夏のゆうぐれはわたしの子宮をうずかせた。そして、そして彼のセンチメンタルを感じさせる眼光は、優しく鋭くて。
きれいな夢をみた。日吉が歌をうたっていた。日吉がわたしを殴った。心地の良い朝、そんな夢に混ざれたらと今日もわたしは生きている。


家を出たら景吾の車が迎えに来てて、いつものようにそれに乗って学校へ登校した。 私はお金持ちなんかじゃないし、これといった特技も無い、至って平凡な女学生である。けれど私は、景吾のモノだった。 景吾は私の顔が好きだと言った。私は別に景吾が好きだった訳じゃないけど、タイミングって重要だと思うのだ。 景吾と付き合ったら、世界が変わって、何か面白い事が起きるかも知れないとか、本気で思っていたのだ。 私はいつもそうだ、今までずっと、風当たりの強い道をわざわざ選んできた。 けれど私が期待しているような地球外生命体だの、ノストラダムスの大予言だの、異世界旅行だの、といった不思議な出来事は、今までに一度足りとも起きた例が無い。 それが逆に不思議で、同時に大きな絶望だった。だから私は毎日生きて死んでを繰り返してる。死んで夢見て目覚めたら、何か違うかも知れないとかって。

(けいごはこんなわたしをきっと知らないんだ。なんて可哀相なけいご。)



今日の昼食は食堂でとった。景吾と一緒の私は全校生徒からの視線を浴びた。 私はこんなに人の注目を引き付けることができるのに、どうして私は人間なんだろか。ああ、意味が分からなくなった。

迷惑でしかない生徒の注目を払いのけるように食堂をあとにする時、景吾の部活の部員に遭遇した。

「よお鳳、日吉」
「跡部さん、今日は彼女さんと一緒なんですね。羨ましい限りです」
「まあな。あと、今日はミーティングで解散だから、自主練したきゃ監督に言っとけよ」
「わかりました。日吉行こう」

鳳という子が私に微笑みかけるけど私は見て見ぬふりをした。そして二人は南校舎のほうに去って行った。 これが最初の日吉との出会いの物語。そう、なんでも無かったの、私達。夏の始まりの出来事。




時がたつのは残酷。くだらなくて暑苦しい長期休暇は開け早くも夏の終わりが近付いていた。景吾は相変わらず私を好きでいた。 彼の寵愛を、丁寧に受け止めることが私には難しかった。そもそも彼に恋愛感情といったものを抱いたためしがないのだ。 だからと言って、別れたいとも思わない。彼といると、少しは私の求めてるものに近付けてる気がする。 著名な映画監督や作家、ハリウッドスター、今をときめく芸能人など。沢山の人と会わせて貰えた。 おいしいものをたらふく食べたし、豪華客船の一室では初めてのセックスもした。 景吾といると笑いが絶えないけれど、けれど。私は別に、笑いなんか求めてなかった。厭らしい私。



近頃日の落ちるのが早くなった。空はどんよりと曇っている。 秋の始まりを感じる放課後、部室に顔を出すと、鳳君と向日君が部活の準備をしながらおしゃべりしていた。 彼らは唐突に現れた私を珍し気に見た。

「お、じゃん。跡部はいないけど、どうしたの?」
「待ってれば来るとは思いますけど」
「じゃあ、待つ。二人で何話してたの?楽しそうだったけど」

「二年の日吉っているでしょう、あいつの話ですよ」
「マジあいつおかしいから」
「どうしたの?」
「なんか、夜の校舎でコックリさんとかしてるらしいっす」
「常識的に考えてやべーだろ?前からあの目はイってるなと思ってたけどよ」
「俺なんか前に、南校舎の一階のトイレにいるらしい幽霊を一緒に見に行かされました」
「いなかったんだろ?マジ無理だわ。つかあいつ先輩に対する礼儀もなってねーしよ、ムカつく。いっちょ焼きいれるか」
「やめなよ」

