顔の見えないクロードが囁いた。
「でも」
無言で聞く。
サディアスはそれしかできない。
「…そろそろ家に戻るかと、思ってるんだ」
言葉とは関係なく、ぎゅっ、と掌に一瞬力が籠った。
熱い掌だった。
クロードの熱を彼は感じ取り、それでも一心に、耳に神経を集中させた。
「…もうさ、無理だよ。ハタチになるんだ」
副長の肩はこんなに頼りなかったか。
「胸だって、この二年くらいで急にこんなになりやがるしさ」
薄い胸板とだけ思っていたのに、サディアスは急にみぞおちあたりに、押しつぶされたささやかな温もりを意識する。
「あんたはここんとこ、もうずっと変だし……潮時だろ」
「──辞めるつもりなのか」
クロードは黙った。
その沈黙が質問への答えだ。
衛兵長は言った。
「長女だと言ったな。──居場所はあるのか」
そんな強引な父親なら、とうに年頃になった妹に婿を押し付けて跡取りにしている筈である。
クロードは低く笑った。
「上の妹のマリーとは、時々だけど、こっそり手紙のやりとりしてたんだ。……一昨年だったかな、俺…じゃないや…私の時と同じ男が夜這に来たって」
「…怪しからん父親だ」
サディアスはわずかに頬に血を登らせた。これは照れではなく怒りだった。
クロードは顔をあげた。
そのすがすがしいほどに愛嬌のないそれでも奇妙に愛らしい顔に、してやったりという微笑がわずかに浮かんでいた。
「心配すんなよ。額の傷跡、…つまり三年前と同じ所を燭台で思いっきり割ってやったって、マリーの奴、得意そうに書いてきた」
今度はランプではなく燭台か。
吹き出しそうな口元を引き締め、目を逸らして、流石は副長の妹だけある、とサディアスはかすかに感心した。
「その男、うちの女にはこりごりしたらしくてやっとのこと逃げ出してよ…町中の噂になったんで、モリソン貿易商会は未だに深刻な後継者不在のままさ」
クロードは話を結んだ。
見つめられている気配がしたので、衛兵長は首を巡らせた。
そのまま、その青い目は、魅いられたかのように彼女の視線に溶け込んだ。
「…だから、家に戻ったら、もう自分で好きな男が選べる」
隊員同士で笑い話をしている時の皮肉屋の表情はどこにもなく、碧の目は真剣そのものだった。
「この五年でいろいろな奴を見てきたから──少しは、いい男が選べると、思う」
「………」
掌が、というよりもほっそりとした指先にまた熱い力が入る。
サディアスを見つめているクロードの顔がわずかに歪んだ。
「…もう決めてるんだ…選ぶなら…できるだけ、操縦しやすい、間抜けな奴さ。…信じられねぇくらい単純で……鈍感で……」
「…………」
「…できればお人好しでさ。…でも、贅沢いえるなら、それで正義漢で面倒見がよくて、できたら腕もたって……他の奴らから尊敬されるような…」
「…………」
「……いるかどうかわかんないけど。でも、そんな男を探すんだ」
クロードの碧の目に透明なものがじんわりと湧き出したが、彼女は乱暴に瞼をぱちぱちと瞬かせてそれを散らした。
その量に驚いたような顔になり、クロードは急いで首を振ってサディアスに、泣く寸前のような顔で笑いかけた。
「へっ、将来設計バッチリだろ?」
サディアスは頷いた。
「ああ。いい男が、見つかるといい」
「……………」
目の碧が紺のように暗くなり、笑顔はそのままに固まり、クロードは人形のようにサディアスを見つめ続けた。
その腕を掴み、サディアスはうつぶせるようにいかつい顔を寄せた。
固まっていた顔が呼吸を取り戻すよりも早く、衛兵長はその、愛嬌のないくせに整った顔の女に口づけをした。
「…………」
顔が離れると、クロードはしゃくりあげるように深く息を吸った。
胸を浅く上下させ、白い顔に赤みがさした。
吸われてかすかに光る唇の両端が緩み、彼女はゆっくりと微笑んだ。
魔法が解かれたようだった。
それまでのぎこちなさが嘘のように、愛嬌のなかった表情が鮮やかさを『取り戻した』。
一気に開いた花のように微笑が整った顔を彩り、みるみるうちに艶めいた。
固く閉じていたドアが解放されたような、それは心躍る眺めだった。
閉じ込められてきたクロード・モリソンが五年を経て、やっと彼女の中に戻ってきたのだろう。
「あ…」
何か言おうとするクロードの背に掌を差し込んで、サディアスは再び唇を重ねた。
「ふ」
クロードは目を閉じ、広すぎる背を抱いた指を軽く食い込ませた。
サディアスの口づけは思いがけないほど激しくて深かった。
精一杯、それに応えながら、彼女はじんと痺れるほどの痛みを左の肋に感じた。
弓筈の食い込んだ痕だろうが、その痛みももう彼女には何の影響も及ばさなかった。
圧倒的な幸福にクロードは酔い、口腔に感じるサディアスの濡れた舌のひたすら情熱的な動きにその酔いを深めた。
「…あ…ふぁ……んっ…ぅん…」
背中を、大きな掌が這っている。
それがブラウスの裾をたくしあげている事に気付いたが、彼女は厭がらなかった。
背骨に沿った素肌にサディアスの指が触れ、その熱さにクロードは、重なった唇の合間から声を漏らした。
「は…」
ふいに唇が離れた。
すがるように目を開けると、青い目が酔った表情を浮かべて見つめていた。
その唇はかすかに赤くなり、どちらのものともわからぬ唾液に濡れていた。
自分のも同じような色をしているに違いない、とクロードは思った。
「…その、幸せな男には悪いのだが」
サディアスが口を開いた。
あの癖は出ていない。
「それより先にお前が欲しい、副長」
「………」
「嫌なら殴れ。そこの瓦礫ででも」
クロードはかぶりをふった。耳朶まで赤くなっただろうと思うほど、頭がかあっと熱くなった。
「…緊張、してないの?」
指摘されて、自分がスムーズに喋っている事に、衛兵長はやっと気付いたらしかった。
「…緊張……は、しておらぬな」
クロードは微笑した。
サディアスの頬に両手を滑らせ、彼女は自分から、甘く深いキスをした。