中学生の恋愛なんてのはたかが知れてるとあいつはきっと言うのだろう。例えばあいつは流行の歌をわざと嫌って、訳の分からない叫び声の歌を聴く。 皆の好きなものを嫌うというのはあいつにとってのいわば生き甲斐だったんだろ。しかもそれを口にしないのがズルい。中学生の枠から漏れてるあいつは そうすることで自分の位置を確認しているのだろうと思う。皮肉。そんなあいつは誰よりも中学生だ。


俺はラケットを構えていた手首を捻った。跳ね返ってきた黄色い球体は俺に打ち返されて壁に戻って行く。ぬるい風が俺の髪を浚う。今日は春一番が吹くと テレビが言っていたのを思い出した。でもそんなのは関係ない。そう思ってる間にも、黄色い球体は俺のところへ戻ってくる。俺はまた手首を捻った。
「深司ー、授業、はじまるぞー。」
「うるさいなあ、今行くよ」
大声だすなよ、恥ずかしいだろ。神尾は橘と並んでたった今登校したようだった。二人はさっさと校舎に入って行った。俺は自分がユニホームを着てるのが 馬鹿らしく思えて、明日からは本当にテニスをやめようと思った。昨日も思ったし、その前も思った。それでも俺は引退してもテニスボールを壁に打った。 無心の刻。汗のぬるぬるとした感じ。髪の毛がべとつくのは仕方がない。俺は朝の爽やかな風が好きなのだ。それに逆らうテニスボールも好き。 身体を動かすのは気持が良い。何処にもやりきれない苛立ちや不安や欲望さえ、皮膚から骨の髄にかけて開いた複数の穴から、どろどろとした気持ち悪い 気体になって出て行く感覚。スポーツは良い。全て何処かへやってくれる。俺は着替える前に頭から水を浴びた。俺は長髪だからこれが好きじゃなかったけど、 どうにも今日は汗を多くかいたので、やむを得なかった。きっと春一番のせいだ。昨日より格段に気温が上がっている。季節すらこの俺を急かす。
もうやめろってか。知ってるよ。ただ朝はイライラする。やめられない。これは病気だ。これは病気。これは病気。これは病だ。
「気持ち悪」


ガールズドントクライ。彼女は泣かない。俺は水のしたたる髪をかき上げて声をしたほうに顔を向けた。水滴が俺の左目の視界を滲ませた。
「よくできるね、学校で水浴びなんて、尊敬する。あんたサバンナでも生きてけるよ。」
「うるさいなあ。何で今更学校来てんだよ。お前の偏差値で行ける高校なんてもうねえよ。」
「保健室に用があるだけ。」
は鼻で笑った。俺はこいつのこういった高尚な態度が気に入らなかった。クラスの皆もそうだ。は教室に入れない。教室に入れない病気だから、 教室には入らない。は滅多に学校に来ない。俺は小学生からこいつを知っている。は泣かない。たまに笑う。こいつは何も悲しくないから、 何も無い。この女には何も無い。

彼女は校舎へと歩を進める。柔らかい弧を描く両の足は白い。家でゲームばっかしてるからそんなんになるんだぜ。もやしみたい。



本は本を書きたいから書くんじゃなく、書きたいことがあるから書く。歌は歌いたいから歌うんじゃなく、歌いたいことがあるから歌う。 絵は絵を描きたいから描くんじゃなく、描きたいものがあるから描く。恋は恋をしたいからするんじゃなく、恋する人がいるから恋をする。
しかしどうだろう、あいつには何も無いのだ。何も無いというのは何も無いから何も無い。何かがあって欲しくても、何も無いから何も生まれない。 しかもそれは元々何も無かった訳じゃなくて後から自分が消した若しくは落とした若しくは破壊した若しくは否定した若しくは誰かが奪ったのだ。 の場合だと否定したの部類だと思われる。は生きてる自分を否定してるのだ。だって10歳の、綺麗な夏の光を浴びる彼女は美しかった。
俺たちはそこで無邪気に走り回っていた。緑草や蒼穹が味方だった。今はそうじゃない。今の俺達はひとりで生きていく準備をするために 岐路に立っている。岐路なんていっても申し訳程度に細い道が割れてるだけで、世の中の大多数のやつらは広い道を無意識に進んでいく。
俺だってそうだ。ここでわざわざ道を逸れるやつなんてそうはいない。なのにあいつは立ち止まって、太陽や木々にも別れを告げたくせに、 迷ったフリをして道草食ってる。嫌いだ。今のあいつは人じゃなく植物だ。やくざな生活をして、毎日を無にしてる。 そうなってしまったら解決方法を考えるしか後は無い。そこで留まる事は人として許されていない行為だ。しかし彼女には何も無かった。 子供の無垢も、大人の狡猾も否定したあいつには何も無い。あいつには夏の匂いが似合った。あいつはさわやかだった。全てを愛して、それを 真実だとか平気で言ってしまいそうな、あいつはそういうふうにさわやかだった。