私が笑って言うと二人は、は優しいな〜とか褒めちぎる。 そこで部室のドアが開き、運がいいのか悪いのか、例の部員がお出ましした。

「日吉」
「鳳、てめえの声でかいんだよ。外まで聞こえてたぜ」
「あー盗み聞きかよ?気味ワリィ。早く行こうぜ鳳」

二人が去り、部室内には当然私と日吉だけ。気まずすぎる、だけど、そんなスリルも嫌いじゃない。

「・・・コックリさん楽しい?」
「・・・」

「おい何してんだ」

景吾の声だった。振り向けば眉を顰めた景吾の顔があった。

「二人で何してた?言ってみろ、日吉」
「・・・別に何も」
「・・・。フゥン。行くぜ」

景吾の鋭い目は日吉をグサグサと突き刺していた。日吉は無表情でいた。どこか影のある、なんとなく暗い印象を受けた。

私はそんな日吉が好きだった。






日吉はいつも皆より遅れて部室に来ていたので、私はそこを狙って部室に通い詰めた。 日吉と呼んでも無視されるが、若と呼ぶと体がぴくりと反応して、なんだか可愛い生き物だなあと思っていたし、 それに日吉は私と似ている気がしてやまなかった。それでも日吉のほうが私より遥かに超越していて、だからこそそんな彼に魅かれていた。

「今日は修旅の班決めでハブられたんだってね?聞いたよ」
「・・・」
「そんな日吉も可愛いね。あ、今日食堂で知らない女子といたけど誰?というかお弁当忘れたの?馬鹿だなあ、可愛いし」
「関係ないでしょ。ただの友人です」
「制服も真面目に着てて、地味な子だったけど、顔は可愛かったね。肌が真っ白だったし」
「・・・ただの一年の図書委員ですよ」
「一年生かあ、先輩嫉妬しちゃうな・・・」
「馬鹿ですか・・・くだらない」


その日はテニス部の応援をほったらかして真っ直ぐに図書室へと向かった。下校時間も近かったので、図書委員の二人以外誰もいなかった。 運良く、その片方は日吉が言ってた女の子だった。更に運よく、もう一人の子はその子に後片付けを押し付けてさっさと帰って行ってしまった。

「日吉君と付き合ってるの?」

面識もなく、ただでさえ目立つ私に突然話かけられた彼女は、心底同様しているようだった。 食堂で見た時よりも肌が白く、髪がびっくりするほど黒くて、純朴そうなうら若き美少女という印象を受けた。

「そんな、日吉先輩とはただの知り合いで・・・」
「そっか。図書室で知り合ったんでしょ?」
「えと、はい、たまたま本の趣味が似ていて・・・それで」
「キス、した?」
「そっそんな関係じゃないです!」
「日吉のこと好きなの?」
「そんな・・・私には届かない方です」
「ならなんで仲良くしてるの?」
「え?」
「知ってた?日吉のおちんちんってホーケイだよ」
「!!!」

女の子は薄ら涙を浮かべて、その場に立ち尽くしてた。私はいい気味、と思った。
(こんな最低で最高なよるにはモロコプラスをのんでみたい。そしてアルトラバイオレンスなゆめをみる。日吉をおかすゆめ。日吉におかされるゆめ。世界爆破するゆめ。)




今日も部室に日吉はいた。ジャージに着替えるためにズボンを脱いだ。彼は私から隠れるように着替える。 私は近付き、すぐそばのロッカーに寄り掛かりながら彼の筋肉の浮き出た体のラインやボクサー型のパンツなどをジロジロと舐めるように見た。

「気持ち悪いので見ないで下さい」
「それって私が?それとも日吉が?」
「・・・どっちもじゃないですか?」

日吉は優しい。こんなにも優しい。

「日吉、最近あの子と一緒にいないよね。良かった」
「関係、ないでしょう」
「へえ、"あの子"ってだけでよく分かったね。やっぱ好きだったんだ。でも残念だね、日吉には私がいるもんね」
「・・・あんたにだっているでしょう」

