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司9 (3)

◆aPPPu8oul.氏

司は今日も午前中は謹慎。午後は担任同伴で班行動という処罰が下った。
普段は品行方正であることと、ゆいたちの証言で男たちがだいぶ強引だったと判明したこと、
警察沙汰にならなかったことも幸いした。一連の事情を見ていた地元の人達も司に好意的だったのだ。
実は理事長の親戚であることもこの処遇に関係しているのだが、
そのあたりは司も隆也も、もちろん健やゆいも知りようがない。

「田宮君」
「三崎さん。どうかした? 」
竜安寺の中を歩いている最中、健はゆいに声をかけられた。
ゆいの表情は昨日から冴えない。司がここにいないことが、責任感の強いゆいには耐えられないのだろう。
「その……司君、元気だった? あたし、昨日から話してなくて……」
「え? あ〜……」
正直、元気とかどうとかではなくずっと不機嫌だった。と、ゆいに伝えるのは忍びない。
かといって全然元気、と言い切るのも嘘になる。
「え〜と、なんだ、その…そうそう、昨日三崎さんの彼氏がうちの部屋に来てさ」
話題を転換してみる。
「え、うん。そうみたいだね…それがどうかした? 裕樹く…山岡くん、何か変なこと言った? 」
わざわざ言い直すゆいに苦笑しながら、健は司の言い分を思い出す。
たしかにこんなに素直でいい子なら、彼氏の変わりに守ってやりたくなるかもしれない。
「いや。司、そんとき部屋にいなくてさ。話したらほんとにいい奴だなって言ってたよ」
「そっかぁ……良かった……」
目元と口元を緩めてはにかんだ笑みを浮べるゆいと、生真面目で優しそうな山岡はきっと似合いなのだろう。
ここでふと、健はひっかかっていた事実を思い出す。
「あ、そういやさ、三崎さんと司っていつから仲良くなったの? 」
「えっ!? あ、あ〜〜〜……あの、ね……夏休みに……」
ぱっとゆいの頬が染まり、俯きモジモジし始める。目の前で美少女にこんな仕草をされたら、照れる。
「あたしが、怖い人に声かけられて……司君が、助けてくれたの」
「え、夏休みにも? 」
にも、と言った健の声に、ゆいは慌てて顔を上げる。
「ううん、あのときは、喧嘩なんかしないでうまく助けてくれたよ?
 …だから昨日も、ほんとは……」
言葉に詰まるゆいに、かける言葉が見つからない。なんとか明るくなってもらおうと、必死に言葉を探す。
「あの、さ……アイツも別に、喧嘩好きなわけじゃないけど、昨日のは、なんつーか……
 と、とにかく三崎さんのせいじゃないよ! それはあいつも言ってたし……」
「でもっ! 司君、顔に怪我して……あたし、先生の顔見られなかった……」
眉を寄せたゆいの心中を察して、健は口ごもる。口ごもり、ふとゆいの発言にひっかかりを感じる。
「……そんなに自分の責任感じてるの? 」
健の声にゆいはぱっと顔を上げる。
「だって、司君が怪我して一番悲しいのは先生―」
言いかけて、ゆいは唐突に言葉を切る。
担任が生徒の心配をするのは当然だ。しかし、一番、と言う言い方とゆいの反応に、健はますますひっかかる。
「えーっと……ひょっとしてさぁ、三崎さん……知ってるの? 」
「えっ!? な、何が!? 」
こうもわかりやすい反応を返されると、少々罪悪感を感じないでもないが。
「いや、だから、司の……」
「健! そろそろ次いくぞー!」
「ゆい〜! しっかりしてよ班長! 」
台詞途中で他の班員に声をかけられ、ゆいはそちらに駆け出す。
「ごめん! バスあったよねぇ〜? 」
上手いこと逃げられた。健は舌打をしながら確信していた。ゆいは知っている。司のことも、先生のことも。
それが少し嬉しいのと同時に、寂しい。

司を女として見るのはやめると、言い出したのは健の方だった。
とはいえ、そのときにはすでにどちらが切り出してもおかしくない状態で、
ただ最後に健から切り出すことで、男としてのプライドを守っただけだった。
どうしても健は司の女の部分を強く求めてしまって、バランスを取るのに必死になっていた司の心を乱した。
身体を重ねるのはもちろん嬉しかったし幸せで、男同士としての付き合いだって文句なく楽しかった。
それでもやはり、不用意に女の部分を求めて、それを拒否されてということが重なると、お互い気まずくなった。
司は確かに健を頼ってくれていたはずだが、健はそれに答えて支えてやるつもりで逆に重心を失わせてしまった。



だからあれで良かったはずだ。

綺麗に男同士の友人に戻り、一方で女として扱い一歩引いて労わってやることも覚えて、
隆也とのことを聞いても素直に応援してやろうと思った。実際に応援していた。
なのに修学旅行に来て、実際に二人がそういう関係なんだと目の当たりにするにつけ、ひどく胸が痛む。
自分が司にしていたことが、とても幸せで特別なことだったんだと認識させられて、苦しくなる。
結局自分は司にとっていい奴になりたかっただけだと痛感させられる。一番近い場所を守りたかっただけだ。
けれど今更、この感情に名前をつけるわけにはいかない。

そうとわかっているのに、司の秘密を共有している人物が一人増えただけで、それを寂しく感じている。
司にとって信頼できる存在は自分だけだと思いたがっている。
自分の隣にいるのが司の幸せだと言いたがっている。
けれどそれがもう、叶わないものだともわかっているのだ。
何より、健は自分から司を手放したのだ。それを、今の幸せな司を手に入れる術などない。
午後がひどく憂鬱に思えてきた。
隆也と司が合流するそのときまでに、この胸のざわざわを収めなければ。
俺が未練を残しているのは司じゃない、司の身体だけだ。
友人達と歩きながら、健はそう思い込むことにした。

「健、三崎さんと何話してたんだ? 」
「ん、あぁ。司のことだよ」
「あぁ。あいつもいーとこ持ってくよな〜、すっかりヒーローじゃん」
たしかに、女子たちの株はあがっただろう。
それも意味ないんだけどな、と健は内心苦笑する。
「今頃学年主任の前で正座だけどな」