神尾と橘が付き合い始めてから俺は永遠と信じていたものも終わる場合があるということを再び覚えた。それからめっきり、神尾との付き合いは減った。 部活も引退した俺達を繋ぎとめるものはもう何も無くなっていた。受験、受験、受験。何か大きな山が崩れていく感じがしていた。
待ち焦がれていたものはそこにはない気がしていた。全部が悪いと思った。のような悪い生徒は俺には悪影響だったのだ。俺は多分が羨ましいと思う。 何にも縛られないで、動物的に生きるのに、春一番に靡く髪は昔とはまた違った美しさを秘めている気がした。何も知らないフリをしていて、実はは 全て知っていたのではと思った。進路指導室や高校見学が頻繁になって、焦りが生じてくると余計にそれが真実のように思えて仕方なくなってきたのだ。 真面目に願書を書く自分が滑稽に思えて、でもそれを認めたくない俺はを否定しようと努力していた。今日は俺が保健室にの給食を運ぶ係になってしまった。

「だって深司君ってさんと仲良いんでしょ?」
「小学校同じだっただけ。」
「ふうん。ま、よろしくね。」

橘は女子である。俺は橘の思いがけない行動に心臓がどきりとすることがたまにあった。それは橘に好意を抱いているとか愛してるとかいう類のものじゃないし、 第一橘は神尾の彼女である。俺は橘の女らしいたおやかな動作や言動、匂い、声、顔、そう言ったものに性的な欲望を感じ取っているのだ。 橘は女子中学生の模範の様な人だ。爪先の透明なマニキュアや、薄づきのリップや、安い桃の香りは確かに子供らしいと言えばそれまでなのだが、また俺も 男である前に男子中学生であって、俺の魂は橘のそういった幼い色気に多少ながらも共鳴しているのだと思われる。そして男子中学生の模範の様な神尾は まんまと橘とくっ付いた。神尾は感情も性欲もストレートで邪気がない。俺はそんな橘と神尾はよく似合ったカップルだと思う。
それでもはこの二人を否定するのだろうと思う。実際はどうかわからない。俺はたまに話をするだけで、そもそも学校に来ない今のを近くで見ているとは思ってない。 けれどもやはり”はそういうふう”と思えてしまう。の見下した目や皮肉な言葉、無駄のない制服の着こなし、不摂生な生活。それらは何にも属さない、 の独立した、による、のための。俺はを観察していた。誰にも気づかれないを生活の中からいくつか見つけ出して、それをまとめて彼女という人間を完成させようと していた。そして完成は間近だ。俺は俺の中であいつという不条理な存在を作って無理矢理俺自身の逃げ場を作り出そうとしていたのだ。逃げ場というのはどちらに転ぶか分からない。 異常な道が逃げ場となるかも知れない。俺はそれのどちらかに賭けた。これはギャンブルだ。彼女と俺という対照な存在はひっくり返せば対となるのだ。
俺はに興味があった。朝のイライラすらも超えるスリルを抱えた。スリルというのは危険なだけで、本当は何も無い。

「給食。」
「どうも。」
「教室で食えば?」
「そういうのいいから。」
俺はをじっと見つめた。彼女は訝しげに、何?と言った。俺は彼女の持つ謎の巾着に興味を示した。
「何それ。」
「別に?というか関係なくない?」
「何の薬?」
「早く出てってよ。伊武のそういうのむかつくんだよ。」
あんた私と話せるからって対等に立てるのは自分だけとか勘違いしてない?つか小学校同じだっただけでそういう面されるとマジむかつくんだけど。 私からしてみればあんたも神尾とかと同じだよ。はそう言いながらシートから出した薬をカッターで粉々にして、それをあつあつのスープに溶かした。 俺はそれを見て、小学生みたいだと思った。が何か物に対して正常な働きをするというのが珍しかったからかも知れない。つまり俺はが薬を所持していて それを砕いてスープにいれることで吸収しやすくさせるという行為がすごく従順に見えておかしかったのだ。だからつい笑ってしまった。悪気は無かった。
はスープを俺の顔にぶちまけた。「御馳走様!」