景吾とは今まで通り関係が続いていた。豪華客船にだってのるし、セックスもする。 そして私を全ての世界から遮断しようとするかの如く束縛する。最近はそれが激しくなった気がしてる。

「私には日吉しかいないよ」
「・・・」
「・・・あの子が日吉に冷たくなった理由、私だよ。もう気付いてるでしょ」
「・・・最っ低、ですね」
「自分でもそう思う。日吉は包茎だとか言ったしね。アハアハ。本当は違うもんね、ごめんね日吉」
「、あんたどうかしてるよ」

日吉の歪んだ顔が愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて愛しくて仕方がなかった。だけど日吉をそうさせる存在に殺意が沸いた。 私のために歪めば良いし、私にだけ見えてれば良いのにと思う。上半身裸のままの日吉を犯したい衝動に駆られる。

「日吉が悪いんじゃん、私だけ見てればいいのに」
「あんた、跡部さんがどれだけあんたのこと大切にしてるか分からないんですか?」
「分かるよ、でも答える必要は無いでしょ?日吉が存在してるから。それに包茎かどうかなんて今確かめれば良い、今よ」
「・・・あんた、可哀相だ」

日吉の薄らと開いた唇に自分のそれを押し付けた。目一杯舌を追いかけた。日吉は案外抵抗をしなかった。やっぱり日吉は優しかった。 私みたいな他人なんかに同情してくれてる。そこに愛は無いのに私は喜んでる。景吾もこんなんだろうか? 乳首を丁寧に舐めると、日吉の可愛い鳴き声が聞けた。尻に手を這わせて撫で回した。おへそにキスして、股を擦ると、そこはすっかり熱を帯び大きくなっていた。 そんな日吉を愛しいと思って、丁寧に、大切に、神聖なる日吉を汚していった。とても厳かだった。彼は抵抗さえしなかった。
氷をゆっくり溶かしていくような、そんな性交だった。




その日を境に私は日吉とより親密になっていった。日吉は優しいから、景吾を悲しませるようなことはしなかった。 狭い部室や南校舎のトイレで、私を沢山慰めてくれた。私の頭を抱えながら喘いで、あんたは本当に可哀相な人だとしきりに言ってくれた。私のことなんか、なんとも思ってないくせに。



「お前最近、部室の出入りが頻繁じゃねーの」
「だって、景吾のカッコいいとこ、見たいよ私」
「バーカ」

景吾は誰の前でも、何のためらいもなく私にキスをくれる。日吉にはそんなことは無理だ。 日吉は優しいから隠れてキスをするし、しかもとても恥じらいを含んだキス。景吾と私がキスしてるのを、彼は無表情で見つめていた。そこには何も無いように思えた、何も。




日吉の冷たいキス。冷たい声。冷たい眼。全てが暖かだった。 滑らかな陶器の肌が、涙で滲んだ目玉が、柔らかで良い香りの髪の毛が、彼の固い心となんとか混ざり合って、そしてそれに魅了された。 日吉に夢中で、いつしか周りさえも見えなくなってしまっていた事に要約気づいた頃だった。南校舎で交わる私たちは、鳳を含める数人のテニス部員に目撃されてしまった。 日吉と敵対している二年生に見つかったのが悪かった。あっという間に噂は景吾の元まで届いた。何かあればすぐ景吾の元に情報が集まる。氷帝はそんな場所だ。 そしてその時には何もかもが遅かった。景吾との約束をサボタージュしてまで日吉に会うようになっていたし、私の熱心なアピールに対して日吉はわずかに心を開き始めていたのだ。

「、お前日吉と随分仲が良い様だな」

壊れる音はしなかった。漠然と、終われる、と思った。私って最低な人間だよなあと思う。だからって何なんだろう。 私が悪いのは自覚していたが、それを改善しようと微塵も思えない自分に恐怖すら覚えるのだ。 景吾とも日吉とも、相思相愛になった記憶なんてこれっぽっちも無いって言うのに、それなのに自分が巻き起こしてしまった大嵐に嫌気がさした。 学校はこの話題で持ちきりだ。この学園で安心して生きていくことはもうきっとできなくなった。

