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さぷらいずGID

◆DNhFr3L39M氏



 恋愛感情は交通事故みたいなものだ。唐突で、不意打ちで、予防策なんてアテにならない。しかも当たり所が悪ければ死んでしまう――
 小説だか映画だかの登場人物の台詞だが、今の俺には痛いほど共感できた。
 なぜなら俺はすでに、その交通事故とやらに遭遇してしまったからだ。しかも致命的なレベルで。
 はっきり言って今の俺は、普段の俺らしくない。幼馴染の男友達が見せた何気ない仕草に目を奪われて、あまつさえ激しく胸を高鳴らせたなんて考えられない。

「……トモヤ、どうした?」
 不可思議そうに言ってくるアイツ。
 心配そうに気遣う瞳も、優しくかけてくれた声も、今の俺には逆効果だ。
 心臓はドラムロールのように激しく打ち鳴らされ、そのうち振動で身体全体が揺れ始めるんじゃないかってくらいのメヴィメタル。
 教室の窓は全開で、時折秋めいた風が入ってくるというのに、俺だけが鉄工所の溶鉱炉の真横にいるような気分だった。
「あ、いや……な、なんでもねえよ」
 ようやく出せたのは、恥ずかしいほど上ずった声。いつもなら憎まれ口も馬鹿話も滑るように出てくる自分の口が、舌の根に鉛でも入っているんじゃないかと思うほど、思い通りに動かない。
「トモヤ。おまえ顔、赤いぞ。熱でもあるんじゃないのか?」
 ああ、だから、ほっといてくれって。そんな目で見ないでくれ。そんな無防備に、俺に近寄らないでくれ。
 あ――
「……お前、ちょっと熱あるぞ」
 アイツが冷たい手のひらを押し付けて、心配そうに俺の顔を覗き込んでる。ただそれだけなのに、金縛りになったかのように身体が動かなくなる。
「そ、そうかも……悪い、俺、先帰るわ」
 手が離れたと同時に金縛りも解ける。
 アイツは「お前が風邪ひくなんて珍しい。明日は雪だな」と、いつもの調子で言ってくるが、今の俺にはやり返すだけの気力が無い。
 机の脇にかけた学生鞄を取り、俺はアイツから逃げるように教室を出て行った。
「かっこわりぃ……」
 もっと早く逃げ出したかった。
 いっそのことアイツの手を振り払い、開けっ放しの窓から飛び降りてしまいたかった。
 でも、それは出来なかった。アイツの手のひらが俺の額に触れた瞬間、胸の苦しさとともに例えようのない快感が脊髄に走っていたから。
 そして俺は、その快感を欲していた。麻薬中毒の患者みたく貪欲に、狂おしいほどに。
「かっこわりぃよ、俺……」
 自己嫌悪に陥りながらも、俺の脳裏に浮かぶのはアイツ――高科ジュンの、手のひらの感触のことだけだった。
「クソッ!」
 それを振り払いたくて俺は走った。運動なんて体育の時間以外やってないから、息が上がってくるのはあたりまえ。
 それでも、ジュンを目の前にした息苦しさに比べたら格段に楽だ。
 気がつけば、我が家の手前まで来ていた。
 いつもは二十分くらいかかる帰り道が、半分以下の時間で終わったのは少しだけ不愉快だった。
 もっと長ければ、もっと走っていられたのに。そうすればジュンに対する気持ちも、一時の気の迷いだって結論が出たかもしれないのに。
 ああ、くそ。イライラする。
 乱暴にドアを開けて帰宅した俺は、これから仕事に出かけようとする母親に「気分が悪い」とだけ伝えて二階の自室に入った。
「トモちゃんたら、あの日? お母さんのタンポンあげようかー?」
 品も無ければ子供への気遣いも無い母親だ。
「うるさい。ほっとけ!」
 ドア越しに怒鳴りつけ、俺はベッドに倒れこんだ。階下から、なおも母親が何かわめいていたが、それを相手できるような状態じゃない。
「……うるさい。マジ、ムカつく……」
 俺は枕に顔を埋め、母親と神と悪魔と世界と自分とジュンの無防備なうなじの白さと手の冷たさと細いあごと――
 思いつく限りのありとあらゆるものに呪いの言葉をぶつけながら、ただ意識が眠りに落ちていくことだけを望んでいた。




