黒光りする御影石に医療少年院という白い文字が彫られている。威厳を感じずにはいられなかった。
その控え目な札の掛った門を越え緑が爽やかに木漏れ日を漏らす小路の先を行った。
桜の木の根元には筑紫が顔を覗かせていた。それらはこの場所に大変不似合いだった。
小路の奥の正門には先ほどの表札より幾分威厳のある看板が掲げられていた。私はそこをくぐった。
受付係だという小太りの男性に案内されて面会室の扉を開いた。正方形の部屋に簡素な事務椅子があり、一枚のガラス板が遮るせいで
ひとつの部屋にふたつの空間があるようだった。
彼と親族で無い私は直接の面会を許されなかったので仕方がなかった。だがこの部屋がどうにもサスペンスドラマなどで見る
刑務所の面会室に見えてしまってかなわないのだ。一体彼の生活は、どうなっているのだろう。
「やあ・・・さん」
柔和そうな教官らしき男性に連れられて木更津君は姿を現した。紺色のジャージに身を包み、黒い髪の毛はくしゃくしゃとしていた。
毎日の体力作りのせいか、多少体格が良くなった様に見えた。
木更津君に会うのは半年ぶりだった。最後に見た彼は血まみれの姿だった。
木更津君は私と同じように目の前の椅子に促されてそこに座った。私たちを遮る板に木更津君が見える。木更津君が見えるのだ。
「まさかさんが面会に来てくれるなんて思わなかったよ。我慢できなくなった?」
「違うよ。」
「裁判にも、来なかったね。」
「・・・そうだね。やっぱ行った方が良かった?」
「まさか。」
木更津君は密やかにクスクスと笑った。私は自分の身勝手な行いに恥じた。私が面会にも裁判にも足を運ばなかったのは、自分自身で意図した
ことだった。どれもこれも私が木更津君に勝手な幻想を抱いているせいだ。あの日の赤くなま臭い彼は世界の誰よりも・・・。
如何なるものも及ばないくらい強烈な狂気を放つ人。私のたったひとつの願いを叶えてくれた男の子。
私はそんな彼のビジョンをより鮮度高く保存するためにあの日以降全ての幕を下ろしていた。全てというのは木更津君だった。
私は卑しい人間だ。あの時、もし私を殺していたのなら、木更津君の最後の顔を見てから全ての幕を下ろせたのだろうか。
私は今生きている。木更津君という肉の保存方法ばっかり考えて生きている。全部の元凶は私だ。
小窓から差す木漏れ日が私の膝に不規則な模様を描く。この部屋の窓はそのひとつだけだった。
「・・・俺が気狂いだと思うの?」
「・・・違うの?」
木更津君は笑った。
秋のあの日に、私の父と母の頸動脈をかっ切った木更津君の繊細な手指が、これでもかという程に美しく組まれて、
彼はそれに顎を乗せる仕草をした。私はその仕草がすごく好きだった。久し振りに見たそれは、まるで古いアルバムに閉じ込められていた一枚の写真の様
に思えて、私のきつかった涙腺がゆるゆる解かれてしまう要因になった。だけど私はそれを堪えた。
「観月は元気?」
「ううん・・・どうだろう。」
「もう俺の事なんか友達だと思ってないだろうよ。」
「わかんない。」
木更津君の夜色の瞳孔は甘美なマシュマロの白目に浮かび、仄かな和毛を纏った砂糖菓子の頬肉に乗って嬉しそうに細くなる。
嬉しそう、というよりも私の心の奥を見透かしてそれを嘲けてるという表現が合っているのだろう。意地悪な人だから。
「もう俺には君しかいなくなっちゃった。」
綺麗に並んだ白く鮮やかな歯列が三日月型に変化した。私はセーラー服のスカートの裾を弄んだせいで皺を作ってしまった。
私が心配することなんて何も無かったのだろう。私たちの平行世界が非常に脆いものだと知ってから私はとても臆病になっていた。