「躾がなっていなかったのは俺の責任だ」
私たち二人の関係を、全校生徒が咎めただろう。だがしかし、景吾はそれを許さなかった。この状況で尚も私は悪くないと言う。 お節介よと言う私に景吾は、これくらいさせてくれだなんて言う。景吾は、もしかすると日吉と同じくらい、優しい男なのかもしれないと思った。 日吉とは金輪際関わらないという約束と引き換えに、景吾と私の関係は続いた。学園の生徒も表面上はそれを許したかの様に思えたが それは景吾の前だけで、陰では陰湿なイジメが始まっていた。イジメと言っても些細な事だし、私は一日の殆んどを景吾と過ごしていたので 苦痛と思う事は無かったけれど、日吉は違う様だった。以前から悪かった日吉への風当たりが、一層悪くなったらしい。


景吾の息のかかった人達の陰謀なのか何なのか、それから暫く学園で日吉と会うことが無くなった。 学園で会わなくなるというのは生活から日吉を遮断されたのと同じだ。私たちの密会は決まってこの校舎で密やかに、そして厳かに行われていたのだ。 秋の生温い風は重たい雲と、そして日吉の思い出と共に過ぎ去った。私の生活からあのドキドキとした、未知数の感覚は消え去った。 日吉との性交を思い浮かべてはかき消した。受験が始まるので私もうかうかとしてはいられなくなったのだ。 私は外部受験を視野に入れていた。景吾や日吉や、日吉との記憶がつまった校舎と自分を切り放すのがベストと考えていた。 氷帝の環境は私の将来にとってはかなりプラスになるものだったし、元々は高校へのエスカレーター目的で入学したのだが、景吾という存在はとても大きすぎた。 日吉との記憶、だなんて、そんなのは都合の良く聞こえる言い訳だ、そう思った。だって目をつむればそこに頬を赤らめたあの日の日吉がいるのだ。 私はとうとう自分がおかしくなり始めているのに気づいていたのだ。そして私は何よりそれを恐れた。変わっていってしまう自分が、異常だと考えた。


そして重苦しい冬が始まろうとしていた。二学期末のテストを終えた放課後、教室で景吾を待っている時、久々に日吉の姿を拝む機会ができた。 誰もいなくなった教室で一人、外を眺めていた時だった。近頃は日の落ちるのが早いなあ、なんて思いながらふとテニスコートを目にすると、 部室の影に微かに日吉の姿を捉えることができた。かなり久しぶりだった、鳳達に見つかってから一度も会っていないから、多分二か月ぶりくらい。 あああ、日吉、肩幅広くなったんじゃない?背もちょっと、伸びたんじゃないの?成長期だもんね。アハアハ、日吉、球拾いさせられてる。 三年はもう引退したし、部長は日吉になった、の、かな?景吾が日吉を選ぶだろうか。元々部長候補だったのにもし日吉が部長になれなかったら、 それってきっと、絶対、私のせい、じゃん。あ、投げた、ボール。ボールは人に向かって投げるものじゃないのに。あれ。え。あ、これやばくない?やばい、日吉、あんな、あんな日吉、。

鳳の取り巻きの中の一人と日吉が、殴り合いの喧嘩を始めたのが見えた。私は一目散に教室を飛び出した、けど、廊下に出て立ち止まってしまった。 今私が行って、何になるって言うのだろうか。今更日吉に会ったところで私はもっと日吉を苦しめる事になるんじゃないのか。 私は縺れた足で階下の使われていない教室に入り、少しでも近くで日吉を見ようとベランダから顔を出した。案の定、自分の教室より遥かによく見えた。 日吉の表情すら伺える。見たことない目、してる。狼男とか吸血鬼を彷彿させる、鋭いナイフの様なまなざしだ。血走ったそれで相手を睨みつけて、 獲物を捕らえるかのように突進して、突き倒して、めちゃくちゃに殴りつけてる。イった目をしてるけど、冷静な顔つき。周りが見えていない様子だった。 相手の男の子は日吉より遥かに大きい体をしてるって言うのに、日吉にほぼやられっぱなしだ。日吉は武術を心得ているから当然なんだろうけれど。

