三河・駿河・駿府からの関東への国替えにはこのような狙いもあったと言われていますので、あながち荒唐無稽の話ではないかと思います。

成政を語る上で忘れてはいけないのは、小牧・長久手の戦いで積雪5メートルはある真冬のアルプス越えを達成した、いわゆる「さらさら越え」です。徳川家康と浜松と合流して、秀吉と戦うというプランですが、通常の「加賀→越前→美濃」「越後→信濃」ルートは秀吉の影響下にあることから、唯一のルートであるアルプス越えに挑んだのです。

近世になってからも遭難事故や凍死者が出ているにも関わらず、今から400年前の軽装でチャレンジするとは発想自体が超人的です。部下はたまったもんじゃありませんが(笑)そこまで彼を駆り立てるということは、織田家を乗っ取るような形になった秀吉をよほど許せなかったのでしょう。しかし、成政一行がアルプス越えを達成したときには、既に家康は秀吉との講和を結んでおり、彼の行動は徒労に終わってしまったのです。

なお、アルプス越えの際に成政は他日に備えて100万両(異説あり)の軍資金を複数の壷に詰め込んで鍬崎山に埋めたという伝説が地元に伝わっており、これまで多くの人が一攫千金を夢見てやってきたそうです。結果は…ここに書くまでもありませんよね(笑)。ただ、超メジャーな徳川埋蔵金伝説よりはこっちの方がリアル感がありそうな気がしますが。