一般中学生の色んな気持ちが倒錯したという存在は果たして俺達健全なる生徒には悪影響だったのだろうか。みんなを見て見ぬフリをする。でもそれは本当は無自覚だ。 俺とやつらの基準は多分違う。俺はどっちだろう。俺は神尾だろうか、だろうか。多分どちらかというと神尾だと思う。神尾に共感できる事がらは少ないけど、 と俺はどう考えても別物だ。だがそこで神尾とを比べてしまうとどうだろう。二人は一生交わる事の無い、いわば縁の無い存在の様に思える。二人が対になる事は 生命が終わるまで絶対に有り得ないのだろう。そうなるとと俺はやはり近しいものに感じる。俺は少なくともやつの考えてる事を理解する脳はある。 でもそれだけだ。俺は明日願書提出をするために高校へ行く。俺は黄色い球体を壁に打ち付けた。ラケットのグリップはぴったりとすいつくように俺の手中に 収まっている。手首とともに身体を捻る。球体は壁に帰る。しかしすぐ俺の元へ戻ってくる。俺の力は俺の力として俺の元に戻りそれはまた新しい俺の力のための 糧となる。俺は汗をかいた。制服でテニスをしたことを後悔した。ワイシャツが汗でぐっしょりしている。アツイ。体中の穴から俺の不安と憤りが強かに流れ出す。 それでも収まらない興奮、冷めない熱に再びストレスを感じる。今日は早く帰ってドリルをしなければならないのに。面接の練習もしなければならない。 自己アピール表も見直さなければ。ふと、理不尽だと思った。俺が高校受験を強いられるのも、三年になったらユニフォームを脱がなければならないのも、全部 奇妙な事だ。俺は一か月後事故か何かで他界しているかもしれないというのに何故目先のものに囚われて今を灰にしなければならないのか。その日の夜、 布団の中で俺は一人で怒っていた。

願書提出のあのだるい雰囲気が嫌いだ。在校生の奇異の視線が俺を捉えるのだ。出すものを出して、さっさと逃げた。高校を出てすぐ電車に乗って地元に戻った。
銀杏の並木道を抜けて、小さな坂を下って、細い階段を上り、低く短いトンネルを抜けると小学校にたどり着いた。校庭には人の気配は無い。今日は土曜日だ。 俺は小学校低学年の土曜日を思い出す。あの頃の土曜はまだ登校日であった。授業は午前中の三時間目で終わるので急いで帰宅して昼飯を済ませ、外に遊びにでたもんだ。 学校のあとの遊びってのは、日曜日に公園で遊ぶカードゲームやゲームボーイアドバンスとは違う。ゲームってのは大抵家で一人で済ませる、そういうものだった。 だから放課後の遊び、それも土曜日の遊びっていうのは他と違う。何より一度帰宅してるのでランドセルに構う必要がないし、遊ぶ時間もたっぷりある。 しかも学校のあとっていうのがミソだ。学校の堅苦しい雰囲気から解放された後のあの爽快感と今日は誰と遊ぼうかという謎の焦燥感に満たされる。 そして爆弾が爆発したみたいに体を動かして遊ぶ。ドッチボール、キックベース、林を探検、隣町まで自転車をこぐ。当時の俺達はいかに遊ぶ時間を 有効活用できるか、いかに小遣いをやりくりするか、それらに命をかけていた。そしてその先にあったものは人の生活から切り離された子供にしか見えない 美しいきらめき。あの頃の俺は未来の俺を立派な人間に違いないと思ってたに違い無かった。未来は決まって素晴らしいものだと思っていたのだ。

