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衛兵長動揺する 1

ナサ ◆QKZh6v4e9w氏

賓客のための長い長い宴がようやく果てて賑やかな灯火が落とされ二時間がたつ。
広大な王宮は冬も終わりの凍てついた星空のもとにひっそりと静まりかえっていた。
平和で静かな深夜である。

だが、よくよく見れば庭や城壁沿いの要所要所に、闇に同化した漆黒の制服を着た衛兵たちが、王家の紋の縫い取りの金糸と目を、
かがり火に小さく光らせている。
それも普段の当直の人員より、その数ははるかに多い。
非番の者もかり出された総動員態勢のようだ。
なぜか。

その理由は実はしばらく前のとある慶事にさかのぼる。



一週間前、王子妃の初めての懐妊の知らせが離宮より届けられた。

その報を告げるのに使者ではなくイヴァン王子本人が馬をとばして乗り込んできたあたりに、
この問題における王家の喜びようを知ることができるだろう。
最もその際、国王執務室内において父子の間でなにやら多少のイヤミの応酬が繰り広げられたらしい。
だがそれは扉の前を護る衛兵長しか知る事のないささやかな珍事であり、王都ではすぐに全ての教会の鐘が鳴らされて、
臣民は早くもお祭り騒ぎの前哨戦を繰り広げることになった。
世継ぎの王子は他の特質はどうあれ聡明なので人望があり、その若く美しい妃の人気は絶大で、
しかも王と王妃がかつてなかなか世継ぎに恵まれなかったことを知る年代の人々の記憶もまだ失せていなかったためである。
だがこの懐妊に誰よりも度外れた感激を示したのは、実は善良なる臣民でもなければ夫である王子でもなく、客観的に見て本人である王子妃ですらなかった。
誰かというと、当然というか意外というか、胎児の祖父である老王その人だったのである。

その喜びようは尋常ではなく、すぐに記念の大量恩赦を行い全ての物資の関税をひき下げ、王国中の全妊婦に見舞金を贈るという騒ぎにまで発展した。
周囲は必死で止めたのだが、国王の上に年寄りという二重苦のせいか人の言うことを聞くような人物ではない。
ついに王の感動は、父祖伝来、王朝始まって以来このかた門外不出の貴重な宝物群を、王宮の迎賓館にあたる正門に近い南棟の大広間に飾り、
これらを上は貴族から下は庶民まで誰彼構わず公開するという……太っ腹は太っ腹なのだが、
これで王子妃無事御出産の暁には一体どんな騒ぎになる事やらと関係者を恐怖に陥れる事間違いなしの大盤振る舞いに及んだのである。
それでも公開期間を一週間と限定できたのは、さすがに女性ならではの現実感覚で、王より一足早く理性を取り戻すことができた王妃の尽力に負うところ大だった。

そしてもちろん、この一週間というものの王宮付衛兵隊の苦労は並大抵のことではなかった。
これまでは北搭にある宝物倉だけ厳重に警護しておればよかったものを、実はこの一週間の間に国外からの賓客をもてなす晩餐会が三つあり、
その間も南館には例の貴重きわまりない宝物が鎮座しっぱなしなわけである。
本来の王室及び賓客の警護任務以外にも、その警護対象が出来心で泥棒に早変わりせぬかとその心配もせねばならず、
もちろんそれ意外の理由による宝物の紛失などあってはならぬので客の全員をそれとなくチェックしていなければならない。
王宮付衛兵長を務めるサディアス・ダジュールの心労は並大抵のものではなかった。
普段から任務一途の熱血な男なので、警護の陣頭に立ちっぱなしでこの一週間、ろくに眠ってもいないはずである。
おそらくこの任務が終わったら血反吐を吐いて倒れるのではないかというのが周囲の部下達の見解だ。
そして今宵が最後の一夜、やっと三つ目の宴が果て、貴重なる宝物は全て元通りに北搭の倉に戻され、このまま朝まで何事もなく無事に過ぎればこの臨時体制を解くことができるというところにまで事態は進んだ。

