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灯り 1

ちまめ◆eQLTg8kqiw氏

 「っと、こんなもんかな。」
 最後の一塗りを満足げに見やって、イマーク・トーレはこてを下げた。
はかったようなタイミングで礼拝堂と住居を繋ぐ扉が開き、中から緑色の頭巾が突き出される。
この小さな教会の主、キーリ・メイユ修道士だ。
「お茶を入れたのですが、一休みしませんか?」
 「ああ、ちょうど塗り終えたところだったんだ。」
 イマークが梯子を降りている間に近寄ってきたキーリはこてと壷を受け取りながら、
漆喰が塗られたばかりの礼拝堂の壁と天井の片隅をニコニコと見上げた。
 「素晴らしいです。これで染みもカビともさようならですね。」
 「どうかな。下から見たらそれなりに見えるけど、間近でみたら結構ひどいもんだよ。」
 充分です、とやはり嬉しそうな表情のままキーリは礼拝堂のあちこちに目をやった。
「窓も、扉も、床も直していただいて。これ以上贅沢をいうことなんてありません。」
 
 窓はいくらかましになったとはいえ未だ風の通り道だし、扉も一応戸口を塞いではいるが
閉めるにはコツが要るし、床は真っ直ぐに歩けるようになったけれど年寄りには手が必要だった。
それでも至極幸せそうな修道士の様子を見ていると、素直に彼の言葉を受け止めれば良いかという風に思えて、
イマークはあえて口をつぐんだ。

イマークの本職は辺境砦の弓兵である。
数週間前に辞令を受け、街道沿いの哨所の補充員としてやってきたのだ。
そしてその際ついでに、明らかについでに、
『哨所そばの礼拝堂に坊主が来るらしい。あの建物は傷みが激しいので修理を手伝うように』という命令を受けた。
妙なところで出し惜しみをする砦の指揮官サー・ジョンは、聖教会からいちゃもんをつけられるのを防ぐ程度の事で工房の人間をよこす気にはならなかったらしい。


 午後の柔らかな日差しが差し込む部屋には、時折炉の火がはぜる音以外に、ただキーリがペンを走らせる音だけがさらさらと静かに流れている。
客間と台所と書斎を兼ねる小さなこの部屋は、質素ながらも隅々まで磨き上げられた居心地の良い空間だった。
たっぷりと注いでもらった濃いお茶を飲みながら、イマークはここ数週間の事を思い出していた。
哨所の遠見塔では少人数で交替しながら街道の見張りを務める。見渡せど湿地と荒野しか
目に入らない哨所からは砦も街も同じぐらい遠く(というか哨所はその丁度中間にあった)、
同じ弓兵の兄や気の置けない仲間達との気楽な砦暮らしから、一回り以上年の離れた面子の中での、
様々な面で余裕のない哨所詰めという異動は実際気が重かった。
しかし意外なことにこの数週間は楽しかったのだ、と思い至って、改めてイマークは目の前でせっせと写本に励んでいる修道士に目をやった。
「お代わり注ぎましょうか。」
イマークの目線にそう応じたキーリを手で制する。
「いや、もう十分頂いたよ。ごちそうさま。キーリこそ飲めばいいのに。」
私は、と首を横に振るキーリを見やって、そういえば、とイマークは言葉を継いだ。
「キーリが飲み食いしてるところって見たことないな。その被り物は人前で外しちゃいけないとかいう決まりがあるのかい?」
キーリは最初に彼らの前に姿を見せた時からずっと、濃い灰色のリンネルの修道衣に身を包んでいる。
頭全体と顔の下半分は頭巾と、そこからゆったりと首の下まで垂れる布地に覆われていてキーリの容姿を今ひとつ不確かなものにしていた。
キーリの、時に赤色に見える明るい茶の瞳と、すっきりとしているらしい鼻筋から察するに
わりと整った顔をしているのではないかとイマークは心ひそかに考えていたが、
それを見せることもなく、乙女達からも遠いこの地では20歳だというこの若者の青春はもったいない話だと、
保護者めいた惜しい気持ちになるのだった。
多少背が低くても、物柔らかで優しい気性の男は案外もてたりするものだ。