司の目の前には隣のクラスの担任で、学年主任の一人の男性教諭が座っている。
ぱらぱらと日程の書かれたプリントをめくりながらノートに何かをかきつけ、
ときおり他の教諭たちと携帯でやりとりしている。
英語担当のこの教師は、生徒達には鬼と恐れられている。
職員室への呼び出しや放送室への呼び出しが多い、いわゆる説教型の教師だ。
しかし司は決して苦手ではなかった。
曲がったことで生徒を罰する教師ではなかったから、司にとっては無害だったのだ。
「……高槻。お前三崎のこと好きなのか」
唐突な問いに、司は思わず噴出した。
「っち、違います! 三崎さんには彼氏もいますし……」
「うん知ってる。うちの山岡だろう。学級委員同士だからな」
あっさりと言ってくれる。隆也以外の教師とこういう話をすることになるとは思わなかった。
「……だから、ただ相手があんまりだったんで……いえ、反省はしてます」
「だろうな。ま、進学コースなんだし二度とやるなよ。おまえ自身にも不利だし……
 三宅先生は若いし甘いからそう叱らないだろうけど、地元でやって警察沙汰にでもなったら学校が困るからな」
無遠慮にタバコをくゆらせはじめた教師に、司は二重の意味で眉を寄せる。
「……善処します」
苦々しく言って再び沈黙を守り正座を続けること一時間。
正午を数分過ぎたころ、主任の部屋を隆也が訪れた。
「失礼します。高槻引取りに来ました」
「おう、お疲れさん。高槻、立っていいぞ。ただ今後くれぐれも注意するようにな」
「はい。失礼します」
頭を下げ立ち上がろうとした司の足元がふらつく。
それを支えようと出しかけた手を不自然に引っ込めて、隆也も学年主任に頭を下げる。
「ご迷惑おかけしました。今日明日はしっかり見ますので」
「頼みますよ、三宅先生。あんまり甘いと生徒になめられますからね」
「はい。それじゃ、行ってきます」
部屋を出た途端、司は隆也の手の甲をつねる。
「いてててて! 」
「先生、手ぇ出しかけたでしょ」
「う、気付いたか……すまん」
申し訳なさそうな隆也の前に回りこみ、司は笑ってその顔を覗き込む。
「気をつけてよ? ……でも嬉しかった。ありがとね」


はにかんだ笑みにつられて、隆也も笑みを浮べる。
「ん。よし、とりあえず昼飯だな。荷物持ってロビーに集合な」
「はーい」
部屋の鍵を鳴らしながら司は廊下を歩き、ふと思いついて携帯を手にとる。
電源を入れるとメールが2件入っている。
「えーと……健と三崎さんか……」
二人とも、どこでどう合流しようかという内容と、司の機嫌を伺うような一文が入っている。
「三崎さんからは『昨日はほんとにありがとうね』で健からは『いー加減機嫌直せよ』か。まぁそーだろうな」
昨夜は隆也に言われたとおり無表情で部屋に戻ったから、皆司の機嫌が悪いと思っているのだ。
おかげで、さっき隆也に笑いかけたときには頬の筋肉が久々に緩むのを感じた。
思わず自分の頬をつねる。
「……今日はもう少し不機嫌で行くか」
隆也と一緒に半日を過ごせるのは、嬉しい。けれどその嬉しさが顔ににじんでしまってはいけない。
部屋で荷物をまとめて、出掛けに鏡の前で仏頂面を作る。
「よし」

「で、なんでネギらーめん?」
「知らないのか? 有名なんだぞ」
「いや、いーんだけどさ……」
多少雰囲気のある店での昼食を期待していた司は本当に仏頂面でラーメンを冷ましている。
派手な音を立てて油がはねるのはそれなりにおもしろかったが、司はこういうノリは求めていない。
仲間同士で楽しむにはいいが、何も二人っきりで楽しむものでもない、と思う。
「その仏頂面はわざとか? それともほんとに気に入らなかった? 」
が、大の大人に少々不安げに覗き込まれると、些細なことで不機嫌になっている自分が馬鹿馬鹿しくなる。
ずず、と盛大に音を立ててラーメンをほおばり、隆也の頬をつつく。
「ふぉっひふぇもいいでふぉ。 ひいからはひゃくはへて(どっちでもいいでしょ。いいから早く食べて)」
「何言ってるかわかんねーよ。よし、とりあえず食うか」
ふざけた司にようやく笑みを返して、隆也もラーメンをすする。
たわいない会話を楽しみながら食事を終え、二人は店を出る。
「ご馳走様でした。うわ、ネギくせー」
「ほんとだな。こりゃつっこまれるな」
笑う隆也は気にした風もなく歩を進める。
「はいガム。と、メールだ」
ガムを差し出す司の携帯がなり、手に取る。画面には田宮健の文字。
「先生、今ここだって」
「仁和寺の前か。よし。予定通りだな」
隆也が広げた地図を覗き込み、司は首をかしげる。
「今いるのってここだよね? 左京区……逆じゃん? 」
健たちがどこを回るかは、あらかじめ知っていた。
先ほど出てきたホテルは二条にあって、今いるのはその東。健たちがいるのは西である。
「そう、逆」
隆也は飄々と言い放ち、タクシーを拾う。
「……ひょっとして先生、わざと? 」
僅かな期待を込めて聞く司に、隆也はにやりと笑ってみせる。
「……ノーコメントだ」
タクシーに乗り込んで、司は思わず隆也の手を取る。運転手から見えないように気を使いながらも、しっかりと。
手を繋ぐという行為に慣れていないのか、恥ずかしそうに俯く司の様子が愛らしい。
「司」
「え」
ちゅ、と頬に口付けると、せっかく繋いでいた手を離してわき腹をつねられる。
「先生っ……」
「前に言わなかったか? 俺は回りにどう思われようがかまわないって」
運転手のおっちゃんがどん引きしているのが手に取るようにわかって、司は顔を赤くして口をもごもごと動かす。
「だ……からってっ……」
「だから、気にすんな」
ぐしゃぐしゃと司の頭を撫でて、隆也は爽やかに笑う。
「……気にする……」
ふい、と窓の外に目を向けてしまった司の手を取って、隆也も外に目を向ける。
「ま、それはそれでかわいげがあっていいけどな」