「トモヤの奴、大丈夫かな……」
 いつもより早足でそそくさと帰っていった友人を見送り、僕は誰もいなくなった教室で深々とため息を吐いた。
 僕が知る限り、小学校以来の友人である平峯トモヤは変に我慢強い。
 小学生の時、皆勤賞を取るんだと息巻いて三十九度の熱があろうが性質の悪い風邪を患っていようが気合と根性で登校してくるような奴だ。
 さっきだって、僕が言わなければ無理して遊びに言ったに違いない。もともと、今日の放課後はトモヤの方から駅前のゲームセンターに入荷した新作のゲームで対戦しようというお誘いだったし。
「だから心配なんだよなあ……」
 某大作RPGの発売日に自主休校して貫徹三日でクリアするようなヘビーゲーマーなアイツのことだ。もしかしたら家に帰ったと見せかけてゲーセンにいるかもしれない。
「仕方ない。ゲーセンに寄ってから帰るか」
 タバコ臭くなるのは激しく嫌だったが、見捨てたせいで数少ない友人が肺炎にでもなって死んだりしたら目覚めが悪いし。
 まぁ……本音は、僕もその新作ゲームで遊びたいってだけの単純な理由なんだけど。


「あ、ジュン君だ。やっほー」
 駅前に抜ける商店街を歩いていると後ろから、やたら通る明るい声で呼び止められた。
 振り返るとトモヤのお母さんが、角の八百屋さんの手前で女子高生みたいにブンブン手を振っていた。
 他人様の母親とは言え、ちょっと恥ずかしい。
 トモヤが「あのクソ婆は脳内年齢が十八で止まってるから、そのうちセーラー服を着かねないぞ」とか言っていたけど、あながち杞憂に終わらないかもしれない。
「あ、こんにちは。お久しぶりです」
 そんな考えはおくびにも出さず、僕は駆け寄ってきたトモヤのお母さんにペコリと会釈した。
 駅の反対側にある病院で看護師をしていると前に聞かされた事があったから、きっとこれから夜勤なのだろう。
「ほんと、ジュン君に会うなんて久しぶりねえ。前はちょくちょく家に来てくれてたけど」
「……小学生の頃、トモヤん家に入り浸って遊んでたら『外で遊べお前ら!』って僕ら追い出されませんでしたっけ?」
「あれ〜? そんなことあったかな〜?」
 あごに指を当てて小首をかしげるトモヤのお母さん。見た目も若くて美人だから、子供っぽい仕草なのに全然嫌味が無い。
 ただ、トモヤにそっくり――いや、アイツが母親に似たのか――の顔でそんなポーズをとらないでほしい。
 トモヤがあごに指を当てて小首をかしげてる姿なんて想像したら、明日からアイツの顔をまともに見られなくなる。
「あ、それよりもジュン君。ちょっとお願いしてもいい?」
 記憶を手繰るのは取りやめにしたのか、トモヤのお母さんはポンっと手を叩いた。
「トモヤがね、なんだか調子悪そうなのよ。出かける時にチラッと見たけど、なんだか熱があるみたいだったし……辛かったら、うちの病院に来なさいって言っておいたんだけど聞いてるかどうか怪しくってねえ……」
「そうですか……」
 あの頑丈なトモヤが、そこまで疲弊していたなんて、ちょっと意外だった。確かに今日のアイツは変だった。話をしても言葉が耳から耳にすり抜けているような上の空だし、顔も赤くて熱もあったし。
 そのことを伝えるとトモヤのお母さんは、やれやれと肩をすくめた。
「ったく……トモヤってば馬鹿みたいに頑固なんだから。病気のときくらい弱音吐いたっていいのにね」
 きっとトモヤは母親に心配をかけたくないのだろうけど、僕にはあまり効果が無いように思えた。むしろ、トモヤのお母さんは彼に頼ってほしがってるようだった。
「で、お願いって何ですか?」
「あ、うん。たいしたことじゃないんだけど……家に行って、ちょっとトモヤの様子を見ておいてほしいの」
 ごそごそとポケットをあさり、トモヤのお母さんはクマのストラップがついた鍵を僕に手渡した。
「へ? いいんですか、これ?」
 なんて無防備だ。息子の友達とは言え、まったくの他人に鍵を預けるなんて。
 戸惑う僕に彼女はにっこりと微笑んだ。
「いいの。おねいさんは、ジュン君のこと信頼してるし。それに――」
「それに?」
「ジュン君ならトモヤにしないでしょ? えっちな事とか」
 僕は派手にズッコケた。