そして俺はが好きだった。についていくと楽しい事が必ずあった。彼女を先頭において森を進んだ。皆についてきた。あんなところにあった小川も、 全く知らない草花も、全部に教えてもらった。俺達は街の至る所に秘密基地を作り、駄菓子屋で買った菓子をそこで貪った。移動手段は自転車で、 乗れないやつや持ってないやつはケツにのるんじゃなく走って行動を共にした。第一、体の小さい俺達がのる自転車なんて、子供用のマウンテンバイクかなんかで、 後ろにのることはできないのだ。だから高学年の男の子達が得意げにママチャリを乗り回してるのをみて俺はうらやましく思っていた。彼等はカードゲームも強いし、 みたいに何でも街のことを知っていた。は多分、彼等に似た存在だった。だから俺はが好きだった。は常に俺の先にある存在で、そしてこれからもずっと ずっとと一緒だと思いこんでいた。子供の残酷さというのはそこにある。高学年に上がれば男女で遊ぶ事は少なくなった。自分たちは違う生き物なのだと 保健の授業で教えられた。そんな授業がなくたって俺達は自分の体が成長し異性とは別物になっていくことに気がついていたし、またここで先輩に要らぬ知識を 教え込まれたりしていたのだ。そして二つの性別は対立しあう。俺もを人としてではなく、女として見るようになってしまっていた。
「五年生になったら隣町のデパートに行こうって言ったじゃない。」の言葉。
テニスに出会ったのはその頃だ。子供ながらに何か夢中になるものが欲しかった。当時流行っていたコミックスに倣い、多くの子供がテニススクールに詰め寄った。 俺もその一人だった。俺は無自覚にもと俺の世界とを無理やり切り離して忘れようとしていた。女というものにはこれから一生関わる事がないだろうとも思っていた。 子供というのは一生とか、絶対とかいう言葉を好む傾向にある。少なくとも俺はそうだった。周りの意見なんて当てにならなくて、様々な事柄を独断で 決定することに快感を覚えていた。親に洋服やパンツを選んでもらうことも無くなった。がいなくてもテニスが俺の憤りを発散させてくれた。俺はそうやって から独立していったのだ。


その足で俺はの家に向かった。木々の多い広い坂を上ると道路があって、そこを渡ると閑静な集合住宅だ。レンガ造りのロータリーを抜けるとアヒル公園があって、 その向かいにの住む団地はあった。忘れることはない。昔、何度もの家を訪れた記憶がある。優しい両親といくつか上の兄弟がいて、生活感溢れる部屋が すごく居心地良かった。の部屋でよく64をした。俺の家からわざわざプレステを持って来たこともあった。彼女はスマブラが弱かった。俺は何度もスマブラをしようと せがんだ。に勝てることと言ったらそれしか無かった。は足も速いし、遊びも上手かったから、彼女に唯一勝利できるスマブラが好きだった。

俺は深爪した指での家のインターホンを鳴らした。久々に聞く音だ。懐かしい。俺も小学校までは団地に住んでいたのだが、中学に上がる前に、小学校のもっと向こうに 建設された高層マンション群に引っ越していた。俺の知る限りでも何人かマンションに住居を移していた。マンションの周りには沢山一軒家が建てられて、大きな公園が あった。子供たちは皆そこで遊ぶようになった。微々たるものだが、その頃からこの住宅街には活気が無くなっていったように思う。暗い、不気味、という訳ではなく、 ただ閑静で落ち着いた町へと姿を変えていただけで、今日たまに擦れ違う人々は昔と同様暖かく優しい挨拶をかけてくれた。けれどやはり人、それも子供がいないと いうのは大きく違う。俺達の頃は街で一番でかい団地で鬼ごっこしてよく二階のおじさんに怒られたものだ。だから余計に、インターホンの虚しく響く音に違和感とうか、 寂しさを覚えた。の住む城がこんなにも廃れてしまった事に数年越しに気づいたのだった。

「そこ、空き家ですよ」
幾度となく鳴り響くインターホンに反応したのか、向かいのおばさんが顔だけ出して言った。呆然と指を動かしていただけだった俺は吃驚して変な声を出してしまった。
「いつからですか?」
「もう一年も前に、マンションに引っ越したわよ。その服峰中でしょ?住所教えてあげようか?」
「あ、お願いします・・・。一応確認しますけど、さんのお宅でしたよね。」
「ああ〜、さんだったけど、でも二年くらい前に苗字、変わったようよ。」
「え?」
「君、峰中だからちゃんのお友達でしょ?知らなかったの?」
「あ、まあ・・・。」
「ふうん。まあ色々あったようよ。」
おばさんのささくれた手が住所の書いたメモをくれた。俺は軽くお礼をいって階段をとぼとぼと降りた。住所はあのマンション群の、俺の住む塔とは一番遠い塔に当たる。 これでは顔を合わせないのも無理は無い。中学は俺の塔側にあるし、要の無い限り奥の塔へは出向かなかった。それには月に数えるくらいしか登校しないのだ。
。もう観察の域を超えている。そんな名目で言い訳をする気は毛頭無い。俺はいきなり家におしかけてあいつを吃驚させるのが目的だった。例に沿わない俺の行動を見てほしかった。 俺の存在を焼き付けたかった。もう一度あの頃の空気を味わいたかった。それがどうだ。俺は自分からを切り離して別物として観察を続けていたというのに、どうした、 俺は何も知らないのだ。彼女のおかしくなった理由も、何も知らない。彼女はいつも俺の前を行っていた。中学から堕落したを見て、俺は優越に浸って、 彼女の前を歩いていることに歓びを感じていた。でもそれは間違いだ、錯覚だ、俺はあいつの前なんて歩いちゃいなかった。あいつは俺の歩く道の後ろにはいなかった。 信じられない。は最初っから俺なんか眼中になかったのだ。言ったとおりだ。あんたも神尾とかと同じだよ。同じだよ。同じだよ。同じだよ・・・。反響する。同じ。
俺が?何で?ずっとといたのに?何で?俺が君と関わる事を無意味だと言うの?