司は文句も言わず笑いもせず、ただ赤い顔を外に向けている。それでも手を握り返すのを感じて、隆也の頬が緩む。
わからんわ、と内心呟いた運転手は、それでも黙々と車を走らせていた。

「あ、あれそうだな 」
手を振る友人に気付いて、それでも司は歩く速度を速めたりはしない。
隆也が隣にいるだけで笑いそうになる顔をひきしめて、思い出しては顔に血が上る手の感触を忘れようと努める。
結果、仏頂面で歩いてくる司の様子に、班員は皆僅かに緊張する。
「よう、悪いな待たせて」
一方司の後ろを歩く隆也は明るく爽やかな笑顔で、その緊張をほぐす。
「せんせー、どこでお昼食べたの? すっごいネギの匂いするんだけど」
女子生徒の問いかけに笑って、隆也は観光マップを指してみせる。
「ネギラーメン。ほら、昨日他の奴らが食べたって言ってたろ? 」
「えー、マジで? いいなぁ。あたしも行きたかった〜」
楽しそうに会話する隆也を横目に、司はゆいと健にはさまれる。
「司君、ほんとにありがとう。ごめんね」
「あー、いいよ、もう。結果オーライ。たいしたことにならなかったし」
ひらひらと顔の横で手を振る司の頬には、あざが残っている。
「そーいうことはせめて笑顔で言えよ。説得力ねーぞ」
そのアザを無遠慮につついて、健は笑う。
「いって。お前はもう少し真面目な顔で心配してみせろ」
「へいへい。すいませんねぇ、ひょうきんな顔で! 」
「わかってんじゃねーか三枚目」
遠慮のない二人のやり取りに、ゆいはしばし呆然としていたが、突然笑い出す。
「あはは、二人ってやっぱりおもしろいね。いいなぁ、仲よさそうで」
『……そう? 』
健は眉間に皺を寄せ、司はさらに顔を変形させて嫌そうに聞き返す。
「うん、タイミングもぴったりだし」
美少女の悪意のない笑みは周囲の雰囲気を和ませる。司の表情が和らいで、健も安堵の息をつく。
「おーい、そろそろいくぞ〜」
隆也の声がかかり、三人もそちらに足を向ける。
担任がいてはハメを外せないが、それでも日本史担当の隆也の解説はそれなりにおもしろい。
これといった問題もなく、観光は進んでいく。
仁和寺から嵐山に向かう途中、ゆいが最後尾を歩く司の横に歩み寄る。
また『ごめん』なんて言われたら、今度こそ司が困る。
しかしゆいの口から出てきたのは、全く別の、しかしやっぱり司が困る内容だった。
「ひょっとして、田宮君って……司君の秘密、知ってるの? 」
「うん……」
「先生とのことも? 」
その問いに、司は慌ててゆいに顔を向ける。
「健、何か言ってた? 」
「ううん。あたしが司君の心配してたら、『知ってるの?』って聞かれてびっくりしちゃって。
 答えてはいないんだけどね、きっとわかってると思う」
「そっか……うん、あいつは知ってる。……そっかー、三崎さんのことも勘付かれたかぁ……」
「あ、あぁ、でも、ほら、あのことは言わなくても、ね? 」
慌てて顔を赤くするゆいに、思わずこちらも赤面する。
「そ、そーだよね。そのことは言わなくても、通じるもんね……あとで俺から、言っておくよ……」
「うん……」
こくん、と首を縦に振ったゆいが、ふと顔を上げる。
「あ、そうだ」
「え? 」
何気なくゆいの顔を見た司に、ゆいは心底嬉しそうな笑みを浮べる。
「先生と一緒にいられて、良かったね」
「……うん」
言われると、手の感触がよみがえって顔に血が上る。
「えへへ、司君、かわいい」
言って、ゆいは小走りに女子の輪に戻る。
「み、三崎さんっ! ……あー、もー……」
がしがしと頭をかく司の横に、今度は健が並ぶ。
「どーした? 」
「いや……あとで話す。長くなりそうだし」


「そっか。俺もお前に話があったんだ。どっかその辺回ってるときにでも話そうぜ」
「……先生の目を盗んで、な」
司の監視にきているはずの隆也は、すっかり他の生徒と楽しく観光している。
側にいればいたで反応に困るのだが、放置されるのもおもしろくない。
わかりやすく不満を表情に見せる司に、健は複雑な笑みを浮べる。
自分でもおかしな顔をしているのに気付いて、健は自分の心境を省みる。
それは間違いなく、嫉妬だった。


嵐山までは電車で移動し、渡月橋の周辺と天竜寺・野宮神社を見ることになっていた。
駅からまっすぐ渡月橋に向かった一行は、ご多分に漏れず景勝地でカメラや携帯を構える。
「先生、一緒にとろー」
「まてまて、どうせなら全員で撮ってもらおう」
通行人を捕まえ渡月橋をバックに写真を撮ってもらい、
それぞれが携帯にもぱちぱちと景色を収めているうちに、雲行きが怪しくなってきた。
「雨が降る前に天竜寺行っちゃおう。皆いる〜? 」
班長のゆいが点呼して、全員そろって渡月橋を離れる。
はずが、途中降り出した雨に駆け足になった班員は、天竜寺近くで二人が消えていることに気付く。
司と健がいない。
「……探してくる。お前たちはここにいろ」
担任の言葉には、全員従う他ない。
人一倍心配そうなゆいの視線を背に受け止めながら、隆也は走り出した。