 結局ゲーセンには寄らず、僕はトモヤの家に行った。
 トモヤの家は商店街を挟んで僕の家とは反対方向にある。
 小学生のときは、学校に行くのにお互いに交代で家まで迎えに行ったり、放課後はTVゲームで遊んだりとトモヤの家に上がることが多かったが、中学に入ってからは外で遊ぶことが多くなっていた。
 だから、正直、トモヤの家に入るのは四・五年ぶりだった。
「……ごめんくださ〜い」
 トモヤのお母さんから預かった鍵でドアを開けたのだが、ついつい遠慮がちに挨拶をする。
 少し耳をそばだててみたが、家の奥から返事は聞こえてこない。確かトモヤの部屋は二階にあったから、もしかすると聞こえてないのかもしれない。
「……仕方ないな。上がるか」
 お邪魔します、と断って僕は久々にトモヤの家に上がりこんだ。
 玄関を入ってすぐの右側にある、ちょっと急勾配な階段を慎重に――昔、この階段で足を踏み外して腰を打ったことがあったので――上って、達磨型という妙に渋い雰囲気のネームプレートが貼られたトモヤの部屋の前に立った。
 久々すぎて、なぜか緊張した。
 とりあえず深呼吸をして、妙に動悸のする胸を押さえる。
「トモヤ、起きてる?」
 呼びかけもドア越しに聞こえるか否か、それぐらいに声を絞った。もしも病気で寝てたなら、たたき起こすのは可哀想だ。起きていれば敏いトモヤのことだし、返事の一つも返ってくるだろう。
 だが、返事は返ってこない。
 コンコン。
 仕方なく控えめにノックするが、それでも部屋の中からトモヤの声が返ってくる様子はなかった。
「アイツ、どっか遊びに行ってるんじゃないよな?」
 そんな想像をして僕は苦笑した。
 玄関先にはアイツは今朝履いていたスニーカーが脱ぎっぱなしになっていたじゃないか。もしかしたら別の靴を履いて遊びに出たかもしれないけど、それこそ病院に行ったかもしれない。
 行き違いになった可能性は充分にある。
 むしろ、トモヤが大人しく寝ている姿の方が、僕にはちょっと想像できない。
 どちらにしろ、部屋の中を確かめないといけない事には変わりないけど。
「入るよ?」
 幼馴染とは言え、一応断りを入れてからドアノブに手をかける。
 ノブに鍵はかかっておらず、ゆっくり押し開けるとほんの少しだけ蝶番がキィと軋んだ。
 久々に入る親友の部屋は、床にゲーム機と攻略雑誌が出しっ放しにされているのを除けば、そこそこキレイに整頓されていた。
 大雑把に見えて微妙に几帳面なのはトモヤらしいといえばらしいかもしれない。片づけが苦手な僕も、少しはトモヤを見習うべきだろうか。
 そして肝心のトモヤは――いた。
 部屋の左隅に置かれたベッドの上に、学生服のままうつ伏せている。
「ん……」
 寝苦しいのだろう。トモヤはかすかに身じろぎしたが、寝相を変えるまでにはならなかったようだ。
「ったく、世話が焼けるなあ、もう」
 僕はベッドに近寄り、うつ伏せになったトモヤの胸と腰の下に手を滑り込ませた。
 制服のまま寝ているから寝辛いのだ。せめて仰向けにでもしてやれば少しは違うはずだ。それにちょっと寝相を正してやるだけなら、せっかく寝ているトモヤを起こす必要もないだろうし。
「よいしょ――って、え?」
 持ち上げようと力を入れた瞬間、僕の手のひらに返ってきたのは、あり得ないほど柔らかい物の感触。
 これは、もしや……いや、まさか!?
「んぁ……じゅん?」
 愕然とつぶやいた僕の耳朶に飛び込んできたのは、トモヤの驚きに満ちた声だった。




