穢れを知らぬ透明の海は、夜の冷たい潮風に、ゆたゆたと揺すられている。 凛君の白金の髪と濡れた上半身は、焚火の炎にぬらぬらと妖しく耀いた。 凛君は、薬包紙に乗せた細かい粉の様なものを鼻から吸い込み、そのまま私にキスをした。 頬に宛がわれた彼の大きな手は、海水と白砂に塗れてざらりとしていた。

その感触が今でも頬に残っている。

何を吸ったのと聞いたら、凛君は長い睫を伏せて、ガンジャと答え、 続けてジュースを一口含み、またキスをくれた。ジンジャーエールの味がした。

夜の紫に赤い炎は映えた。空には無数の白い点が浮かんでいる。 先ほどの薬が回ったのか、凛君は頭を抱えて唸り始めた。

「やーはよそ者やくとぅ分からねーやんやー」
「分かんないよ」
「わんもさぁー。わーぬくとぅが分からねー」

沖縄の大自然が風に蠢き私達に夜を促す。じゃりじゃりとした白砂が、肌に埋もれて痛い。 凛君のしょっぱい涙は白砂に吸収されて海に還る。彼は沖縄の純潔な海に創り出されたのだ。 その涙は海水のそれと変わらない。

「世界が逆さまんかい見えるー」

雫の伝う前髪を、彼が邪魔そうに掻き上げた時、ぶわと涼しい香りが鼻を掠めた。 凛君愛用の、シャンプーの香りだ。東京にしか売っていないから、いつもついでに頼まれる。
「あー。甲斐が、やーぬくとぅがしちゅんだと言ってたっけなあ」
「しちゅんって何」
「好き」

凛君の黒色の瞳に焚火の炎が燃えてる。その瞳で私を睨んでまた、キスをする。 彼の漏らす息にじとりと汗ばむ私の額。舌のざらざらとした感触が好きだった。
後ろでする、木々のザワメキと波の音、飛び散る火花。

「次やいち東京にいちゅんんだ?」
「決まってない。来月とかかも」

吸い込まれそうな瞳。私を見つめる綺麗な瞳。高い鼻。健康的な肌。きらきらの髪。凛君は綺麗だ。

「やーはチュラサンださー」
「そうでもないよ」
「わはは。かなさんど〜よ」
「かなさんど〜って?」

「はっは。一生知らんくていい」

危ない足取りで凛君はふらりと立ち上がり、再び青黒い海に入った。
華奢なのに筋肉質で、お日様の光を沢山浴びた彼の背中は、ゆっくりと遠ざかっていった。


遠ざかって二度と戻らなかった。



(彼のラジオの雑音、彼の自転車の錆びた鉄、彼の愛した私のからだ、それらは今夜も私を悩ませる。これこそ真実の永遠だ。 ダークマターは私たちに見向きもしないことが分かったのだ。あんなに神聖な凛君が溶けたのだ。皆凛君が嫌いなのだ。私だけが凛君をずっと 知ってる。私だけがずっと愛してる。ずっとずっとずっと永遠に永遠に永遠に永遠に永遠に愛してる。それはとても曖昧だった。)
凛君が消えていく
高一の冬、ラジオは壊れた
高三の夏、自転車はパンクした
卒業式に彼のからだはない
自慰を覚える私のからだ


あの夏の海に全て封じ込めたくて、凛君はいなくて、春も夏も秋も冬も、凛君はいなくて、




大人になってしまった今、私は未だ沖縄に留まっていた。東京に戻らないのは、呪縛のせいにした。 凛君が消えたあの日から少しして、甲斐君と私は交際を始めた。そして明日、籍を入れる。

今でも一人で海を見に来る。凛君の生きたこの地に、私もいつか還りたいと思う。
本当は、あの日の彼が未だに分からない。何も知ろうとしなかったから、何も残りはしなかった。

「かなさんど〜よ」
結婚式の日、甲斐君はそう言ってほほ笑んだ。その時初めてその言葉の意味を知った。


嗚呼、凛君、君の闇は沖縄の空に同化し、そしてあの深すぎる海の様に謎めいていた。 海に溶けた君は、狂的に美しかっただろうに。

潮騒と私
(2008/07/04 修正2008/11/08)