どうやらやはり私の出る幕は無かったようだ。決着がついた所で、野次が呼んだのであろう教師が駆けつけて日吉を引き離した。 教師は無抵抗の日吉を意味無く羽交い締めにした。これでは誰がどう見たって、日吉が悪者では無いか。 大の男に囚われてる日吉、口から血を流して、冷静に大衆を睨む日吉。何だって言うんだ。何故そこまでして私を縛り付けるのか、この人は。




「日吉、退部になるかもしれないんですって」

図書室の奥のロシア文学の開架は私のお気に入りだった。そこに蹲ってツルゲーネフを読む私に鳳は、見つけた、とでも言いたそうな顔で言った。 この場所は私にとっての希望だった。日吉はこのロシア文学の棚の裏の、日本の昔話の欄が好きなのだ。すきあらば私はここを訪れた。 だから神聖な場所に侵入してきた部外者である鳳に私は思い切り不機嫌になった。私はこいつが嫌いなのだ。


『人生に夕べの影がさしはじめた今となってみると、あの速やかに通りすぎた、朝まだきの、 春の雷雨の思い出にもまして、さわやかに、なつかしいものが、なにかほかにわたしに残っているであろうか?』


その一文をぐるぐると読み返す。私はツルゲーネフの様にはなりたくない。ああ、やだやだ、なりたくなんてない。

「シカトですか?先輩のおかげですよ?」
「・・・何で?」
「本当に何も知らないんですか?うけるんですけど」
(うけねーよ。死ね。)
「見りゃわかるでしょ?私、景吾に監視されてるのよ」
「ふうん」
「・・・」
「あ、あと日吉に彼女ができた様です。言いたかったのはこれです。誰か、教えてほしいですか?」

私は読んでいたツルゲーネフをバタンと閉じた。鳳はニヤニヤと笑う。あの子ですよ、図書委員の。 鳳の親指の先には、ああ、例のあの子だ。肌の白い、黒い髪の女の子だ。日吉の好きそうな、幽霊みたいにきれいな子である。 その時の私の絶望といったら、無い。私は誰を待ち、なにを期待していたの。こんなのは青春のたったの一ページでしかなくって、 日吉なんていう人間はこの世に沢山いて、それでもその中のたった一人の日吉に、私はこんなにもときめいて、踊らされて、うそぶいて。

鳳は満足げな顔を残して去った。私はツルゲーネフの「初恋」を本棚にぶん投げた。バサリと、数冊の本を道ずれに床に落ちた。 それでも足りなくて、今度は足蹴りを入れた。以外にも本棚は大きく揺れた。バサササ、本が落ちる。ああ怒られる、本の神様に怒られる。
騒ぎに駆け付けた図書委員が、私の運の悪さを物語っていた。

「先輩、だ、大丈夫ですか」
「大丈夫だと思うの?」

ああ、図書委員で白い肌で日吉の彼女であるこの子は何も悪くないって言うのに、悪いのはすべて私なのに、私さえ奪えなかった日吉の気持ち受け取ることができたこの 少女が、ああ、もう憎いとすら思えないのだ。ただその現実はきっと揺るぐことがないのだろう。すべて一致する、南校舎の窓で共に語らった 彼のまなざしの先にあったこの図書室、今全て分かったのだ。私の要らぬ期待は報われる事などなかった。あの滑らかな日吉の肩に、決して、 もう決して触れてはならぬのだと、今、たった今思い知ったのだ。