 これは悪い夢に違いない。
 いろんな物に悪態ついて、しかも制服のまま寝たから夢見が悪かったんだろう。
 俺の部屋にジュンがいて、しかも腹這いになった俺の身体の下に手を差し込んでいる状況だなんて、これが悪夢でなかったらなんだというのだ。
 ジュンに恋焦がれるうちに夢見た妄想だとでもいうのか。冗談じゃない。
 俺はベッドから跳ね起き、目の前で硬直しているジュンに怒鳴りつけた。
「なっ、なにやってんだ、てめえっ!」
「あわわ!」
 ぺたん、とジュンが尻餅をつく。どうしてここにジュンがいるのか、俺にはさっぱり分からないが、一つだけ確かなことがあった。出来れば間違いであってほしいが、これだけは確かめなければ。
「……触った、のか?」
 びくん!
 まるで初めて雷鳴を聞いた小動物のように、ジュンが身体を硬直させる。
 ああ、畜生。その反応だけで分かるぞ、お前。
「触ったんだな?」
 それでもジュン本人から答えを聞きたくて、今度は一語ずつ噛み締めるように問いかける。俺の剣幕にジュンは今にも泣き出しそうなほど瞳を潤ませていた。
 ……馬鹿野郎。泣きたいのはこっちの方だってのに。
「なぁ……嘘、だよな?」
 まるで悪い夢だといわんばかりの震える声でジュンが聞いた。
 嘘とかジョークとかドッキリとかで済めば、笑ってお終いだったろうさ。俺だって出来ることなら嘘にしたい。けれど、これは間違いなく現実なんだ。
 クソむかつく現実なんだ。
「ごめん……俺は、お前のことを親友なんて言いながら、ずっと騙してきたんだ。悪ぃな」
 出来ることなら、一生騙し続けたかった。かけがえのない無二の親友を失うのは怖かったし、自分に芽生えたあの感情に従うのが怖かった。
 けれど、もうどうでも良かった。バレて嫌われるんだったら、最後の最後でいいから、ジュンにだけはちゃんと話そう。
 混乱しているジュンの前で、俺は制服の上着を脱ぎ捨て、震える指でワイシャツのボタンを全て外し、サラシで締め付けられた胸をさらけ出した。


「俺……性同一性障害なんだ」




 僕はただ、驚くしかなかった。
 トモヤの告白は、まさに青天の霹靂で、それこそ雷でも直撃したように僕を打ちのめした。
 目の前にはトモヤが――ずっと男だと思っていたトモヤが、サラシと下着だけの姿でベッドに腰掛けている。
 それは見まごう事なく、女性の身体をしていた。
 ……信じられない。西から昇った太陽が東に沈む光景でも見てしまったような気分だ。
 信じていたものが根底から覆される衝撃はあまりに大きくて、僕はただ喉に引っかかったような笑い声を吐くぐらいしか出来なかった。
「……おかしいよな、やっぱさ」
 トモヤが悲しそうに顔をうつむかせた。自分の両肩を抱きしめ、凍えるように身体を震わせている。
 トモヤは、泣いているのかもしれなかった。
 そんなトモヤに、僕は口をつぐんで黙るどころか、何か一言でも声をかけることすら出来なかった。
 笑っちゃいけないんだって事は分かってる。でも、僕は心のどこかで突きつけられた現実を理解するのを拒んでる。
「俺、すごく小さい頃から『自分は男の子だ』って思ってた――今でも、そうだけどさ。男の格好のほうが自然だったし、女の子を好きになる方が自然だった。だから、この身体も嫌いじゃないんだぜ。月一のアレは勘弁してほしいけどさ」
 顔を上げて、おどけるように笑うトモヤ。
 目にいっぱいの涙を浮かべて、今にも大声で泣き出しそうな辛い顔しているくせに、変に我慢強くて意地っ張りな親友。
 僕の、高科ジュンの一番の――
「けどさ……最近、おかしいんだよ。俺、少し前まで女の子が好きだったのにさ。今は、身体の性別に心が合い始めちゃったみたいでさ。お前のこと考えると、やけに胸がドキドキするんだ。きっと俺――」