こんなに近くに住んでいたなんて知らなかった。俺は渡されたメモに書いてあった住所に辿り着いた。そして504号室の前で立ち止まっている。
ここにが住んでいるけど、でもどうだ、彼女はもう昔の彼女じゃないのだ。彼女に何があったのか?今確かめないでどうする?これからまただらだら時間が流れて、 あっという間に卒業式だろう?は卒業式へくるだろうか?俺は握りしめてるメモが汗で湿っているのに気づいた。
「深司君?」
振り向くとのおばさんがいた。俺はインターホンを押すまいか迷っていたところだったが引くに引けなくなってしまったようだ。小さい買い物袋を提げて立っていた。 俺はこの顔をよく覚えている。前に見た時より大分くたびれたふうに感じた。
「ならここには居ないわよ。」
「差し支えなければさんの住所を教えてくださいますか。」
俺はおばさんの苛立ちを感じ取り、丁重に申し出た。するとおばさんはちょっと待っててといって家に入っていった。俺はいよいよ訳がわからなくなった。
は今母親と暮らしていないのだ。そうなると父親と暮らしていることになる。の父親は陽気で子供に優しいが酒とギャンブルが好きな人だ。俺はのあういう態度の 裏を知ってしまった気がした。しばらくしておばさんは中から出てきた。
「これ、隣町ですよね。」おばさんから渡されたメモを見て俺はつぶやいた。
「そうよ。そこにがいるわ。分かったらもう帰って頂戴、悪いけど。」
「あ、ありがとうございました・・・。」
おばさんは俺に懐かしげな一目をおく。その目には昔の優しさを感じた。だが昔とはハッキリ違うものがあった。「おいお前、鍋がこげる。」
部屋の奥から聞こえた声に俺は驚きを隠せなかった。俺の知ってる、の父親の声だ。更にはっとさせられたのは、玄関に少しだけ見える野球のバットだ。 あいつの兄は野球部だった。今もやめていないのならきっとあいつの兄のものだ。いよいよ分からなくなる。はここにいないのに、以外の家族はここに存在しているのだ。 俺の問うような視線から逃げたおばさんは、気まずそうに目を伏せてバタンとドアを閉めた。俺はそこに突っ立ったままでいたが、ここまで来たらいくしかない。
俺は駅のほうへ歩いた。時計を見ると午後三時を回ったところだった。

(自分だけ家族から切り離されるのって、どういう気分なんだろうか。)

駅はマンションから近い。なんたって駅近が売りなのだ。俺は切符を購入して電車に乗り込んだ。これで今月、新しいグリップテープが買えなくなった。でもそれで良い気が した。俺はそろそろテニス離れをしなければならない。入学試験もあるし、今月だけでもテニスから離れなければならない。その間はテニスをしなくてもイライラを 発散できる何かをまた見つけなければならなくなった。なんたって俺の行く高校には男子テニス部が無い。俺はきっとテニスが嫌いだ。ひとりでやるテニスが本当に嫌いだ。
それでも俺はテニスをすると思う。正直言うとテニスってストレス発散に便利なんだよ。これからは小学校の近くのトンネルで壁打ちをしよう。壁打ちにグリップテープは必要無い。

