目が覚めた途端、落ちた。否、墜ちるような気がしたんだ。指先からまっ逆さまに。ベッ ドがガラガラと崩れて。くるくると旋回しながら、俺は墜ちた。ゆっくりと、一秒ごとに、 時間を引き伸ばすように。あまりの遅さに、下から上へ落ちているのかと疑うほどに。怖 くはなかった。その先が奈落の底ではないことを、知っていたから。 ようやく落下は止まったが、果たして着地したのかは分からなかった。うすぼんやりし た、クリーム色の、限り無い空間。前からずっと此処に居たような気もする。男がいた。 逆光を帯びた柔らかな影だった。 「あれ、居たの?」 「・・・・うん」 名前が。早く思い出さなければ、永遠に忘れてしまう。だけどこの、甘い蒙昧も愛しく て。彼がただ彼であるなら、それで満足だったから。 男の腕に従った。子供の頃みたいに楽しかった。何処へ行くのか知らないけれど、そんな 事分からなくてもいい気がする。どうせ何も無いのだろう。クリーム色の闇ばかりだろ う。それさえ知っていれば十分じゃないか。 「ココが好きなの?」 「さぁ?どうでもいいだろ」 「昨日も居ただろ?」 「・・・・きのう?」 改めて声に出すと、分からなくなった。きのうとは何だろうか。楽しい物だろうか。別に 聞きたくはなかったけれど、男が問うてほしそうだったから。 「きのうって何なんだ?」 彼は完全な影ではなくて、やっぱりうっすらクリーム色に染まっていた。 「知らねぇの?ほら」 影は紙の束を差し出した。よく分からない、ゴチャゴチャしたものが並んでいる。 「・・・・何だ、コレ」 「分かんねぇか。あ、昨日が来たぞ」 ひたすらクリーム色だった空間に、突然底ができていた。ひどく落ち着かなかった。此処 もやがて、闇でなくなるのだと知った。 「オレが誰か知りたい?」 「・・・・嫌だっ」 必死に首を振ったけど、彼はゆるりと笑うばかりで。去りたくないの。此処に居たいの。 俺のことに、構わないで。 目が覚めた途端、強烈な紅に襲われた。自分の目が燃えているのかと思うくらいに、鮮や かな。この世の果てにでも来たような。何処かで見たことがあるような気もするけれど、 どうしても思い出せない。ただ懐かしさを感じないのは確かだった。 紅は、右へいくほど黒く濁って固まっていた。夕焼けなのかもしれない。だったら俺は今 空の中に閉じ込められて、ゆらゆら紅く燃えてるんだな。そう思うと少しだけ、楽しく なった。 「また会った。運命かな?」 男がいた。この空を切り取ったみたいな影だった。見たことのない奴だけれど、記憶を ひっくり返す気にはならなかった。 「・・・・そうかもな」 ウンメイとは何だろうか。考えた途端にどうでも良くなった。この紅が、そうさせている のかもしれない。そんな事分かったって、俺にはどうしようもないけれど。 ただ緩やかな落下だけは、妙にはっきりと覚えていた。それが何時あったのかなんて事ま で覚えちゃいないけど、願うならばもう一度だけ。 きっと此処は、俺の居場所じゃないんだ。空気が俺に反発して、何処かへ押し込もうとし てるもの。身体中を撫でられるような、妙に優しい圧力が、気持ち悪くて吐いちまいそ う。 「もう墜ちないのか?」 「何が?」 「・・・・さぁ?何だろう」 「待ってれば?」 「・・・・うん」 影は軽く首を傾げた。なんとなく、腕を伸ばしてみる。そうしなきゃいけない気がして。彼な らついて来てくれる気がして。 「・・・・ッ!」 思わず腕を引いていた。紅の影は、ものすごく熱かった。本当は俺が触れちゃいけないみ たいに。嘘っぱちね、ついて来てくれるだなんて。むしろ出会っちゃいけなかったんじゃ ないの、なんて今更かしら。 「・・・・お前、」 「分かっちゃった?もう行こっかな。つまんねぇし」 「お、俺も行く!」 「別にいいけど?」 ガラガラとベッドが崩れて。そうだ、俺はこれを待ってたんだ。くるくると旋回しなが ら、下から上へ、すべてのものが逆流していく。今度墜ちていくその先は、奈落の底かも しれな 「もういい加減それ読むの止めろって」 「・・・・何で?」 男は唇を尖らせていた。俺が手にしている紙の束に、恨めしそうな視線を注いでいる。今 はなんとなく、彼をできる限り俺の中から遠ざけなければいけない気がした。 近くにいれ ば、覗きこんで覗きこまれて、どんどん混ざっていってしまうから。汚い物には、なりた くないの。せめて表面だけでも、綺麗でいたいの。ガキっぽいかもしれないけれど。 「つまんねぇもん。折角脱出してきたのに」 「・・・・いいだろ、俺がいるんだから」 「そりゃ悪いってことはねぇけど」 彼はモゾモゾと頭を掻いた。ずるりと内臓が持ち上がる。あまりにも遅い落下は、すぐに ふわふわと紙を飛ばしてしまうから、意外と力をこめて、ひどく茶化ているそれを握って いなきゃならなかった。 「・・まだ読むの?」 「・・・・うん」 今度墜ちていくその先は、奈落の底かもしれないけれど。怖くはなかった。彼がいてくれ るのなら、それで十分な気がしたから。 「何読んでんの?」 「・・・・教えない」 この紙の束以外に俺が持っている物なんて何も無いから、これだけは教えてやれないん だ。俺はきっとお前に教えるのに夢中になって、紙がポロポロこぼれていく事にも、気づ けなくなってしまうから。 影はもう薄いクリーム色でも紅でもなかった。どんどん分厚くなっていく彼は、どんどん 薄っぺらになっていく俺をじっと見ていた。まるで彼の目が俺を吸収してるみたい。それ が本当なら、削られていった俺も案外楽しんでいるのかもしれない。 すっかり飛ばされてしまった俺は、色まで失くして透明になっていた。腹を見下ろすと、 シーツの白さが透けて見える。ほんの少しだけ、綺麗になった気がした。やっぱりついて 来て良かったんじゃないか、この男に。 そう思った瞬間、彼の名前を思い出した。それが 良い事なのかは分からないけれど、どうしてもその名を呼びたかったから。 「・・・・カカロット」 少しだけ、安心した。あるべき物が、あるべき処へ戻ったような。 「ん?やっと本に飽きたか」 彼は、ニヤニヤと目で笑いながら振り向いた。もし彼のように感情を素直に表せていたの なら、なんてそれこそ今更だけど、俺だって分厚い影になれただろうか。薄っぺらい透明 な、偽物なんかじゃなくて、もっと芯まで綺麗な。ただ欲を言えば限りが無いから。 「来て良かった、かもしれない」 「そっか」 彼は腕を差し出した。窓から見える藍色の空を背負って、男はゆらゆら影に溶けていく。 男の腕に従うことに、何の不安も抱かなかった。彼が連れて行ってくれるのなら、何処 だって構わなかったから。 今度はゆっくり瞼を下ろす。なんとなく、そうしなきゃいけない気がした。ベッドがガラ ガラと崩れて。くるくると旋回しながら、俺はまた何処かへ墜ちていった。 |
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カカのために知らなくても良かったことまで知って、それでも幸せだと思う王子が
書きたかったんです。ですが、いつものようにどんどん訳の分からない方向へ
行ってしまいました;;王子が幸せだと思えるんなら、それでいっか萌えです。 |