壁の向こうは吹きっさらしの青天井…いや、夜だから黒天井…だった。冷え冷えと石を敷き詰めた床しかない。
「こんなところでは風邪をひく」
サディアスは顔をしかめて、副長の胴を支える掌に力をこめた。
「やはり、火の傍に戻ろう」
言い終えた途端、大きなくしゃみをした巨漢を見上げて、クロードは声を潜めた。
「あんたが風邪ひいてんじゃねえの」
「それは…」
衛兵長は鼻水をすすり上げた。そういえば、このところ風邪気味だった事をすっかり忘れていた。
「…今、服を着ていないからだ」
クロードは俯いて、うんざりしたように額を押さえた。
「面倒見がいいのも考えモンだな…先に服くらい着てくれよ、頼むぜ衛兵長」
「うむ」
二人は引き返し、再び火の傍らに落ち着いた。
サディアスが服を着るのを、副長は火に枯れ草を放って勢いをつけながら、疲れた顔で見ていた。
が、その右手が反対側の肋の上をしきりに撫でていることに衛兵長は気がついた。
「そこはどうした」
「ああ…これか」
クロードは舌打ちした。
「詰め所ンとこで俺の弓がいかれただろ。折れた弓筈が突きこんできた痕がちっとな」
サディアスはじっと副長を見た。
「そういえば礼がまだだった。感謝する、副長」
「よせよ」
クロードは笑った。
「俺があんたを護るのは当然だろ」
「いや。すまぬ」
上着を羽織り、副長の傍に腰を降ろしたサディアスは彼に言った。
「一応そこも見ておいてやろうか」
「またかよ」
クロードは、ぱっと飛び退…きかけ、太腿の例の傷を抑えて呻いた。
「いちちち」
「満身創痍なのだ。遠慮するな」
「遠慮じゃねえんだよ!…あっ、この馬鹿」
あっさり巨体に押さえ込まれて、クロードは顔を真っ赤にして叫んだ。
サディアスは笑った。
「世話をやかれたくなければもう少し肉をつけろ、副長」
「やめろよ!イヤなんだよ、男に触られるのはっ」
「………それはすまぬが。おや?」
サディアスは間近で、優男の副長の顔をまじまじと眺めた。
その、男にしておくのはもったいないようなどこか線の細い容貌には、確かに嫌悪と、それからよくわからない表情が浮かんでいる。
「お前。なかなか女にもてそうな男前だったのだな、クロード」
「うげっ」
副長は呻いた。
「よせやい、今さら。五年もつき合わせてた面だぜ。まさかそんな趣味があンじゃねえだろうな、あんた!」
「ない。俺とて顔を近づけるのは女性のほうが楽しい」
サディアスは身をおこし、クロードの襟首を引っ張り上げた。
そのまま骨太い指でボタンを外し出すと、クロードは両腕をつっぱって逃れようとした。
「女?……女ってな、例えばあれか。確か、アンヌっつったっけかな──金褐色の綺麗な髪の?」
サディアスの指の動きが止まった。
それはわずかの間だったが、クロードはその間に素早く言い添えた。
「あんたの惚れてる娼婦だよ。え、身分違いもいいとこじゃねーか?──ダジュール子爵家のお坊ちゃま」
ぎくしゃくと、衛兵長は躯を起こした。その口を突いて、例の癖が出た。
「どどど…ど、どこでそそそれを」
クロードも斜めに身を起こし、憎々し気に言い捨てた。
「誰でも同じだろ。二ヶ月前だっけな。あんたを娼館に誘った部下からバッチリ聞いたさ」
「ち、違う」
サディアスは、やや頬を赤らめたがきっぱりと言った。
「たた、確かにいかがわしい場所に行った。その女とも寝た──が、が──惚れてはおらぬ」
「へえぇぇぇ」
クロードは碧い目を細め、信用していないことが丸判りの抑揚を声に効かせた。
「その女とは一度じゃなかったって聞いてるぜ。先月か?そン時もわざわざ同じ女を指名したんだってな」
衛兵長は大きな図体を縮めるように座り直した。
「ししし、指名はしたが…それは、その女だから、じゃない。…他には一人として居なかったのだ、あのような豪華な、金──」
黙り込み、サディアスは顔をうつむけた。
頭の毛を同じくらい、その顔が赤く茹で上がっていた。
クロードはゆっくりと言った。
「──金褐色の髪か?」
「………」
サディアスは返事をしなかった。
副長の顔が複雑に変化した。
身をゆっくりと乗り出した。太腿の傷も、肋を撫でるのも忘れている。
「おい」
衛兵長は巨体を揺らした。その頭の天辺に、クロードは不審も露に問いかけた。
「…まさかよ」
サディアスは無言だった。
「あんたの惚れてる相手ってのは、本当に、その女じゃねーんだな?」
「………ち、違う……」
衛兵長は顔をあげた。嘘の吐けない青い目が怯んでいた。
いつも剛毅で単純な衛兵長を見慣れたクロードの目に、それはひどく弱々しく、だからこそかえって恐ろしいものに映った。
「…そのへんには転がってないような、豪華な金褐色の、綺麗な髪──」
クロードはのろのろと呟いた。
「あんたがおかしくなったのは──そうだ、イヴァン様が王陛下に閉じ込められて『あの方』がいらっしゃった、丁度三ヶ月前からだ──」
「やめろ」
衛兵長が叫んだ。
副長に飛びかかり、口を塞ごうと掌を押し付けた。
「いいい言うな、クロード!」
「…娼婦どころの騒ぎじゃねぇや!」
それより早くクロードが大声をあげた。
「てめぇ、何考えてんだ!!!」
「だだ、黙れ!!」
口元を歪めた衛兵長に押し拉がれたクロードは悲鳴をあげた。肋と太腿をいっしょくたに庇って可能な限りに躯を丸める。
その声にわずかに正気を取り戻したサディアスは、自分が副長の細っこい躯に体重をかけている事に気付いた。
だが重みをのけようとはしない。
青い目をぎらぎらさせて、サディアスは迫った。
「いいい、い言うな。言うな。だ、誰にも言うな!!」
「言えるかよっ」
クロードが叫んだ。
「バレたら、よくてあんたは追放だ──下手すりゃ殺されちまう。殿下の『あの方』への寵愛は知ってるだろう!」
渾身の力でそこまで言うと、副長は激しく咳き込んだ。
衛兵長の巨体から力が抜けた。
クロードの上からよろりと離れて、彼は尻餅をつくようにへたり込んだ。
しばらくの間、副長の咳き込む声と、たき火が弾ける音だけが夜の静寂を埋めた。
「…知っている」
やがて衛兵長はぼそりと呟いた。
「判っている。イヴァン様の溺愛ぶりも、あのお方がご主人様を心底慕っていらっしゃるのも。俺は──」
いかつい顔が歪み、クロードは信じられないものを見た。
青い目が激情に潤んでいる。
「俺は──聞いたのだ」
ふつ、とサディアスは口を噤んだ。
何を、とは聞けなかった。
この男が、漏らさぬと決めた事は口が裂けようが漏らすことはないと、クロードもまたよく判っていた。
衛兵長の首が深く俯くのを、クロードは深い胸の痛みとともに見守った。
見守ることしか、できなかった。