隣駅で降りるとホームに見慣れた顔がいた。青学の越前くんだ。彼は以前あった時よりも更に成長したように思える。成長期か、いいね。
「不動峰の・・・伊武さんじゃないッスか。」
「やあ久し振り。じゃあね。」
「連れないッスね。どこいくの?」
「まあね。」
「答えになってねえ。あ、高校どこ受けるの?」
「A高校だよ。」
「ヘエ、テニス・・・やめるんだ。」
越前くんは挑発するような言葉を俺に投げかけた。俺はまだそれに答える事ができなかったので、適当にはぐらかした。
「持病の腰痛がね。あ、電車いっちゃうよ。じゃあね。」
「うわっ、ッス!」
「テニス頑張れ。」
俺がぶつっと呟くが越前くんは気づかなかったようだ。越前くんを乗せた電車は大きな音を立てて走って行った。



俺はおばさんから渡されたメモを再び開いた。この住所には覚えがある。多分、神尾の家の近くだ。駅を出た俺は久々に来た隣町の変わりように、 これは家まで辿りつくのに手間が掛かりそうだと思い、仕方なく携帯電話を取り出して、慣れた番号にかけた。
『もしもしーアキラでーす。』
「神尾。××の、×丁目×番地ってどこ。」
『あ〜、え〜と、駅出て直進して、あの、公園のとこだよ。分かるだろ?』
「直進すれば公園があるんだ。分かった。」
『何で?何しに行くの?てかの家行くのか?』
「え、何で?」
『だってそこらへんに住んでる峰中生ってくらいだし。』
俺は神尾がという名前を発したという事実に驚いた。神尾という呑気な中学生の記憶の片隅に彼女の存在がある事が信じられなかった。 でもはクラスメイトだし、家が近いのなら何度か顔を合わせていたっておかしいことではないし、むしろ至って自然な事だ。
「深司って最近ちょっと、ヘンだぜ。あ、杏ちゃんきたから、じゃあなー。」
電話はそのまま切られた。プープープー。この虚しさを表現するにはどんな言葉が適切だろうか。俺は携帯をしまった。公園へ向かった。
俺、何してるのかな。家帰って勉強しなきゃいけないのに。の家突き止めて何しようってんだ。何もすることはない。がいて、きっとそれだけだ。 あいつには何も無いんだ、本当に本当に何もないんだ。俺がいったら、俺があるということになるか?それは多分次第だと思う。


駅前の商店街を抜けるとすぐに公園があった。商店街の風景も大分変わっていて新鮮だった。慣れない町に苦戦しながらも俺は神尾のいうのマンションへと 辿り着いた。俺の住むマンションより少し古いくらいか。しかし20階建てというだけあってかなり威圧感がある。公園は人気が少ない。市立公園のようで 周りには緑が多い。マンションの入り口には自転車置き場がある。俺はマンションに入ろうとして立ち止まった。立ち止まりたくて止まったわけではない。
ここまで来て諦めるほど腰のぬけた俺じゃない。だけど入れないのだ。なんとこのマンションはセキュリティマンションで、ホールに入るためにはパスワード 認証が必要で、そうじゃなければ部屋番号を入れて住居者に認証してもらう仕組みになっていたのだ。今どきのマンションはどこもこうなのだろうか。 俺は何をすればいいのか分からず認証の液晶画面を凝視し、考えた。部屋番号を押してを呼び出すしかないことを要約理解したときだった。

「何してるの。」
真空管の音がした。その声は俺の中で増幅する。は俺を訝しげに見ていた。土曜日にも関わらず彼女は制服だった。俺はを訝しげに見た。俺も制服のままだった。
(今日三度目だ、インターホンの前でうろたえたの。)

は俺を家に上がらせた。の家はマンションの最上階だった。表札はとなっていた。中は必要最低限のものしか置いていないようで、酷く殺風景だ。
昔のあの暖かい家庭の面影は無く、ただ空気の澱んだ薄汚れた暗い空間だった。殺伐とした部屋には大きなベットだけが置かれており、日当たりは良いだろうに 締め切ったカーテンがの閉鎖的な何かを物語っていた。
「なんだこれ、」
そして驚愕したのは部屋中に散らばる白くて固い何か。銀色のシートは無残に積まれていて、異様な光景だった。
「踏まないでね。適当に座って。」
は小さな簡易冷蔵庫から烏龍茶の小さいボトルを出して、俺に寄越した。自分は飲みかけのコーラを飲む。は俺が炭酸が苦手だということを覚えていたのだろうか。 俺は床に胡坐をかこうとしたのだが薬のような物体が邪魔で、しかも薬というものは何か神聖で大切、守らなければならないものという意味不明の概念が俺の中にあって、 俺は仕方なく体育座りを強いられることとなった。
は馬鹿でかいベットに腰かけて俺を見下ろす形をとった。思えば昔からそうだったかも知れない。は頼る存在ではなく縋るものだったかも知れない。
しかし昔の事というのは曖昧だ。俺がテスト勉強しても本番じゃあまり役に立たないように、昔の記憶というのも俺の頭の中で砕けて、どろどろしたものと混ざり、 俺の体から何処かへ発散されていってしまった可能性もある。そうだとしたらとんだ誤算だ。俺のこのイライラを解消する一番良い方法だと思っていたことが逆に 俺を縛り付けていただなんて、酷い。

