1 : 18 「死んだほうが幸せ」という考えについて

「死んだほうが幸せ」という考えについて

2000年9月22日

人間にとって死は、ひとつの神秘であり、未知特有の期待や不安をかもしだすかもしれない。決定不可能な事柄は、こうであろうと「信じる」しかなく、往々「信仰」の対象となる。否定的に、あるいは、肯定的に。

いわゆる「身体」の「病気」については、治療不可能な末期的状態にありながら「身体」だけを強制的に延命させることに反対する人々も増えている。とりわけ激痛を伴うであろう場合において、「自分だったら、あんなふうにしてまで生命維持装置に結ばれたくない」と考えることは容易かもしれない。

これは「無理やり生かすより死んだほうが幸せ」ということであり、哲学的、倫理的な問題はともあれ、実用的には、そういうことは、いくらでもあるだろう。

ある人々は「生きることは目的ではなく手段であって、生存そのものを自己目的化することは正しくない」とさえ考えるだろう。

同様に、「自分だったら人生の途中で死にたくない」という本能の投影として、「病気」でもない人が死ぬことに反対する人々も多いと思われる。それにもっともらしい理屈をつけて「生きていればなにかいいことがあるかもしれないじゃない」などというのだが、このへんは「右脳的」感覚と「左脳的」言語処理にギャップがあるようで、論理的には「生きていればさらにひどいことがあるかもしれない」……要するに未来は分からないのだが、分からないものを指して「いいことがあるかもしれない」という片面だけしか注目しないのは、たぶん、死に対する本能的拒絶に関係あるのだろう。このような拒絶は生物の仕様だろう――数十億年の淘汰(とうた)をへた我々はサバイバルのエリートであって、どんなひれつな手段であれ、あらゆる方法を駆使して生存するよう低水準でインプットされているのだろう。

身体が心と呼ばれる構造をサポートするまでは、それで良かった。ごく最近になって、一部の動物たちは、「自分」を発見した――これが単なる「感情的」な反応(いろんな動物は喜怒哀楽めいたことを示すのだが)と異なるのは、自分自身を対象として明確に指し示す自己言及の能力においてだったろう。

「身体の苦痛」(それも標準モデルでいえば「心」が感じる苦痛であるが)の場合なら冒頭の推論図が成り立つとして、かつ、「こころ」は身体と同等あるいはそれ以上に大切なものだと考えるなら、結論は必然的だ。むろん個人の考え方は自由だが、カウンセリングの現場からいえば、あなたが初めから「間違っている」と信じきっていることに、表面的に理屈をとりつくろっても、うまくいかないこともあるだろう。不登校とか性に関する事柄なども同様で、すべてのオプションを肯定したうえで、トータルなQOL(生活の質)を考えなければならないのは、精神面においても同じだ、というより、むしろ、QOLは精神(意識)によって測られるべきものである。

くだいていうと、主観的なQOLをいちじるしく低下させてまで生存させることの是非、つまり主観的なQOLと、人間の信仰――「生きることそれ自体に価値がある」とか「死は怖いから間違っている」とか「神さまがどうしたこうした」といった信仰――が、はかりにかけられている。そのさい「生きていれば何かいいことがあるかも」といった無責任な命題や「いちじの気の迷いで」「そんなのは心が弱いからだ」といった常套句(じょうとうく)によって、冷徹な直視を回避すべきではない。回避したくても、いずれあなたも直面する可能性の大きい問題なのだから、ここでちょっとまじめに考えてみてもいいかもしれない。

自分自身は、この問題に関して、あまり感覚がないともいえる。 鳥は死を名づけない。鳥はただ動かなくなるだけだ。 ……そんな感じがするのは、物質や精神に本気でかかわれないわたしの一般的性質のためだろう。また、身近な人がすぅっと消えてゆく体験があるかどうかにも、よるだろう。そういう経験があると、その人の悪口を言いたくないので、より相対的、非決定的な態度を保つ傾向が出てくると思う。

猫が煙のようにすぅっと消えて、見つからなくなってしまうように、人もときどき帰らなくなる。大声で叫ぶかわりに、沈黙によって叫ぶ人もいる。ざっくばらんにいえば、それは人間さんのパフォーマンスないしオプションで、それを視る人の属する時代や社会の文化によって評価されることもあるとしても、ただそれだけだ。

蝶は、さなぎを振り返らない。