「お前が好きだ」




 何かを言おうとした口が、言葉を失って無意味にあえいだ。その告白の意味が理解できなかったからなのかもしれない。
「な、なに言ってるんだよ、お前……」
 本日二度目のサプライズ。さっきもかなり驚かされたが、今回のはとびっきりのだ。明日が人類最後の日だといわれても、今みたいに驚いたかどうか怪しいくらいだ。
「……聞こえてなかったの? な、何度も言わせないでほしいんだけど……」
 熟したトマトみたいに頬を真っ赤にさせて、目の前の幼馴染はずいっと前に身を乗り出した。
「だから、お前のことが好きだって言ったんだよ。ずっと昔からっ。僕はっ!」
「え……んぅ!?」
 不意打ちだった。このまま死んでもいいって思えるくらい気持ちいいのに、ほんの一秒間で終わった触れるだけのくちづけ。
「はふぅ……」
 どちらともなく吐息がこぼれる。
 まだジュンの感触が残ってるような気がする。ふわふわと柔らかくて、マシュマロののように甘い唇。
「……こういう時は目を閉じるのがエチケットじゃない? 男でも女でも、さ」
「う、うるさい……」
 人が初めてのキスの感動に浸っているのに、ジュンは意外にマイペースだった。
 なんだか自分ばかりが空回りしているようで、かなり恥ずかしい。まともにジュンの顔を見られなくなってしまうじゃないか。
「は、初めてなんだから仕方ないだろ」
「僕だって……そうだよ」
「その割には、なんだか手馴れてる感じが……」
「少女漫画とか読んでるからね」
 ちょっとだけ納得がいった。そういや、こいつの部屋って古今東西の漫画で埋め尽くされてて足の踏み場とかなかったな。
 エチケット云々ってのも多分少女漫画の受け売りなのだろうが、部屋の片付けは出来ないくせに、変なところで細かい奴だよな、こいつも。
「じゃあその……ジュンの言うとおりにしようかな」
 でも、ちょっと悪い気はしなかった。目を閉じて、ほんの少しだけあごを浮かせる。
「ん……」
 二度目のキスは、唇同士を押し当てて擦りあう、互いの存在を確認する交歓の儀式のようだった。とても神聖で、中断しようものなら二度と手に入れることが出来ないと思わせるほどに。
「んあ……ふぁ……」
 ジュンの唇が、俺の上唇をついばむように甘く噛んだ。ちろり、とジュンの舌先が上唇に触れた瞬間、抵抗しがたい気持ちよさが俺の背筋を駆け上がる。


「あ…………」
 零れ落ちる吐息。それは出した本人――精神的には俺は男なので――でさえハッとする様な、女の艶に満ちた声だった。
「……トモヤ、すごく可愛いよ……」
「ば、馬鹿。恥ずかしいことを言うな――ひゃっ」
 俺の抗議も空しく、ジュンの唇は俺の頬を滑り、首筋へと落ちてゆく。頚動脈の上をジュンの舌が這いずり、くちづけを繰り返す。
 ああ、畜生。背中だけじゃない。身体全体がゾクゾクしているのに、どうにかなってしまいそうに気持ちがいい。
「触るよ……?」
 鎖骨にキスをしながら、ジュンが聞いた。コクリ、と俺はうなずいた。
「うん。触って……お願い……」
 サラシ越しにジュンの冷たい手が触れる。女であることがバレない様に固く巻いたサラシの上からだというのに、ジュンの指先は俺の敏感な場所を探り当てていた。
「トモヤのここ、サラシの上からでも分かるくらい尖ってるよ。すごく、かたい……」
「や、やめろよ……恥ずかしいじゃん……かぁ……」
 手のひらで押し上げるように揉まれるのはこそばゆいのに、指に挟まれた乳首がビリビリと痺れたように疼く。
 言いようのない快感が全身を巡り、知らず知らずのうちに腰が引けてくる。このままジュンに全てを委ねてしまったら、もっと気持ちよくしてもらえるのだろうか。
 でもそれは、とってもズルいことのように思えた。
「ジュン……おまえ……俺の、恥ずかしいとこばっか見やがって……俺だって、おまえが感じてるとこ見たいんだぞ……」
 大体、俺ばっかり裸みたいな格好をしてるのに、ジュンの奴ときたらまだ学校の制服姿だし。これはあまりにアンフェアだ。
 それに、今はイニシアチブを取られて受身に回っているけど、本来の俺は攻めの気質――のはずだ。ちょっと自信なくなってるけど。
「あ、まって……」
 ジュンが制止の声を上げたけど、そんなのは聞いてやらない。散々イジメてくれたお礼もしてやる。
 俺はジュンのズボンに手をかけてベルトをはずし、そのまま右手をジュンのトランクスの中へ滑り込ませる。
 くちゅっ
「――え?」
 どういうわけか、男性ならあるはずの障害物がそこにはなく、かわりに熱く湿った肉襞が俺の指に絡みつく。そのなんだか身に覚えのある感触におののきながら、俺はジュンの顔を見やった。
「トモヤの、えっち……」
 答えになってねえよ、馬鹿。