「おい健!? 話があるのはいいけどこれじゃ……」
「へーきだって。連絡はつくんだし。それより三崎さんの話だ」
二人は観光客の多く通る道を一本奥に入って、定休日らしい店の軒先に立っている。
「あー、それな。そう、三崎さんな、知ってるんだよ」
あっさり司が認めたので、健もどこか拍子抜けしたように頷く。
「そっか。夏休みにも三崎さん助けたんだって? 」
「あぁ。それでさ、俺のこと好きな女の子がいるんだって聞いて……心苦しくてさ」
その後のことまでは流石に話せない。何とはなしに気恥ずかしくて、雨空を見上げる。
「ったく、ほんとにフェミニストだな。それで? 先生とのことも知ってんのか? 」
「あぁ。だから、年上の女に惚れてるって噂も流してもらった」
「……三崎さんが流してたのか。どーりで信憑性もなさそうなのに皆信じてるはずだ」
「はは。まぁ、完璧に嘘でもないしな」
苦笑した司に相槌をうちながら、健は周囲を見渡す。
この程度の会話をするために、わざわざはぐれたわけではない。健には健の目的があった。
携帯の着信音らしきものが鳴り、司の肩が跳ねる。
「あ、先生だ」
携帯の液晶を確認して通話ボタンを押そうとする司の手をつかみ、健が口を開く。
「司。先生でいいのか? 」
「……なんだよいきなり」
いぶかしむ司に、健はたたみかける。
「先生はいつも隣にいてくれるわけじゃない。お前だけを見てくれるわけでもない
 さっきだって、お前のことちゃんと見てたら……俺と二人でここにいるはずないだろ」
健の手を振り払い、司は電話に出る。
「……もしもし、先生? 」
『今どこだ? 田宮といっしょなんだろ? 』
「はい……さっきの大きい通りから一本入ったとこで……」
健の視線の先には、傘も差さずに走ってくる隆也がいた。
わかっている。二人には何の問題もない。しかし、それを素直に受け入れることもできない。
「ったく、いきなり迷子とはやってくれるな。お前は保護観察処分なんだからな」
冗談めかして司の頬を指した隆也は笑っている。
「先生」
唐突に硬い声を発した健に、二人の視線が刺さる。
壊してしまいたい。この関係を。この息苦しさを。
ここで自分が言い出せば、自分だけが悶々とした思いを抱えることもなくなる。
「……すいません、ちょっと他じゃ話せないことがあったんで」
しかし、それはできない。あくまで生徒の一人を演じる。すいません、と謝罪を重ねる司もどこか不自然だ。
隆也は釈然としない。それでもそれを指摘することはでず、教師の対面を保つ。
「……そうか。しかし状況を考えろ……さ、皆待ってるからさっさと合流しよう」
「あ。先生、傘差して」
持ってるのに差してないんでしょ、と何気なく世話を焼く司に、隆也も笑い返す。
それが嫌なのだ。


雨もすぐに上がり、その後の観光は特に問題もなく進んだ。
天竜寺と野宮神社を回り、ホテルに戻る。
特に変ったことといえば、隆也が全員を見渡せるよう一番後ろを歩いていたことだけだ。
二人が迷子になったせいだと、班員それぞれは正しい解釈をしていた。
ただ、それだけではないとわかる数名の心境は落ち着いたものではなかった。


「先生、司君どこにいるかわかりませんか? 」
廊下で出会った三崎ゆいの言葉に、隆也は一瞬血の気が引く。
健のあの冷たく固い声が頭にこびりついてはなれない。あそこで、健は何かを言おうとしていた。
「……いや。部屋にいなかったのか? 」
「えっと、鍵がかかってたんで……他の男子の部屋に行くのはちょっと……いけないかな、と思って」
生真面目なゆいの反応に微笑を返す。
「そうか、それじゃ俺が終身時間前に回るから、三崎は部屋に戻ってなさい
 それとも、なにか今日のうちに伝えておきたいことでもあるのか? 」
「え、あ、いえ、今日じゃなくても大丈夫、です」
「そっか。じゃあそろそろ部屋に戻れよ」
穏やかに、あくまで自分の職業に忠実な反応を返し、ゆいと別れる。
「三宅先生。どうかしましたか? 」
学年主任とすれ違いざまにそう聞かれ、自分の表情が険しくなっていたことに気付く。
「いえ。これから部屋を回るんで、部屋割りを思い出してただけです」
「ならいいんですが……最終日ともなると生徒も教師も気が緩みますからね、しっかりやりましょう」
「はい」
確かに、初日、二日目とうまく司と二人きりになれて油断していた。
障害などないに等しいと、思い込んでいた。
就寝時間までは少し間があるが、嫌な予感がする。
それでもまっすぐ司たちの部屋に行くことはできず、担当クラスの部屋を一つずつ回り始めた。
生徒達は好き勝手に部屋を移動していて、それぞれを名簿にチェックしていく。
他クラスの部屋にまで移動している生徒もいて、浮かれた空気が伝わってくる。
それとは反対に、隆也は男子の部屋を回り始めて、嫌な予感に拍車がかかる。
司たちの部屋の二人が、口をそろえて二人は部屋にいると言ったのだ。
しかしその部屋には鍵がかかっていて、ゆいが行っても誰も出てこなかったのだ。
二人は部屋にいる。それなのに出てこない。反応もしない。
まさか、という単語が頭をかすめる。その後に続く具体的な想像はしたくもない。
部屋に行くのが怖かった。その嫌な想像を現実に思い知らされそうで。隆也は足を速めた。
向かった先は、司たちの部屋ではない。フロントだった。

「司。話があるんだ」
夕食後部屋で二人きりになったタイミングを見計らって、健は切り出した。
「あ? 何だよ改まって」
司は軽く応えるが、内心ひどく緊張していた。
先生でいいのかと、そう聞いた健の気持ちをどこか恐ろしく感じていたからだ。
「昼の話の続きだ」
はっきりとそう口にした健の向かいのベッドに腰を下ろして、司はにらみつけるように健の目を見つめた。
「先生でいいのかって話? なら俺はお前に言えることは一つだけだ。俺は先生が好きだ。先生と一緒にいたい」
はっきりと口にする司は、これ以上踏み込むなと牽制する。しかし、健もひるまない。
「気持ちだけでうまくいくとは限らないだろ。休みの間はよかったけど、授業も始まって……」
事実、障害は多い。我慢しなければならないこと、気を使わねばならないことは多くある。
疲れることも、くじけそうになることもある。けれど。
「そんなことで諦められるもんじゃないんだ。健も知ってるだろ? 」
ため息をつき、それでもしっかりした態度を崩さない司の意思は堅い。
その意思が、全て一人の男に向けられ、支えられている。
新幹線の中で司に視線を向けてしまった隆也。
二人きりになれると、嬉しそうに笑いあう二人。
ふざけて、隆也の髪を混ぜる司。
雨の中、真剣な表情で探しに来た隆也。
その世話を焼く司。