あと数時間で冬の終わりの弱々しい夜明けの光が、彼ら衛兵の疲れた顔を優しく照らすことだろう。





国王陛下にも困ったものだ……。

ふと浮かんだその感慨を不敬と気づいて慌てて脳裏から振り払い、サディアスは衛兵長だけに許されている派手な装飾帽をかぶりなおした。

だが実際のところ、こうして一緒に並んだ部下たちの疲れ果てた顔つきを見ているとその思いが胸をよぎらざるを得ない。
もちろん王子妃の懐妊はおめでたい限りである。
だが、今後長く苦しい妊娠期間を経てご出産になるのはあくまでもナタリー様なのである。
まだまだお妃様にはおつらいこともおありだろうに、現時点でここまで浮かれるだけ浮かれて舞い上がっている老王の無責任なはしゃぎようが、なぜかカンにさわってしかたないのだ。
…疲れているのだろう。
彼は片手をあげて目頭を揉みほぐした。
なんとなく、うっすらと、頭も痛いような気がする。
夜警続きで風邪でも引きこんだか。

自分はもう若くはないのだろうか、と彼はふと思った。
とはいうものの、実は彼は先日三十代に入ったばかりなのでそういう熟した感慨を持つには早すぎるのだが、最近、有り体に言ってどうもサディアスはやる気がでない。
あれだけ情熱を持っていたはずの王宮勤務の華であるこの衛兵長の仕事にも、これまでに感じたことのない索漠とした虚しさを覚えている。
この一週間の過酷な任務で燃え尽きたのかもしれない。
気まぐれな思いつきを本当に実行なさるとは、しかし国王陛下は全くのところ何を考えておられるのか…。

……どうも思考が空転している。

しばらく休暇をとるべきかな…、と彼は考え、自分で自分の気弱ぶりに辟易した。
踵をつけ、背筋に力をいれてサディアスは気合いを入れ直した。
あと数時間。
「もうすぐ夜明けだ。油断するな」
部下に声をかけ、今宵何度目かの巡回に向かおうとして歩き始めた彼の背中を、ぽんと誰かが軽く叩いた。

「おいおい待てよ。巡回に行くのにおまえ、一人でか?」

サディアスは巨体を半分巡らせてちらりと背後に目をやった。
「ああ。忘れてた」
「忘れてたぁ?」
その目線の先に、あからさまに意外げな口振りになった細身の男が顔をしかめて立っている。
サディアスと同じく衛兵の黒衣のお仕着せを身につけ、その色にも負けず劣らずの漆黒の、耳にやっとかけられる程度の短髪を持つ若い男だ。
「寝ぼけてんじゃねーかサディアス。巡回は一人じゃアブねぇっていつも俺たちに口を酸っぱくして言ってんのはてめぇだろ。自分だけは違うんじゃ、衛兵長ってないい加減な商売だぜ」
「そう思うなら変わってやってもいいぞ、クロード」
サディアスは体の向きを元に戻した。
歩き出した彼を追いながら、クロードと呼ばれた黒髪の青年はわずかに慌てたように言葉を継いだ。
「待て待て!冗談だ」
衛兵長は太いため息をついた。
「いや、本当に忘れておったのだ。いかんなどうも」
「…確かに妙だ、最近のあんたは」
クロードは肩に背負っている矢筒を揺すりあげてその横に並んだ。
横の巨漢とはかなり歩幅が違うので、早足になっている。
通り過ぎると衛兵たちが挙手の敬礼を彼らの長に対して行うが、その横のクロードに対する視線にもそこはかとなく畏れの光が見て取れる。




衛兵副長クロード・モリソンは若いながらも弓の名手である。
王都からかなり遠方の海に面した都市の出身であり、貿易商を営んでいる父親がいるらしい。
貿易船ばかりか海岸都市を略奪する海賊の脅威に対抗すべく自衛のため町に雇われた傭兵から、幼少時より弓の手ほどきを受けていたのがきっかけで才能が花開いた。
ついには退役した王軍の弓術の師範の元に通い始めて十代半ばにも満たぬうちに師範代を務めかねないまでの腕前となり、あまりの入れ込みように弓を捨てて家業を継げと迫る父と大喧嘩して家を飛び出し都に出てきた。
彼はすぐさま王宮の門を叩き、衛兵隊に志願した。
いきなり来るあたりが心臓だが、王宮付の衛兵隊といえば泣く子も黙るエリート集団であり、世間を知らぬ地方出身の才能あふれる青少年が憧れて目指すのも無理はない。
衛兵隊には貴族の子弟をあてるというのが不文律だったが、あまりに弓の手が鮮やかだったので偶然その光景を見ていた国王じきじきのお声がかりで見事見習いとして入隊したのが五年前。
当時ダジュール子爵家の四男坊サディアスはすでに副衛兵長として衛兵隊に在籍しており、面倒見のいい性格を見込まれて、この平民出身の少年の面倒を見ることになった。