女の子は尚も私を気遣おうと距離を縮めてくる。ああやめてほしい。もうほうっておいてほしい、日吉みたいに、冷たくしてほしい。 私のこの感情は醜悪以外の何物でもない。日吉の愛するものに穢れを覚えさせてはならない。ならない。ならない。ならない。 床に散らばる本の中から先ほど読んでいたものを取り上げて、私はそれを片手に腕を振り上げた。なんてことをしようとしてるのだろうか。 しようとしてる・・・ではない。私は本当にしようとしたのだ。まぎれもなく私は、そう日吉の彼女に向かって、ああなんてこと、もう止まらない。

しかし振り上げられた私の右腕は、ごつごつとした冷たい手によって遮られてしまった。振り返るとそこは幻だった。

「本棚蹴ったの、あなたですか、本、落ちてきたんですけど」

日吉、日吉、日吉、日吉日吉日吉日吉日吉日吉日吉日吉。日吉?日吉だ。ああ、最悪だ、この展開は最悪だ。 周りに人だかりができてきた。これでとうとう私は悪者だ。醜い、そう、日吉の手によって晒しものにするのが一番だ。 しかし日吉はそれを見計らってか、そのまま私の腕を引いて人垣を押しのけ、一気に廊下を駆け抜けた。 わあ、青春だね、日吉、だなんて昔の私なら言ったのだろう。しかし私は日吉が向かっている場所が南校舎だと分かった途端、 足を止めてしまった。日吉は戸惑いも見せず、ただ無表情で、私を見下ろす。前髪の間から覗くその狡猾な瞳は何も語らない。

「駄目だよ」
離してと、呟くと、日吉は緩やかに手を離した。ぶらん、と日吉の手が行き場を無くす。 どうして尚もこの人は、私を縛るのだろうか。私たちまだ、少年少女なのよ。何故に14の少年が、私の人生を狂わせると言うの。

「何で図書室にいたの?」
「好きな本を読んで悪いですか」
「いつからいたの」
「ずっと、ずっと前からあなたと一緒にいました」
「・・・は?でもあの図書委員と」
「・・・俺より鳳を信じるんですか?」

いじらしい瞳を向けないで!ああ、こうやって日吉は私を攻略していくんだ。その手にはのらない。のらない。すき。日吉が好き。鷹の様な眼が、そよ風みたいな息が、細い体が、 優しい、愛しい、好きだ。すき。抱きしめたい。戻りたい。私が日吉を翻弄する、あの日へ帰りたい。 私は日吉の上に立っていなければならないのだ。日吉はそんな私についてこなければならなかったのだ。それなのに全部が壊れてる。 挙句の果てに、あんな姿見せちゃって、本当私、駄目だわ。この先日吉より愛しい人を見つけなければならないのに、生きるってそういう事なのに、 私まだ15歳なのに、何で、こうも日吉は私という人間を全否定するの。私、駄目なのに。日吉をあんなに汚したのに。

「先輩に、言いたいことがあるんです」
「・・・」
「まず、ごめんなさい。俺の部活の事で、ずっと先輩に気を使わせていたようなので、」
「は、はあ?何が、意味分かんない、そういうのやめて」
「・・・」
「俺・・・先輩と出会うずっと前から、図書室でいつも、先輩のこと見てました」
「嫌いよ」
「泣かないで下さいよ」
「むかつくのよ!あんたが私に物をいえる立場だと思うの!?」

日吉を思いっきり突き飛ばした。日吉の前で泣くなんて人生最悪の日だ、私は一生日吉の先に立つ、彼を弄ぶ酷い女でいたかったのに。

「・・・こんなにあんたが、好きなのに」

日吉の冷たいまなざしが歪んで、美しい形をした唇が、虚偽を言った。世界の時が、きっとその時止まったのだろう。 私は駆け出した。日吉から逃げた。そんな言葉、ああ、そんな言葉。全速力で渡り廊下を駆け抜けて、そこにあった女子トイレに駆け込んだ。 ああどうして、どうしてこうも私はまともじゃないのだろうか。握られた腕が熱い。熱い。熱い。熱い。熱い・・・熱い。