目の当たりにした二人の関係が、強固な壁となって健の意思を崩しにかかる。
「……だから、もう聞くな。心配してくれるのは嬉しいけど、健に言われたからってどうなる問題じゃない」
きっぱりと距離を示した司に言葉を返そうとして、ドアをノックする音に気付く。
「司くん、いるー? 」
「みさきさ……」
言いかけて立ち上がろうとした司の口を塞ぎ、耳元に口を寄せる。
「まだ話は終ってない。……司、俺が何考えてるかわかるか? 」
司の身体が強張る。うなじから香る女の匂いに、胸が鳴る。
言うつもりのなかった言葉が、ふつふつと湧き上がってくる。
今しかないと、頭の中で誰かが叫ぶ。
ゆいはもう部屋の前にいない。司の口を押さえていた手を離す。
「司」
「……健? 」
いぶかしみと、わずかな恐れを含んだ声に呼ばれる。けれどもう、言葉を飲み込むことはできない。
「司……が、欲しい」
司は目を見開く。予想ができなかったわけではない。けれど、信じられない。
「健? 何言って……」
健の身体が近付く。腕が伸びて、司を壁に押し付ける。
司は身体が思うように動かない。健に恐怖心を抱くなど、ありえないと思っていた。
「け―」
唇が重ねられる。
よく知っているはずのその感触も、動きも、快感からは程遠い。
「っ健! やめろよっ……!」
頭を離し肩を押し返して、できるだけ平静の低い声をぶつける。
しかし戸惑いとおびえを含んだ目は、健の視線に飲み込まれる。
「嫌だ。やめねえよ。お前が何て言っても……」
「何でだよ! 俺はもう、お前とは……だって、健が先にっ」
「そうだよ。やめようって言ったのは俺だ。でも俺はお前の女の部分が欲しい。今、どうしようもなく欲しい」
そう、はっきりと健が口にするのは初めてだった。
司にもわかっていた。健は、男と女の付き合いを求めていたのだと。けれど司にはできなかった。
まだ男としての生活にも慣れていない時期に、そんな器用な真似は。
それなのに自分の女の部分ばかりを求める健の無神経さに、司もいらだっていた。
何故自分の生き方をわかってくれないのか、気を使ってくれないのかと一人で爪をかんだ。
自分から健を誘って、居心地のいいぬるま湯に浸かっていたかったくせに。
自分は卑怯だ。けれど、それでも健との関係は維持したかった。健もそれを望んでいると、思っていたかった。
「……っ女が欲しけりゃ俺なんか選ぶなよ! 今更なんで俺なんだよ! 」
理由もわからぬ涙がこみあげてきて、司は奥歯をかみ締める。
「好きだからだ」
その一言が、司の涙腺を緩めた。溢れる涙を隠そうと俯く司の頬に、健の手が添えられる。
「好きだからだ……司、お前が欲しい」
ぼやけた視界を占める健の表情は、どうしようもなく真摯だ。
それでも、答えることはできない。涙は止まらない。力のない声が漏れる。
「……だめだ……」
「わかってる。でも」
「だめなんだ、健。俺はもう……」
「聞きたくない……」
俯いた健の声に、いぶかしみの声をかける。
「健? 」
「俺だってわかってる。司と先生がうまくいってることは。だから邪魔したくないんだ
 それでもどうしようもないから、こうして……っ」
力強い腕が細い背中を抱きしめて、拘束する。
「司の、身体だけが欲しいんだって、そういうことにしたんだ」
「……健……馬鹿だよお前……そんな、だから……」
「彼女できねーんだ、だろ? ……しょうがねーだろ、これが俺なんだし」
苦笑して、肩が震える。人心地を取り戻した司はゆっくりと声を絞り出す。
「……健、聞いてくれ。俺は……」
「悪い」


司の説得をさえぎって、健は司の唇を塞ぐ。
丁寧に唇を弄りながら、うなじをなぞり耳をくすぐる。
腕の中で体を離そうともがいていた司の身体から力が抜ける。
「ん、んんっ……ふぁ、んっ……」
司の弱い部分はよく知っている。
熱い身体を、高い声を楽しみながら、健はキスを続ける。
口を離せば、また咎めるような口調で名前を呼ばれてしまうだろう。
「んっ、ん……む、んぅっ……」
震えながらも弱い抵抗を続ける司の服の中に手をさしいれ、半ば力任せにさらしをずりおろす。
口を離そうとする司の頭を壁に押さえつけ深く口付けを続けて、掌に吸い付く胸を揉みしだく。
ハリがあって柔らかいのは相変わらずだが、何となく少し大きくなった気がする。
指を広げて全体をほぐし、柔らかな乳輪を揉んでから乳首を摘む。
乳輪と同じ柔らかさだったそこはすぐにこりこりとした手触りに変り、爪を立てると声が漏れる。
押し返していたはずの手は止まり、健の服にしがみついている。
それでも、唇を離し手を止めると、胸を押し返し睨み付けてくる。
「っは、やめろよ、健っ……こんなこと、したって」
「俺はやりたいだけなんだよ。その後のことなんて考えない」
自分に言い聞かせるようにそう言って、再び唇を重ねる。
口内を貪り舌を絡ませ唾液を交換しながら、片手で耳を弄りもう片方の手を腰にまわす。
腰を抱き寄せ、自分の股間を押し付ける。
びくりと、司の身体が強張る。はっとして、健は思わず顔を離す。
「…………」
潤んだ目と見詰め合って、息を飲む。こんな顔をさせたかったわけではない。
ひるんだ隙に、濡れた唇が開く。
「健。そんな嘘つくな。わざわざ自分からこんなこと……」
「うるせえよ」
司を組み敷き、ズボンに手をかける。
「健っ! 」
「声出すな……人がくるぞ」
無理矢理ズボンを脱がせ、下着の中に手を入れる。
愛液のにじみはじめた秘裂を指の腹でなぞり、膣口を探り当てる。
「嫌だ……やめろっ……っ! 」
指を押し込んだ瞬間、司が息を飲む。硬く閉じた眦から涙がこぼれて、健は息を飲む。
さっきから心臓がうるさくて仕方ない。
自分はひどいことをしているのだと、わかっている。けれどもう。
ガチャ、とやけに冷たい音を立てて、ドアが開いた。
とっさに体を離す。
「高槻、田宮。いるんだな? 」
開いたはずのドアの外から、隆也が声をかける。
明りのついている部屋に二人がいることはわかっているはずだ。
それでも隆也は踏み込んでは来ない。隆也はこの状況を察している。
「……います」
ドアの方に釘付けになっていた健は、唐突に声を発した司に顔を向ける。
体を起こし、涙をぬぐってサラシを巻きなおしている。
「入るぞ」
しばしの躊躇ののち、隆也は足を踏み入れた。
一つのベッドの上に向かい合って腰掛けたまま、健は呆然と隆也をみやり、司は赤い目を伏せている。
司の服の乱れにも目が留まる。もう間違いようがない。
静かに、極力怒りを抑えて、隆也は口を開く。
「どういうことだ? 」
すぐには、二人とも答えられない。
健は自分のしたことを反芻していた。以前のように、司を抱こうとしただけだ。
それだけなのに、隆也を目の前にして、動けなくなった。
そして、自分は壊そうとしたんだと、改めて気付く。司と隆也の関係と―自分と、司の関係まで。
「……ごめんなさい」
口を開いたのた、司だった。
慌てて言葉を継ごうとした健は、司の様子に気付き息を飲む。
隆也が司の横に歩み寄り、肩に手を置く。