…なったのだが、最初から、なかなか苦労しそうな相手だった。



宿舎の食堂で発見した時、少年クロードは他の見習いから離れた席で一人盆を抱え、まずそうに肉団子のスープを啜っていた。

「クロード・モリソンか?」

声をかけると、ぎょっとしたように黒髪の少年は顔をあげた。
目は碧かった。
「副衛兵長のサディアス・ダジュールだ。お前の指導の任を受けた」
うさんくさそうに匙を置き、少年はじろじろと上から下まで先輩衛兵を観察するとおもむろにこう言った。
「…驚いた。鐘楼が動いてるみたいだぜ。聞いていい?何食ったらそんなにでかくなれんの?」
「お前と変わらぬだろうと思うが」
偉丈夫揃いの衛兵隊にあってもひときわ巨漢のサディアスは自分の盆の上に並んだスープやパンを示してみせた。
無礼な子供だと思い彼は内心顔をしかめたが、傍のテーブルから会話を盗み聞きしていたらしい見習いが口を挟んだ。
「副長殿に生意気な物言いをするな。ちょっと弓ができるからって、汚らしい平民の癖に生意気だぞ!」
そのとたん少年が小さい拳を固めて身を乗り出し、目にも留まらぬ鋭いパンチを相手にお見舞いした。
見習いの鼻から鮮血が噴き出したが、あっけにとられていたサディアスが取り押さえようとすると少年は素早く身をかわし、鼻を押さえた見習いに叫んだ。
「それしか言えねぇのかよ!血の巡りが悪ぃ癖にいっぱしに鼻血出しやがって、汚ぇんだよこの穀潰しの臑齧りが!」

この会話であらかたの事情を察知したサディアスは椅子を退いて立ち上がり、むんずとクロードの襟首を掴むと食堂から引っ張り出した。
「放せよ!もっと殴ってやるんだ。あいついちいち絡んできやがって気にくわねぇ!」
少年がじたばたしたが、自分をつり下げた二の腕の硬い盛り上がりを見て、この副長に膂力でかなうはずがない、と悟ったらしい。
だらんと両腕を下げて猫の子のように運ばれたが、食堂からはるかに離れた馬舎の裏でようやくおろされ、地面に足の裏がつくとまたわめきだした。
「なんの用だよオッサン!じゃますんな」

サディアスは草地に腰を下ろした。
「まず座れ」
少年は並んだ副長の巨大な躯に改めて気付いたらしく、毒気を抜かれたようにぴくぴくと鼻をうごめかせた。
「…臭ぇんだけど、ここ」
馬糞の発酵した匂いが風に流されて、狭いはげちょろけた草地全体にもの悲しげに漂っている。
「そのうちに慣れる。しばらくは我慢するのだな」
サディアスはわずかな草の上に腰を下ろした。
「なんなんだよ…」
ぶつぶつ言いながらクロードもすこし離れた場所に座った。
座っていてもなお嵩高いサディアスにちょっと圧倒されているようにも見えた。