電気を消した暗い自室でその夜私は生と死とは何かということを考えた。答えが出るはずなんて無いのに執念深く付きまとう。 日吉もこんな時があるのだろうか。日吉の求める先に、私は、いたのだろうか。本当にいたのだろうか。 息をしてると辛いことばかりが蘇って、何をする気も起きなくて、息苦しい布団の中で私は、日吉の輪郭をなぞる様にして思い出して、 彼が綺麗だということと、自分の醜さを記憶した。誰もいないのだ。ああ、日吉のあの言葉が、ほら簡単に蘇ってしまう。言わないで・・・。
何度も何度も、もう言わないで。火が付いてしまうから。

「図書室で騒ぎ、起こしたってな」
透き通った雀の声が空を切る。数羽の鳩が羽ばたいた。空気がきれいな寒空の翌朝、家の前の迎えの車に乗るのを躊躇う私に、景吾はつんとして言った。
「別に、責めてないぜ。よくやった。さすが俺の女だ」
何故景吾に抱きしめられてるのかもよく分からなくて、ただ、景吾は大人だ、と思った。 大人であることにいいことなんて何もないっていうのに、まだ少年である景吾は私より遥かに計画的で、狡猾で、そして優しい。 優しさこそが愛なのだ。私はそういうふうに思う。私のいけない過ちすら景吾は暖かく包みこんだ。 私はこんな人にこんなに愛されていたのだ。なんてことだ。餌をもらう価値すら無い豚同然なのに。 こんなに日吉のこと考えてるのに。馬鹿なくらい、気味悪いくらい、アホらしいほど、日吉しかないのに。日吉を好きでいるためなら世界に愛想をつかせること だってできるだろう。私の小さな愛は偉大すぎて、潰されそうだった。

「どうすればいいの?私、どうすればいいのよ、おかしくなる、何で、こんなに難しいの」

優しくしないで欲しい。腐りきった私をよみがえらせないで、甘やかさないでほしい。 私はどうしたって日吉以外考えられない、この宇宙で一番、日吉を愛してるのに。他の誰も愛せないくらい、憎いくらい、傷つけたいくらいに日吉が好きなのだ。

「お前は最低な女だぜ、これからさきもずっと、お前ほど醜い女はいないと思う」
「ああ・・・うん・・・分かってる」
「最低で最悪で醜い女が、俺は好きだ。だから俺は絶対お前を逃がさない」

「聞きたいことがあるの。この間の日吉の喧嘩騒動の事、」
「アレは、相手が悪いが、あいつもあそこまでやる事はなかった。休部処分だ」
「退部じゃないの」
「次期部長にそんなことさせられるか」

その言葉をきいて、私は人を裏切る強さを知った。景吾の優しい瞳はきっと記憶にも残らないだろうと思った。 でもきっと忘れない、とだけ思っておく。景吾の残忍な暖かさは私に勇気をくれたのだ。いつしか共に観た映画も、薦められた本も、 難しい顔してた大企業の社長も、みんな言っていた。”若いうちにしたいことをしておきなさい”って、悔恨の言葉、知ってるから!
私は一目散に駆け出した。学校まで歩いて10分、走って5分。

ああ!私格好悪い。無様で、全然、知的とかいうイメージも壊れたし、私、世界のせの字も知らない、15歳の一少女! 日吉がいないのがいやだ、だから日吉を取り返すのだ。全世界を裏切れるのは私みたいな大人になれない子供だけだ。 私は馬鹿みたいに何でもできる気がしてる。全てに気がついて、もう何も関係なくなった。日吉を救えるのは私だけなんだ。違いない!