目元を赤く染めていたはずの司の顔からは血の気が失せ、きつく握られた拳は震えている。
「司? ……司、大丈夫だ……」
隆也が声をかけるが、司の目はじっと自分の手を見つめている。
薄く開かれた口から漏れる息は苦しげに乱れ、肩が不規則に上下する。
「ごめんなさい……ごめんなさ……」
「司。ゆっくりでいい、ゆっくり、大きく呼吸して……」
背をさすり声をかける隆也に、司は返事もできず震えている。
手を重ねると、きつく握られた拳にまったく血が通っていないことに気付く。
「……田宮。戸田先生呼んでこい。俺は司を病人用の休憩室に運ぶ」
返事をする間もなく司を抱え上げた隆也は、そのまま部屋を出る。
残された健は反射的に立ち上がり、部屋の鍵を持って学年主任を呼びに行った。


「……はい。わかりました。はい、じゃあ、そのように……はい、ありがとうございした」
保健医と通話していた隆也が、携帯を床に置く。
床に延べられた布団の中では司が背を丸め、ようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
学年主任と健に向き直って、隆也は通話の内容を伝える。
「これが初めてじゃないそうです。極度の緊張が原因らしくて……しばらくすれば治まるそうです」
「ではこのまま安静にしていれば問題はないんですね」
「はい」
答える隆也の額には苦渋が刻まれている。
「高槻はたしか初日も体調を崩してましたね。今日はこのままここに寝かせましょう」
「はい、そのつもりです。田宮。そういうことだから、他の奴らに伝えておけ」
「……はい」
健は、答えてすぐには立ち上がれなかった。
「……あの、先生」
隆也の目を見て話すことができない。それでも、今あの状況を隆也に伝えられるのは自分しかいない。
「田宮。話は後で聞く。もう少ししたら高槻も落ち着くだろうから、それからでいい。な? 」
有無を言わせず健を立たせて、隆也は学年主任と話し始める。
自分の居場所はここにはない。健は一礼して、部屋を後にした。

冷たい手を握り、汗の浮かんだ額をなでる。
苦しげだった呼吸が次第に穏やかさを取り戻し、きつく閉じられていた目が開く。
ぴくりとも動かなかった手に力がこもり、しばしあてどなくさまよわせていた視線が隆也を捕らえる。
「先生……」
力のない声に、できるだけ穏やかな笑みを返す。
司の叔母である保険医の言葉が頭に浮かぶ。
『極度の緊張・パニック状態にでもならなければ、普通そんな状態にはなりません。一体何があったんですか? 』
隆也はただ『まだわかりません』とだけ答えた。その自分の声も震えていたかもしれない。
何故かあの場面で、司に謝られたことがひっかかっていて、落ち着かない。
状況だけ見れば悪いのは健だ。しかし司は、健と距離を置こうともせず、隆也にすがるでもなくただ謝った。
なぜ司が謝るのか。わからない。落ち着かない。ざわつく胸を無視して、司の青白い頬をなで、声をかける。
「……落ち着いたか? 」
「……はい……」
弱弱しい、今にも泣き出しそうな声。
司に聞きたいことはいくらでもある。しかし、言葉は喉の奥にわだかまったままだ。
追い討ちをかけるわけにもいかず、なにより司の口から真実を聞くこと自体が恐ろしい。
愛しいと、そう思っている相手の気持ちを疑っている自分がいる。
自分は秤にかけられたのではないだろうか、と。
「せんせ……俺……」
また小刻みに震えだした手を握り、頭をなでる。
疑いをかけられていると知ったら、この身体はもう自分の腕の中に納まらないかもしれない。
いや、その疑いが真実であれば、最初から自分の腕の中にはいなかったということになる。
久方ぶりに感じる不安と、恐怖。
「司。今は何も言わなくていい」
隆也が現実から逃れるようにかけた言葉に、ぽろぽろと司のまなじりから涙がこぼれる。
「ごめんなさい……ごめん、なさい……」
なぜ謝るんだと、反射的に口に出しそうになって思いとどまる。
謝らなければならないようなことを、司はしたのだろうか。
そうは思えない。思いたくない。
自分もまだ、混乱している。うまい言葉も見つからない。司を泣き止ませることもできない。
「大丈夫。大丈夫だから……」
「怖かった。怖くて、全部、壊れちゃうって思って……もう……」
涙が枕に染みを作る。
壊れる、とは何を指しているのだろうか? 自分との関係か、健との関係か。
わからない。問いただすこともできない。どうすることも、できない。無力な自分への苛立ちが、口をつく。
「……司。俺は今おまえの側にいてやることしかできない。話を聞き出す気もないし……責める気もない
 情けないことに、自分でもどうしたらいいかわからないんだ」
司は嗚咽を漏らしながら、じっとその言葉を拾っている。
「あの時は、田宮を怒鳴りつけて殴ってやろうかと思ったし……司に謝られて、その理由を聞きたいとも思った」
一つ一つ言葉にしながら、自分の気持ちを整理する。本当は、今も司を問い詰めたいのだ。
確かめたい。司は健を拒否したのか。本当に、自分だけを見てくれているのか。
しかしそれはできない。深く、ため息をつく。