「誰もいないのか。」「まあね。楽々よ。」「何それ。泣きそうな顔してるくせに何強がってんの。」「だまれよ。」「だまれないんだけど。」
・・・人うち来たのすごく久々。は言った。
「おばさん達は?」
「何で伊武に言わなきゃいけないの。」
「何で俺に言わないんだよ!」
は泣きそうな顔をいっそう悲しくさせた。嘘が下手とかじゃなくて、多分、こいつも気づいてほしいんじゃないかと思う。まるで子供の演劇発表会だ。
俺はウーロン茶を飲みながら彼女に様々な質問を投げかけた。彼女はそれに渋々答えた。すべてまとめると、まあ、簡潔に表せば家庭崩壊といったところか。 もそれをあまり重く受け止めておらず、かなり適当な回答をされた部分もあるが、簡単に説明すると、中1の時親が離婚し、と兄弟は父親とともにあのマンション群に 引っ越し、母親はそのまま団地暮らしをしていたらしい。だから苗字が変わっていたのだ。その一年後、何があったのか知らないが両親は再び寄りを戻し母親は団地を引き払って 達と復縁したのだという。まあ結構ありそうなエピソードだが、それだけじゃない。
「じゃあお前なんで一人暮らしなんだよ。」
「別に、気分だよ。」
「嘘だね。俺は今お前の家に行ってきたけどこんなマンションの家賃を払えるほど裕福には見えなかったよ。」
「自分で払ってるもの。」
「・・・どういう意味?」
「・・・さあね?」
はベッドにゴロンと寝転がった。セーラー服に皺ができそうだ。空になったコーラのペットボトルを俺に投げる。それは俺の額に命中した。 投げた際にボトルから零れた微量の水滴が落ちた。それは散らばっていた錠剤のひとつを小さく侵した。
「お前、自分がかっこいいとか思っちゃってるの?」
俺は純粋な疑問を投げかけた。
「そういうふうに見えるの?はあ・・・知らなかった。もう何も見えない。分からない。何で伊武がいるのかも。」
「それって弱音?」
「そんなはず無いじゃん。伊武に吐く弱音なんてないよ。」
「ねえ、お前、俺のせい?」
覆った袖の下から見える目は俺に向けられた。
俺は床に散らばっている錠剤をひとつぶ、またひとつぶ摘まんでは、一か所に集めながらの言葉を待った。
「いや、私のせいだよ。誰も悪くないし。何も無いって、素敵だと思ってたから。」
「・・・はあ?何それ?じゃあ何でそんなツンケンしてんだよ。本当は周りが悪いと思ってんじゃないの。あったまくるよ、のそういうの」
「そうかもしれないね。私昔みたいに素直じゃないし。可愛くない。だからもう何も分からない。」
「そういうのがむかつくっていってんじゃん。何でお前そんなに中途半端に俺を肯定するんだよ。」
「じゃあ今まで言ったこと全部嘘って言ったら?」
は寝っ転がったままで首だけ向けてニタリと笑った。その目は確実に俺を誘っている。乱れた制服は今誰のためでもない。 俺のためにある。俺は憤った。こいつがもし誰か変な親父に体売って金貰ってるとしたらきっと俺はこいつをめちゃくちゃに殴ってその親父を殺してから そしてこいつを犯すのだろう。俺の神聖なる記憶の中に眠るあの夏の日差しを受けた小麦の肌をもつを汚すものは誰であろうと殺してやる。

俺はの腹の上に跨った。の髪を掬うと橘とは違う匂いがする。外界の香り。をイメージするもの。俺の街のヘドロが混ざった小川。俺達が遊びまわった 不法投棄のある森。断水の夏休み。蒼穹なんかじゃない。俺達にはそう見えていただけで、本当の空は工場からでるガスで淀んでいた。
醜悪の中にある美の、そのまた中にある醜悪、それを全部まとめて固めてオーブンで焼けばきっとになるのだろう。ほら、さあどうだ、美とは必ずしも正義であろうか?