でも木更津君は私が恐れていることを全く感じさせないほど何時もどおりの彼だった。だって彼は平行世界の住人なのだ。
もし今唐突に死刑判決が下ったとしても、彼は平常に異常なまま世界を嘲けるのだろう。
何も無い。木更津君は私の存在を放棄しないと伝えてくれている。どちらかというと、裏切り者は私のほうだ。私の方に罪があるのに。
私を匿うような男の子らしい彼は少し歯がゆい。けれどもやはり嬉しいのだ。でも、これももしかすると木更津君の思惑なのかも知れない。
私はいつまでたっても木更津君には追いつけない。
「俺は性格・・・異常だからなあ。」
どうか誰も彼の罪を許さないで欲しい。彼を理解する人間は私だけでいい。誰にも関係ない。誰にも関係ない。
彼の罪は私の両親を殺した事では無い。彼自身の精神にある。それを知るのも私だけでいい。
「私は、ずっと木更津君が好き。」
「如何かな」
「莫迦。」
チョコレートを塗りたくった様な強かな睫をふるふる揺らした。それでも全てを嘲るという。
木更津君の蒼白で華奢な指先が、ガラス板にぺたりとくっ付いた。私もそれに習って指先を近づけた。私たちはアクリルガラスを挟んで繋がった。
「俺に油断しないで。此処から出たらさんを殺してしまうかもしれないから。」
その言葉は私の肩を優しく捕らえて離さない。これは約束だ。私はそんな拘束が嬉しいのだ。
私にとっての木更津君は英雄であり白馬に跨る王子様だった。世間が冷ややかな目を向け下らぬ罵声を浴びせようとも、
今やそれは歓声に変換されて私の耳に優雅に届く。平行世界には私と彼しかいない。だから色鮮やかな彼の姿は何があっても霞んだりはしないだろう。
彼の中の奇妙な魔物はずっとずっと生き続け、絶える事を知らない。それを抑制するのは私の役目だ。誰もいらない。誰も要らない。
更生とは何?私にはわからない。木更津君は箱の中で静かに待ち構えてる。私との平行世界を待っている。
「でも皆言うの。木更津は異常だからもう友達じゃないって。」
「そっか。俺友達いなくなったんだなあ。こっちではワイワイやってるけどさ。」
「ねえ・・・ねえ・・・・。ねえ・・・・ごめんね」
「謝るなって言ったのに胸糞悪いよ。やめて」
やはり私は完璧でない。死んでも言わないと決めた言葉は柔らかな舌からぺろりと落下した。それも約束だったのに。
英雄?王子様?そんなものじゃないわ。でも言葉が見つからないのだ。彼とは何か?犯罪者?友達?恋人?どれも違うの!
「分かってるんだろ?俺の行いを許す人はいないよ。君以外ね。だからこの事について話すのは無意味だ」
「わかってるよ!」
部屋の隅に立つ教官の鋭い瞳がガラスを貫き私を焼け焦がした。白い机に伸びる自分の影はガラスに跳ね返って彼のとこまで届かない。
全て完璧。私たちにミスは無かった。計画通り成功したのだ。なのに心臓が不可解な靄を纏って離れない。何も駄目なことは無いはずなのに。
あの時実行していなかったら私は木更津君を嫌いになってたかもしれないのに。
きっと私はこの感じを知るのが怖かったのだ。ああほら、こなければよかったじゃないか。惨めだ。耐えられない。
私をひとりにしないで。木更津君は純真だ。本人の自覚が無いほど綺麗で透き通っているから、出所した時にもしそれが濁っていたら、私許せない。
木更津君を許せない。
「君はきっと待てないさ」
「・・・如何云う意味?」
「俺を忘れる」
木更津君の整った眉毛がスっと歪んだ。彼の瞳は深夜を迎えたかのように睫の影に隠れた。
「面会終了時間です」
正義と悪なんて不確かなものに縛られてしまう私たち早く平行世界へ行かなくちゃ。
逃げろ。何か来る。私はあの時の木更津君の血走った眼絶対絶対忘れない。
こんな地球大嫌い。