「ただな、司を泣かせたいとは思わない。今は落ち着いて……俺も、司も、田宮も、そういう時間が必要だ」
自分に言い聞かせるように言う隆也の言葉を一つ一つ反芻しながら、司も頷いた。
涙が止まるのを待って、口を開く。
「……先生……話、聞いて……」
細く、それでもしっかりと耳に届く大きさの声を絞り出して、司は上体を起こす。
安定しない身体。ぐらりと揺れた頭を抱えた司の、背中を支えて気付く。
ひやりと、冷たい汗が流れている。震える唇が動き出す。
「本当は、殴ってでも、何してでも健を止めるべきだったんだって、わかってた。でも、俺は……」
「司。言わなくていい」
当然話を聞いてくれるものと思っていたのだろう。司は不安げに隆也を見上げた。
隆也は、見つめ返すことができない。
健を止められなかった、その理由を聞くのが怖い。
「今は休め……俺も、だめなんだ。まだ……」
こうも気弱な自分をさらけ出すのは初めてだった。けれど今は、教師の体面を守る気はない。
男のプライドが傷つくこともかまわない。
ただこの場から逃げたかった。
このままここで司の話を聞いていたら、きっと自分は司を問い詰めて、責めて、泣かせるだろう。
「だから……ちゃんと、話は後で聞くから。今は休め……」
ゆっくりと、肉の薄い背をなでて、隆也は腰を上げる。
「いや」
服の裾を、細い指が捕らえる。振り向いてはいけない。このまま部屋を出なければ。隆也はそう思った。
「嫌。そばにいて。抱いて。俺を抱いて」
しかし、予期せぬ要求に思わず顔を向ける。司の縋る様な目の強さに、隆也は息を飲む。
司の発言の意図がつかめない。そばにいろというのはまだわかる。しかし。
「……だめだ。できない」
苦々しく言うのを聞いて、司は矢継ぎ早に声を重ねる。冷静さなど微塵も感じられない。
「なんで? 人に見つかるから? 俺を嫌いになったから? 」
そのどちらでもないと言って、今の司は聞くだろうか。聞かなくとも、真実を伝える他ない。
「……今はだめだ。俺が、そういう気持になれない」
「…………なんで」
問いかけながら、司の手は力なく布団に落ちた。
項垂れる司の問いに答えるべき台詞も思い浮かばず、隆也は逃げるように背を向けた。
おやすみと、当たり前の言葉をかけることもできずに、部屋を出た。
残された司の頬を伝って涙がこぼれ、ぽたりと小さな悲鳴を上げた。

「先生」
ひどい顔をしていた。
「先生、司君……」
「あぁ、大丈夫だ。しばらくゆっくりしてれば治る」
どこで聞きつけたのだろう、ゆいが部屋の前に立っていた。
自分はどんなひどい顔をしていただろうと不安になりながら、教師に戻る。
「どうした? 今はまだ話は……」
「先生。田宮君のところに行くんですか? 」
その名前に、一瞬心臓を掴まれる。そうすべきなのだとはわかっているが、それもまたできそうにない。
面と向かって、落ち着いて話ができる自信はない。
しかし、と隆也は気付く。ゆいの口からその名前が出てくるのは不自然だ。
「なんで……」
問いかけようとした隆也に、ゆいはきっぱりと口にする。
「先生。行かないで下さい。今は司君の側にいてあげてください。ちゃんと、話をして下さい」
「待て、三崎。お前何を―」
知っているんだと聞こうとして、また不安になる。
ゆいは何かを知っているのかもしれない。自分の知らない、司に関する何かを。
自分が一番良く知っているはずの司が、唐突に見えなくなってくる。
不自然に言葉を切った隆也を見上げて、ゆいは戸惑いがちに語りだす。
「田宮君は、司君のこと、知ってたんですよね。それでこれは、私の予想なんですけど……
 その、司君の、最初の恋人っていうのが田宮君だったんじゃないかなって……」
ゆいがそう想像するのも自然なことかもしれない。
二人は仲がよく、今日に至っては二人そろって班行動から抜け出した。
今思えばあれは、明らかに健の挑発だった。
考えるほど、気分が重くなってくる。


「それと……さっき、司君と田宮君が部屋にいたって聞いて……鍵かけて、二人っきりでいて……
 それで、先生が顔色変えて司君抱えて、ここにきたって、聞いたから……何かあったのかなって……」
ゆいはほとんど状況を把握しているのだろう。ただ、それは事実として起きた行動だけだ。
「だからもし、先生がこれから田宮君のところに行こうとしてるなら、やめて欲しいんです
 今は司君の側にいて欲しいんです。司君も、そうしてほしいだろうから」
ゆいは本当に、優しい。司の数少ない女性の友人として、一番必要なことをしてくれる。
「……三崎」
「はい」
隆也は、むりやり笑顔を作った。
「司の側に、いてやってくれ。今は俺より、お前の方がいい。田宮のところに行ってくる」
「先生! 」
止めようと声をかけるゆいからも、その前にある部屋からも逃れるように、隆也は健の元に向かった。