「ちゃん。」
俺は懐かしい名前を呼ぶ。の唇をなぞって、黒い瞳を覗き込む。俺はちゃんが好きだった。愛してた。お金が必要なら俺がどうにかする。 どうしようもないのなら俺が身代りになろう。だからどうか、どうか、俺のこの気持ちを否定しないでほしい。中学生の恋愛?くだらない?どうかそういう 言葉で片付けないでほしい。俺はずっとに認めてほしかった。どうしてか彼女の否定する物ごとは沢山俺に当てはまってしまう。そうして俺は彼女とは一生 対等には立てなくなってしまう。俺はそれに苛立ったし、悲しくもあった。どうしたってこいつの闇は深すぎて、こいつが何かを、俺を肯定することなんて絶対 無いと思ったから。でもどうかその純潔は保ってくれ。俺以外に君の埋もれた美しさを見せびらかさないでくれ、一生の絶対の、俺のお願い聞いてくれ。
「伊武にはわかんないよ。」
「なんでよ。」
「私深司が好きだった。」

永遠に君のために生きられると思う?永遠に君は俺のために生きられたというの?俺達たったこの前まで精子と卵子だったんだよ?存在論も認識論も精神論も 真実の哲学も、何も俺達のあの煌びやかな日々を説明できないし、させない。夏の、夏の風。ぬるい。何か。草と土の混じった匂い。太陽の匂い。 太陽の中心を見る。焼ける肌。カブトムシ・・・クワガタ。自転車の変速。アイス屋さん。全部元に戻せたら多分一番手っ取り早い。
でもそんなことはできないんだ。戻る事はできなくて、今をいかに受け入れるかが俺達みたいな馬鹿な人間に一番適する優しい優しい問題だ。

俺は何もすることなく、を見下ろした。昔の面影を重ねないように必死になると、目から涙が出てくるのだ。俺はちゃんのことを考えると涙が出る。 俺は制服の袖でそれを拭った。腹の奥から熱い何かが込み上げて来ていよいよ止まらない。俺はこの感情を人に見せたことが無かった。 誰か一人の人間を大切に思ってるなんて全然カッコ良くなんてない。誰にも知られないで、俺の中でその気持ちが死ぬまで続くかどうか試していたかった。 その気持ちが永遠だったならば俺はきっと老いて死んでも棺桶の中でああ若いころに戻りたかっただなんて思わないのだろう。俺の計画は崩壊した。
でも俺は今になってそれが正しかったと思うのだ。俺はその重すぎた幼い愛情を抱えきれなくなっていた。計画は泡になった。それでも俺の中では生きている。

「ごめん。」
「あ・・・うん。」
「泣くのいつも俺ばっかだ。嫌になる。」
「・・・、そんなの」

は一瞬にして泣き崩れた。正直泣かれても困った。俺の不注意な言葉での繊細な何かを壊してしまうかも知れないという不安が生まれたのだ。
だってが泣くのを見たのはあの夏の日に、自転車から転げ落ちた時だけだった。俺の中で生き続けたちゃんは今数年の時を瞬時に経てへと変化した、確実に。

終わることの無い恋なんて全て消えてしまえ。爆発して死んでしまえ。塩素の塊を掴んではいけないと先生に言われたのに。俺の汗はのセーラー服に滴り落ちる。 熱い。熱い熱い。春が来る。その前にどうか俺達のちいさいちいさい恋をどうにかしてしまってくれ。そうして時間は巻き戻る?そんなことはない。むしろ 六倍速の早送りだ。俺たちはその波にのって市民プールをサーフィンしよう。の唇に小さいキスをする。罪も罰もキスも愛も全部、全部俺が受け止めてやる。 の空虚の悲しみを俺が天にばら撒いてやる。それはすべて夏の大三角になる。その前に春の大曲線を作らないか。知ってるか。理科で習っただろ。
君は覚えているだろうか。小学生の理科の宿題を思い出す。俺達アヒル公園で、月の観察をした。日毎姿を変える月を観察して記録にまとめた。
俺は月の輝きには気づかずにずっと君を見てた。君はどうだっただろうか。教えてくれないか、今すぐに。覚えてるだろ、俺達まだ中学生。たったこの前の出来事さ。





NO FEEL NO CRY
(2009/03/12)