「お前に言いたいことは二つある。まず、俺はオッサンではないと思う」
サディアスは帽子をとり、ふさふさと癖のある平凡な赤毛を示した。
「…あー。ま、その、だね。…禿げてねーよ」
少年は気まずそうにうなずいた。
…わりに素直な子供だな、とサディアスは内心頷いた。
口のききかたも知らず、なにやら肩肘はって非常にぴりぴりしてはいるが根は悪くないようだ。
「そう。まだ25だ。次に」
副衛兵長は空を見上げた。
「俺の叔父はジェイラス・ダジュールと言う」
クロードの口がぽかんと開いた。
「ジェイラス…?…まさかあの、ジェイラス・ダジュール将軍?…すっげえ!いいなあ!」
みるみる視線が尊敬のまなざしに変換される過程を見てとって、サディアスは苦笑した。
「現金な奴だ」
「だって!」
クロードは立ち上がった。興奮のままに、転びそうな足取りで狭い草地を歩き始める。
「去年のストラッド防衛戦でのジェイラス将軍、あ、その時はまだ将軍じゃなかったっけ…とにかくあの奮戦ぶりを知らねー奴はこの国にいねーよ。すげー。すげーよおい」
「昨年、功により次男ゆえ爵位を持たなかった叔父は一気に将軍の地位と新たな爵位を得た」
サディアスは続けた。
「今の国王陛下は戦場で勇猛な騎士というだけではなく明晰果断なお方だ。実力さえお見せすることができれば相応しい地位へと引き上げてくださる。…だがそう思っているのは本人とその一族だけでな。そして、俺が『偶然』24の若さで副長になったのも昨年だ」

少年がぴたりと足を止める。
「どういう事?」
サディアスは肩をすくめた。
「世の中にはそういう現象に腹が立つ人間がいるのだ。わかりやすい事例だろう」
「………」
クロードは草地に座り直した。
「あんたが将軍の引き立てで不正に出世したって思ってる人達がいるって事?」
「そうあからさまに要約されるとなんだが」
サディアスは眉を寄せた。
この子供はさほど頭も悪くないらしい。
「叔父が動いたかどうかは知らぬが、そういうやり方は我が一族の流儀ではない。それに、我々にも言わぬが、叔父も軍の中枢を占める門閥高官の中で苦労している。だから、俺は自分の忠誠と努力で今の地位をいただけたと信じている。なによりも、そう考えたほうが楽しい」

クロードは鋭く副長に視線を投げた。
黒髪に碧い目というのはなかなか負けん気が強そうに見えるものだが、この少年には似合っていることを副長は発見した。
サディアス自身は平凡な赤毛につきものの平凡な青い目である。
「貴族もいろいろあんだな。知らなかったぜ」
「同情してもらえて、大変嬉しい」
サディアスがいかつい顔を緩めると、少年は警戒するように目を細めた。
「…なんかオッサ…じゃねえや……あんたって、単純そうな奴だなぁ」
いかにも、気にくわない、といった口調で少年は呟いた。
「単純なんだろう。それなりに楽しくやっておる。それに俺の名前はサディアスだ」
サディアスは立ち上がった。
「志願して受け入れられたのだ、お前もここで楽しく過ごすように努力しろ。実力があるのだろう?」
「…王様の折り紙付きだぜ」
少年はにやっと笑い、巨漢の死角になって踏みつぶされるのをおそれたらしく、ぴょこんと慌てて立ち上がった。




それ以来、クロード少年は副長になんのかのとつきまとうようになった。
指導しされる間柄ということもあってなにかと行動を共にした事もあるだろうし、彼の叔父のジェイラス将軍という憧れの星の存在が、サディアスに対するクロードの生意気加減をぐっと和らげたのかもしれない。
それとも、単純だが包容力のあるらしい性質が気短な少年に気に入られたのか。

とにもかくにも日々の任務を重ねるうちに二人は互いの力量を認め──クロードの弓は国王の眼鏡にかなっただけあって、衛兵隊にあってもなお抜きん出ていた。
一方サディアスの剣は巨体に似合わず力押しだけではない確かな技術を誇っていた──共に過ごしているうちに意外にもウマのあうことも発見し、五年たった今では衛兵長とその副長としてなくてはならぬ名コンビとなっている。

巨漢のサディアスが衛兵長の要職に就いたのは一年半ほど前の夏である。
その夏、あれは国を揺るがす大きな叛乱の勃発前後だったが、使用人に紛した男が国王の唯一の世継ぎであるイヴァン王子の命を狙うという不祥事が起きた。
暗殺未遂犯は逮捕され監禁されたはずだったがある日を境にその行方はふっつりと絶え、その行方は今でもわかっていない。
もしかしたら闇から闇に葬られたのかもしれない。