校庭では部活動の朝練習をする生徒がちらほらいるだけだった。私はテニスコートへ急いだ。 そこには、広いコートにたった一人ぽつんと、コート整備をする日吉の姿があった。 日吉はすぐに私に気が付いた。すごく、びっくりした顔してる。すごい、これが欲しかった、これが、ずっと欲しかった。

「日吉、欲望に生きるのっていけないと思う?」
フェンスに飛びついて、急かすように問いただす。
「・・・な、にして・・・」
「早く!こっちへ来て!」
私がそういうと日吉は二人を遮る高いフェンスをよじ登って、こちら側に降りてきてくれた。無茶な子。
「先ぱ、いっ!何してるんですか、俺と話してるとまたあいつらに何か言われますよ・・・」
「何言ってんの?そんなの私が気にすると思うの?」
「俺が嫌なんですよ。この前も、先輩の事言われて、ついカッとして・・・そしたらいつの間にか・・・」
「大丈夫よ。日吉は私のものだから、それでいいの」

日吉は俯いて顔を上げようとしない。

「そんなに、人におびえないでよ」
「違う・・・俺じゃ駄目なんだ。先輩がこないだ言ったように、駄目なんだよ」
「何でよ」
「俺には何も、ないから」

気持ちが高揚する。こんな時ってある!?恋は麻薬だ、何よりもアルトラバイオレンスを湧き立たせる、 私の中の衝動、全部がダイナマイトになってる。私たちまだ若い、若いってことは、花火だ、終わる事の無い無限の爆発だ。

「私はツルゲーネフのようにはいかないわ、あういうの、もううんざりなの」
「・・・俺、やっぱ、先輩は素敵だと思います。信じて、いいですか」
「それは確認するんじゃなくて、確信するものよ」

「ああ、ほら早く、もう景吾の車の音が聞こえる・・・」
「早くって、どこいくんですか、」
「どこにもいかない、逃げるんだよ」

日吉の細い腕はずいぶん見ないうちに逞しくなっていた。私たちは走り出した。青い風が冷たく頬を切る。 登校する生徒が私たちをものすごい勢いで振り返る。それに負けないくらい私たちは駆けた。
広い学園を横切って、南校舎を通り、学園の裏の庭園に出た。そこは誰もいなくって、冬の冷気のせいでほとんどの 命は枯れてしまっていたけれど、庭園の片隅でわずかに咲く薔薇の園に私たちは隠れた。そこで長くて冷たいキスをして、 幸せに溺れた。とろける様な日吉の声に、私は嬉しくて、嬉しくて、全て捨てた開放感で満ちて、罪悪感なんかこれっぽっちも無かった。 私たちはまだ少年少女で、罪を感じるには早すぎる。今しかできないことってたくさんあるから、その中で何を選ぶかとか、 難しい事は沢山あったけど、私たち、まだ子供だから、イイの。甘えられるのなら、それを振り払って己のものにしちゃう。 優しい愛に溺れていたいから、それだけで全ては許されるのだ。って、今私が決めた。



「日吉、私決めたよ。高等部に上がって、それからもずっと、日吉と一緒がいい」
「俺も、先輩が卒業しても・・・先輩のこと・・・愛してます」

薔薇の棘が私たちを侵した。いつのまにか膝が擦り剥けて血がでている。先ほどの性交が粗かったせいか、気付けなかった。 日吉はそれを見て、その薔薇より紅い舌で私のそこを舐めた。砂の混じった私の血を嫌がりもせずに舐めとる。馬鹿。
「ずっとみていた先輩と、今こうやって一緒にいれるのがすごく、不安でもあって、でも・・・幸せなんです」

難しい事など何も無かった。ただ私たちは漲るくらいの若さを愛に燃やして、それを昇華させないで守り続ければ良かったのだ。 誰かが追って来るのなら二人で逃げればいい。君の透き通った心ならいつまでも私が磨いてあげるから。 そうして、柔らかい匂いは、時間という名の棘を器用に潜り抜け、私たちに結末と始まりをもたらした。
馬鹿な子供、私たちを表わすのに一番適した言葉だと思う。それでも狂気を纏う子供は絶対的に美しいのだ。 人生で一番の時に、日吉に出会えた私は、きっとどのお伽噺のお姫様より幸せであろう。そしてそれに気づけた私は、 宇宙一、銀河一、最高だと思う。あの頃に戻りたいだなんて、絶対思えないくらい、私今を、衝動で生きてるから。










―終―
(2009/02/22)