「そういうわけでもありませんけれど。」
 そう応える声もくぐもっていて、おそらくよく通る爽やかな声なのだろうが、それもまたもったいないような気がする。
「一応私は沈黙の誓いを立てていますから。」
「…。」
「し、信じてないんですね。本当ですよ!イマークさんとはよくお話をするから、信じてもらえないのは分かりますけど、普通は殆ど喋らないんですよ。」
「あ〜。そういえばおやじさん達は、愛想のない修道士だとか言ってたっけ。俺も最初はえらく堅苦しいと思ったな。」
 それでも修理の指示を受けているのはイマークだけだったし、さっさと済ませてしまおうと
足繁く教会に通ううちに自然と年の近いこの修道士と打ち解けるようになったのだ。
 最初はトーレ殿だったのがイマークさんに、修道士殿だったのがキーリに変わるまでにそう時間はかからなかったように思える。
「イマークさんはその…お話が面白いですし。喋らずに居ようと思っていても、つい…。」
「じゃ、君の沈黙の誓いってのは、面白いヤツがいたらそっち優先になる程度のものなのかい。」
「…。ええまあ。…単なる口実です。」
 奇妙な答え方だとは感じたが、妙に慎重なその口調にイマークはあえてそれ以上は追求しなかった。
 数週間の付き合いで分かったのだが、この若い修道士はそう敬虔な聖職者、というわけでもないようだった。
熱心に古書の写本に取り組んでいるが、それは歴史の空白を埋めるための作業で、聖人の言葉や
奇跡の記述は一切省みられていなかったし、週末以外は礼拝に訪れる人が全く居ないという事実も
大して問題視していないようだった。


「明日はケボルンに行くんだろう。俺も午前中に食料なんかを買いに行くから馬車を出すよ。」
 話題が変わったことに明らかにホッとした様子を見せながら、キーリは小さくかぶりをふる。
「カーナボン候が明日はいらっしゃらなくて。蔵書は前回多めにお借りしてきたので、
しばらくは大丈夫です。それに、特殊な薬の依頼が入っているので明日はそちらに取り組もうと
考えているんです。残念なんですけれど。」
 ああ、残念だ。と、一瞬確かに感じた失望は、単に単調な道行きを楽しい時間にしてくれる連れが
得られないからなのだと、イマークは自分に言い聞かせた。
 お互いの用事が終わった後で落ち合って、街を出る前に露店を冷やかして歩いたり、
懐具合が常に良くないらしいキーリのために気の張らない小さなもの、例えば砂糖菓子とか、
替えの羽とか、割れの入っていない器なんかを買ってやったときの、
この若者の目に溢れる喜びが見られないから、ということではないのだと、重ねて自分に言い聞かせる。

 暇を告げたイマークを見送るために戸口まで付いてきたキーリが、ふと思い出したように口をひらいた。
「街はいま春祭りの準備で賑やかなんでしょうね。もう来週ですか?ケボルンの花祭りは華やかだと聞いています。」
楽しみですね。と目を細めるキールがやけにかわいらしく思えて、イマークは深く考えずに言葉を返していた。
「祭りのうちの一日は休みをもらえるから、一緒に行くかい?俺はケボルンの春祭りは三度目だから、あちこち見所を案内できると思うよ。」
「でも…。春祭りは恋人達のお祭りと聞きました。…イマークさんはよい人居ないんですか?」
 イマークの脳裏を金髪のライアやグラマラスなジュゼの姿がよぎったが、祭りに誘いでもしたら
どんな期待を抱かせるか、たまったものではない。ただでさえ、『砦の傭兵さん』というだけで必要以上に付け狙われている気がするのに、だ。


 一瞬の沈黙を「是」と捉えたのかキーリは励ますような仕草で
「私のことは気にせず、その方を誘うべきですよ。折角のお祭りなんですから。…女性にとってはお祭に好い人と一緒に行けるというのはこの上ない喜びだと…思いますよ。」
「それはまあ、男にとってもだろう。キーリは?目星をつけてる乙女は居ないのかい?あの、しょっちゅう薬の処方を頼みに来てる栗色の髪の子は?」
「ち、違いますよ!彼女は好きな人が居るんです。それに、今回の急な依頼だって本当は…」
 と言い募ったキーリの表情は良くはわからないが辛そうで、イマークは不意に胸が締め付けられるのを感じた。
「ま、まあ、ほら、でもキーリはいい男だから、きっと今に良い子が見つかるよ。なんていっても…」
「そんなこと!ありえません!」
 半ば叫ぶような甲高い声でイマークのせりふを遮って、キーリは彼を見上げた。その視線にイマークの体が固まる。
 
 ヤバイ。

 イマーク・トーレ、24歳。そこそこ真面目な恋愛から不真面目な恋愛、駆け引き、それなりの修羅場もくぐってきた。その経験からくる勘がヤバイと告げる。
 潤んで今は殆ど赤に見える瞳が訴えかけてくるものが…。
 間違いない、これはヤバイ。ヤバイとこつついたかも、と声がささやく。そういえば聞いたことがある。修道院は男ばっかりでナントカカントカ…。
 咄嗟に一歩、それから二歩下がり、キーリから身を引く。
 何か言わねば、と口をついて出たのはどうにもまずい言葉だった。
「いや、あの、俺は衆道には関心は…どっちかっていうと、ていうか確実に女が好きで…。」
「…っ!」
 ヒュッと吸い込んだ息は鋭すぎて、ほとんど悲鳴のようだった。目の縁まで、その瞳の色と同じほどに染まる。
 凄まじい勢いで閉められた扉のこちら側で、イマークは安堵か恐怖か、深いため息を漏らした。


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