その男の運命よりも衛兵隊にとって問題になったのは、刺客の潜入を許した王宮の警備体制である。
幸いにも暗殺の実行以前に不審を察知して容疑者を逮捕できたものの、長の立場に関わる重大な責任問題には変わりない。
そういうわけで叛乱終結後に衛兵長の交替がおこり、副長のサディアスが新しい長として就任することとなった。
サディアスは張り切った。
副長の後釜にクロードを指名して体制を整え、彼らしい真面目さで衛兵隊を再編成した。
衛兵隊は熱血男とその脇の斜に構えた男二人のもと、揺るぎない忠誠心と確かな技による選抜を行い、隊員の質も格段に向上した。
国王の実力主義に傾く治世への不満が爆発した叛乱鎮圧のあとだけに、衛兵隊の再編成がやりやすかったのは幸運だった。

護るべき王室メンバーもこの一年半で変化した。
イヴァン王子は妃を迎えて都南東部の離宮へ入り、それから二ヶ月後その姉にあたる王女が一人女子修道院長として王国北部の街に移った。
そして一週間前、未来の新たな王室の顔となる胎児の存在がめでたく判明した。
衛兵隊の責務はますます重く、彼ら精鋭の一層の団結と忠誠が発揮されることをさらに期待される今日この頃──。

しかし、このところおよそ三ヶ月の間。
───副長の見るところ、サディアスの様子はほんの少しおかしくなっているのである。
特にここ一週間ほど、任務に忙殺されている様子に紛れてはいるが、彼の不審な変化は変容しこそすれ治る気配がない。



「気付いてたぜ。……他のヤツはどうだか知んないけどよ、俺の目はごまかせねぇ」
クロードがぼそっと呟いた。
巡回の道のりはほとんど終わりに近づいている。かがり火に照らされた、裏門の詰め所が見えてきた。



サディアスは足をとめなかったが、クロードから見上げる位置の顎から頬がうっすら赤くなったのが、行く手に焚かれてあるかがり火のおかげでわかった。
「副長だからな。悲しいことに常日頃から、あんたを観察する癖がついちまってンだよなぁ」
クロードは早足で回り込み、巨漢の前面に立ちはだかった。
しかたなく立ち止まり、サディアスは咳払いした。
「…あー。邪魔だ」
「バカ。邪魔してんだよ」
クロードは詰め所までまだ少し距離があることをちらりと確認し、腕を組んだ。いつも肩にかけている白いアシュの弓が軽く揺れた。
副長は普通のサイズの長弓は使わない。彼が使うのは一般には短すぎると思われるサイズの特注品ばかりだ。
「持ち歩きしにくいじゃねぇかよ」というのがその言である。
ひきにくいその手の弓でクロードのようなやせっぽちの優男がよく剛毅な矢を射るものだと衛兵長はいつも感心している。
そのあたりが名手と呼ばれ、この若さで副長就任した平民出が部下達に一目置かれる理由なのだと知ってはいるのだが。

「あのさあ…」
無礼で短気なクロードが珍しくいいづらそうだった。
「…聞くのも野暮なンだけど…あのさ……女…だろ」
「どけ」
サディアスは大きな手でクロードの肩を押しのけようとした。その腕につかまるようにして抵抗し、副長は続けた。
「困ンだよ、その態度。副長の俺に隠し事かよ?」

「…かかかか隠し事など、し、しておらん」

クロードは捕まえているでかい腕をぽんと平手で叩き、一瞬だけ口元を緩めた。
サディアスが極度に緊張したり照れたりするとこの癖が出ることなど百も承知だ。
「……その、女だけどよ」
いささか寂し気な口調なのは、苦楽を共にしてきた衛兵長が言い逃れようとしたせいか。
「その…もしかしたら、惚れちゃいけねぇ相手なんじゃねーの」
びくっ、と衛兵長の背中が揺れた。
開いているほうの片手で派手な装飾帽を素早く脱いで被り直し、サディアスは表情を隠した。
だが頬は真っ赤だ。
それが照れかそれとも心の秘密の場所に土足で入り込まれることへの怒りか、そこまでは副長にもわからない。
「ししししし知らぬ」
クロードのおさえている片腕にぐっと力が籠り、サディアスが逃れようとしている気配が伝わった。
「…誰かに惚れちまうのは仕方ねーけどさ、あんたそれ不毛だぜ」
「言うな!」
衛兵長は咆哮した。深夜の空気がびりびりと振動した。
思わず固まった副長の背後で、何事かと詰め所から衛兵たちが飛び出した気配がした。