「……司君、入るよ」
ドアをノックする音とゆいの声に、司は気付いていた。それでも、涙は止まず顔も上げられそうにない。
布団の上で膝を抱えて、ひたすら嗚咽を漏らしている。
「……失礼します」
他に誰もいないのに、律儀にそう言って部屋に入ってきたゆいは、ためらわず司の横に腰を下ろした。
「司君、あたし……」
「関係ない。三崎さんには関係ないから」
声をかけたゆいをそう拒絶して、司は黙って膝を抱える。
「…………」
無言でいることが、ゆいの優しさなのだとわかった。
今何か聞かれても、答えられない。頭は働かない。胸は締め付けられるように痛んで、そのくせ手の感覚は薄い。
ゆっくりと呼吸を繰り返し、涙が止まるのを待つ。
ゆいからは決して声をかけない。彼女は、自分を待ってくれている。
「……ごめん、ありがと……」
顔を上げ、そう言った司の背をなでるゆいの手は暖かく、やわらかい。
今日の隆也の手はぎこちなかった。それを思い出すとまた泣きそうになる。
「大丈夫? 」
司は、女の子という生き物はあまり好きではない。
けれどゆいは、その聡明さと優しさと素直さが特別だった。(天然はこの際置いておく)
ゆいに対しては、涙を見せても恥ずかしくない。
「ん……」
司が泣けるのは、隆也とゆいの前だけだ。
家族の前でも恥ずかしいと思う。それは健でも同じだ。
思い出すと、また動悸が激しくなる。
「三崎さん、俺……だめ、かもしれない……」
再び俯く司の背中を、ゆいはひたすらさすり続ける。
「……何が、だめなの? 」
「もう、先生と……健とも……」
その後が、言葉にならない。できない。頭を抱えて、必死で言葉を探す。
「ゆっくりでいいよ。あたし、ずっとここにいるから」
それが、現実には出来ないことだとはわかっている。けれどその言葉を、ゆいではなく隆也の口から聞きたかった。
それだけで、きっと自分は落ち着けた。当然そうなるだろうと思っていた。
「……先生は? 」
「今、田宮君のところに行くって……だからその間、あたしにここにいて欲しいって
 あー、えっとね、あたしも何があったのか知らないんだけど、先生真面目な顔してたから、つい」
わざと軽い口調で言うゆいの気遣いに感謝しつつ顔を上げる。
赤く腫れぼったい目を壁に向けて、隆也の顔を思い出そうとする。
真面目な顔。たしかにそうだった。けれどその目は自分を見てくれなかった。
話を聞こうともしてくれなかった。そばにいることすら、拒否された。
「……三崎さん、聞いてくれる? 」
今隆也に何かを求めても、期待した反応が返ってくるとは思えない。
「うん。聞くよ。こんなにお目目真っ赤にして頼まれちゃ、断れないよ」
笑って司の頬を包む手に、手を重ねる。苦笑いではあるけれど、司はようやく笑えた。

「……そっか。じゃあまだ、先生と話できてないんだね」
「うん……お互い落ち着こうって、それしか……」
一通り話を聞いたゆいの態度は、至極落ち着いていた。健の話にも、驚きはしたが取り乱したりはしなかった。


それに安心して、司もぽろぽろと弱音や愚痴をこぼす。それを嫌な顔一つせず聞いて、ゆいは口を開いた。
「……多分、だけどね。先生も怖かったんだと思うよ」
「え? 」
聞き返した司の顔をじっとみつめて、ゆいは続ける。
「先生も、壊れちゃうのが怖かったんじゃないかな。さっきの先生、すごく不安そうな顔してた
 司君に負けないくらい。だからきっと、そうだよ」
自分ことを守るのに精一杯で、司はそこまで気付かなかった。
今思えば、あれは自分と向き合うことから逃げていたのかもしれない。
「……そっか……」
「そうだよ。先生だって、恋してるんだもん。不安にくらいなるよ」
ゆいの可愛らしい表現が、忘れかけていた幸せな感覚を思い出させてくれる。
「そっか……うん。そう、だね……」
「うん。だからね、司君は先生がかっこつけられるようになるまで待ってあげなきゃだめだよ
 ……苦しいと、思うけど。明日にはきっと、先生も話聞いてくれるよ」
にこりと笑うゆいが、とても大人びて見える。
「……そう、だね」
「そう。だからお顔洗って、ぐっすり寝て。明日は修学旅行最後の日だよ。楽しまなきゃ、ね?」
「うん。ありがとね、三崎さん」
笑って、司は立ち上がった。ゆいも腰を上げる。
「どういたしまして。じゃあ、あたし部屋に戻るね」
「うん。おやすみ」
「おやすみ」
部屋を出て行くゆいの小さな背中を見送って、司は洗面所に向かった。
顔を洗って、ゆっくりと考えて。ゆいの言うとおり、寝てしまおう。
そう決めると、ようやく心が軽くなった気がした。

隆也は、健を非常階段に呼び出した。表の通りを通る車の音だけが聞こえる。就寝時間も近い。
目の前にいる健の沈んだ表情を、正面から見つめられる気分ではない。それでも、すべきことがある。
「先生、俺」
意を決して口を開いた健をさえぎる。
「田宮」
「はい」
教師としてやるのではないと言い訳して、隆也は拳を握った。
「悪い」
鈍い音とともに、健がよろめく。
「……いえ。俺は、こんなもんじゃ許されないようなこと、したんですから」
健の言葉を聞いて、隆也はようやく思い出す。傷ついたのは自分ではない。司だ。
自分自身の不安と、司を傷つけたことへの怒りが混同されていた。
「……そうか」
力なく言った隆也に、健は目を見開く。
「そうかって……聞いてないんですか? 」
「あぁ……聞く勇気が、なかった」
大人の口からこんな言葉を聞くのは初めてだった。戸惑い、それでも健は口を開く。
「……悪いのは、俺です。司のこと、応援しようって思ってたのに……
 先生といるの見たら、まだ好きなんだって気付いて、でもそれを言っちゃいけないから……」
だから、なんて言い訳にはならない。それは健もわかっている。
それでも、本気で司を奪おうとは―奪えるとは思っていなかったから、ああなった。
「自分は、女が欲しいだけなんだってことにしたんです。卑怯だってわかってたけど……どうしようもなくて」
搾り出すように言った健のその心境は、理解できないでもない。しかし問題は、そこではない。
「司は」
「え」
「司は、嫌がらなかったのか? 」
何を聞いているんだろうと、健はいぶかしみの視線を向ける。しかし隆也の表情を見て、素直に事実を伝える。
「嫌がりました。でも、俺は聞かなかった。口、塞いで……泣かせました」
言うほどに自己嫌悪が強くなるのだろう。健は沈痛な面持ちでうつむき、唇を噛む。
「健」
下の名前を呼ばれ、健は顔を上げる。隆也の表情は変っていた。力のある目が健を見ている。
もう大丈夫だと、そう思わせる顔だった。
「司は、俺が守る。もう泣かせない。だからお前は、司の友人でいろ」
辛いだろうけど、と付け足した隆也は笑っている。


「……はい」
「よし、んじゃ明日に備えて寝るか! 最終日だからな、寝坊すんなよ! 」
ぐりぐりと健の頭をなでる隆也は教師だ。
そしてこの日は、教師のまま一日を終えた。


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