悲運な戦国武将をフォロー

初陣で活躍、統治実績を残しながらも歴史上では散々な評価

数多くの戦国武将の中で最も酷い扱いを受けているのがこの青年でしょう。大谷吉継らが西軍のために孤軍奮闘して討ち死にしたことに比べて、土壇場で東軍に寝返った「裏切り」のイメージが強いため、全人格までもが否定されるような扱いです。

彼が断罪されるなら、西軍で参戦するも静観していた毛利、大大名の割には1500という少ない兵を当主ではなく弟に遣わせた島津も同じくらいに非難されてもおかしくはないのですが・・・

漫画では戦場で斬った敵兵士の「耳」を戦利品として数珠繋ぎにして首飾りにするなど、一般的に定着している「無能」「幼稚さ」に加えて、「冷酷さ」までが加わっています。

結果的には天下分け目の一戦で重要な役割を果たしているにも関わらず、映画やドラマでは藤原竜也さんが起用されたケース(これはある意味凄い)以外は、完全に脇役の扱いです。

また、若干21歳で謎の死を遂げていることから、大谷吉継の祟り説など死に際してもマイナス補正がかかっています。死因は現在でもわかっていないにもかかわらず、一人歩きしているのが、逆切れした小姓に斬られた説です。僕もプレイしている「信長の野望 革新」ではゲームの途中で次のようなイベントが発生します。

「腹がへった!飯はまだか!!」と夕食をしたくを急かす短気な秀秋。慌てた小姓は運んできた夕食を秀秋にこぼしてしまいます。「小早川家に仕えながら飯も運べぬのか!」と激怒し、わびる小姓を無視して「これで腹を切ったら許してやる」と刀を出すという完全なドSキャラになっています(笑)

これに切れた小姓が「戦場で死ねといわれるなら喜んで死にましょう。しかし、此度の申し付けはもはや我慢ならぬ!」と刀を抜いて、主君をバッサリ! この傷が元で自業自得の死を遂げたとされています。

ゲーム内の能力値(100点)も統率力:38 武勇:23 知略:23 政治:16 義理:10と散々です。

しかし、彼は豊臣秀吉の正室・高台院の甥として生まれ、秀吉の養子にもなっている人物です。秀吉には子がいなかったため、幼くして両親を亡くした親類の子供たちを多く引き取って育てていますが、そんな多くの兄弟を差し置いて養子に選ばれているのだから、世間一般で言われているほど無能とは考えにくいと思います。

例えば、初陣となる朝鮮出兵の際には、敵軍に包囲され殲滅の危機に瀕した加藤清正を救うため、自ら槍を手に兵を率いて包囲網に突撃するという勇敢な一面を見せており、大将自らがそんな無茶をしてはいけないと厳しく叱責されています。「影武者徳川家康」などで描かれている臆病者のイメージとは全く逆です。

内政面でも所領の備前岡山では農民保護政策を打ち出し、朝鮮出兵で疲弊した農村の復興に努めるなどの善政を行っています。もちろん、秀秋自身の政策ではないかも知れませんが、優秀な配下の意見を聞き入れ、彼らに働かせるだけの器はあったのではないでしょうか?

西軍として参加した関ヶ原では途中から東軍に内通の約束をしつつも、東軍の伏見城を攻撃したり、家康に鉄砲の威嚇射撃を受けるまでは態度をはっきりさせない優柔不断かつ暗愚な武将とされていますが、戦況を見守り勝ち馬を見定めるという冷静かつしたたかな行動と考えられないわけでもありません。

また、伏見城攻め後に家康に詫び状を出していること、戦術的要地である松尾山を占拠していた西軍を追い出してそこに陣を布いたこと、関ヶ原の合戦直前に東軍の福島正則と書簡のやり取りをしていることなどから、関ヶ原の戦いの前に既に東軍に与していたという説もあります。また、寝返りは彼自身の独断によるものではなく、稲葉正成、杉原重治、平岡頼勝などの重臣達は以前から家康側につくように主張しており、既に彼らによって話は進んでいたのではないでしょうか。

関ヶ原の戦いが終わった後には、三成の父である石田正継の守る佐和山城を落城させる戦功を挙げており、戦後の論功行賞では備前と美作に移封され、55万石に加増されるなど、他の大名に引けをとらない大封を得ています。その後は検地の実施、寺社の復興、農地の整備など急速な近代化を進めており、岡山の礎を築いたといっても過言ではありません。