クロードの手を簡単に振りほどき、サディアスは青い目で威圧するように彼を見据えた。
「…それ以上とぼけた詮索をすると許さんぞ、副長。話はこれで終わりだ」
わかりやすい癖は消えていた。
叫んだ直後にもう自制心を取り戻したらしい。
感心すると同時になんともいえぬ辛そうな目になって、副長は帽子をとった。
さらさらと短い黒髪が闇に溶けた。
「……すまねぇ。だが、サディアス…」



言葉はそこで途切れた。
副長は帽子を放り出すと細い躯を丸めて思い切り衛兵長に体当たりし、巨漢ごと石畳に転がった。
後ろの闇から飛び出してきた男が、衛兵長のいたはずの空間を通り抜けてそのまま城壁へ駆けて行く。
その、前に構えて突き出した握りこぶしをかがり火が照らし、ナイフらしき刃物の煌めきが見えた。
「不審者だ!捕えよ!」
起き上がった衛兵長は叫んだ。
傍らで副長も素早く跳ね起きて片膝だちになり、弓を肩から掌まで滑らせようとして呻いた。
「…糞っ、弓筈が!」
体当たりでアシュ弓の下側の先端が折れ、弦がだらりと哀れにぶら下がって揺れている。
詰め所から飛び出してきていた衛兵たちが成り行きを理解したらしく、一斉にこちらに向かって走りはじめた。

その時にはもうサディアスは剣を抜きながら不審者に猛進していた。
詰め所の傍らを抜けようとするとはふてぶてしい賊だが、高い足がかりのない城壁に取り囲まれた内側の庭から外に出るには夜間この門しか隙間はない。
他に仲間がいる気配はない。
単独犯。
ということは大胆ではあるが考え無しの盗人だな、と彼は追いながら判断した。
宝物はすでに北塔に納められている。
昼間見物の群衆に紛れて王宮内部に侵入したものの、隙を見いだせぬまま宝物は納められて夜になり、今や意味のない事にやっと気付いて夜明け前の脱出をはかったというあたりだろう。
賊は門の横の木製の物見櫓にとびついた。
「あがるぞ!」
衛兵長の叫びに、頂上に詰めていた番兵が不用意に下を覗き込み、賊に襟首を掴まれてバランスを崩したのが見えた。

「門を開けろ!クロード、馬三頭!バトーユ!ジョン!ガデス!来い!」
城壁は外部からの侵入にはやたら頑丈に出来ているのだが、必死の風情で賊が物見櫓から飛び移り、みるみる越えていくのを見ていると内側からの攻略には脆いのがよくわかる。
サディアスは歯がみしながら、重い鋲打ちの扉を衛兵と番兵が渾身の力で押し開くのを手伝った。
蹄の音がして振り向くと、クロードが馬をひいた部下をひき連れて広場にかけこんできた。
すでに新しい弓を肩にかけている。
「俺と副長でヤツを追う。追いつけるだろう、ヤツは一人だ、人気のない方に向かう。つまりあっちだ」
サディアスは街外れに向かう道を指差した。
城壁の周囲を巡るように堀と街道と街が並んでいるが、こちら側は堀のために街にも壁があるから中に入ることはできまい。
「バトーユは西、ジョンは北、ガデスは城を回り込んで南だ。万が一のために街道をおさえて見張れ。いくぞ、クロード!」
了解した部下たちが馬上にあがってそれぞれに門から飛び出し、サディアスは残りの衛兵たちに二言三言指図をすると腰の鞘に剣をおさめて副長に向き直った。
「俺たちゃ走りかよ?」
クロードが叫んだ。
「馬だと見落とす」
そのまま走り始めた衛兵長の広い背中を肩を一瞬竦めてうんざりしたように眺め、気を取り直したようにクロードも駆け出した。
あっというまに闇の中に姿の消えた二人を見送ると、衛兵たちは急いでサディアスの指示通り、重い城門をきっちりと閉じた。


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