 お願いです神様。馬鹿だのトンマだの口汚く罵ったことは謝りますから、出来ればもう少し人生のサプライズは手加減してくれませんか。




「本当は、トモヤが女だって告白してくれたときに言うべきだったんだけどね」
 ベッドの上でなにやらブツブツと考え込んでいるトモヤを横目に、僕は制服もズボンも脱ぎながら言った。
「僕も、女なんだ」
 トモヤと同じく、サラシと下着だけの姿になる。ちょっと違うのはトモヤが意外にも女性用の下着なのに対して、僕は男物のトランクスを穿いているって事だろう。
 かなり違うのは男の振りをしていた理由だけじゃないだろうか。
「幼稚園のときに……色々あってね。それがトラウマになって、しばらくは母親が一緒でも男性のそばにいることも出来なかったんだ。それが実の父親であってもね」
 一人っ子だったし、両親の悲しみようは幼い僕でさえ理解できるほどに痛かった。いっそ死んで消えてしまおうか思うくらいに。
「このままじゃダメだって思った両親がね、駅の反対側の病院でやっているオルレアンセラピーってのを見つけてきてさ。で、あそこの病院の先生の指導で男の格好をしてたってわけ」
 オルレアンセラピーってのは、フランスの英雄ジャンヌ・ダルクを元に考案された治療法だ。
 男性社会であった当事のヨーロッパで、荒くれの軍人たちを相手するために勇ましい鎧を身につけ、男のように振舞ったという故事から考え出されたのだとか。
「おかげで小学校に上がる頃には父親と一緒に居ても吐いたりすることはなくなったけど、逆にこの格好でないと落ち着かなくなっちゃってね。まぁ、それで今に至るってわけなんだけど……」
 僕は未だに呆けているトモヤの鼻先にビシリと指を突きつけた。いきなりのことに目を白黒させている鈍ちんの馬鹿トモヤに言ってやる。
 さっきはちょっと気持ちが暴走して言えなかったけど、今ならはっきり言ってやれる。
「中学生のときにお前のことを好きになってから、毎日が辛かったんだからな!」
 そうだとも。こいつが僕に対して何かしらの感情を抱く前から、僕はトモヤが好きだった。
 何度、自分が性別を偽っていることを告白しようかと考えたことか。
 でも、十年以上経った今でも、あのトラウマは消えてない。今だって女の格好をして外に出るだけで吐き気がこみ上げてくるのだ。
 だから、怖かった。
 トモヤに告白して、彼を異性として見てしまうことが怖かった。
 男の姿なら憎まれ口を叩きあう事が出来ても、女の姿になって同じ事が出来るとは限らない。僕にとっての特別な彼を、有象無象の男たちと同じように見てしまうかもしれない自分が怖かった。
 怖かったから、この気持ちは胸の奥にしまうことにしていた。
 だというのに、こいつときたら――
「僕のことが好きで、身体は女の子だけど心は男の子で、女の子の方に興味があるだって? なんだよ。僕のトラウマ、まったく意味ないじゃないか。僕の煩悶とした中学時代を返せよふざけんなー!」
「え、あ、その……ごめん」
 まくし立てる僕の剣幕に驚いて、僕よりも大柄なトモヤがみるみる小さくなっていく。
 そういうしょぼくれたトモヤの顔を見るのは初めてだったから、すこし溜飲も下がった気がする。僕は盛大に嘆息して、トモヤの隣に腰掛けた。
「もう、こうなったら仕方がないけどね。驚かせたのはおあいこってことにしようよ。ね?」
 だって、そんなことよりももっと嬉しいことがあるんだから。
「……そうだな」
 そう言うとトモヤは、しな垂れかかるように僕の身体を横から抱きしめた。僕の肩にあごを乗せ、吐息がかかるほど顔を寄せてくる。
「俺、ジュンのことが好きだ。身体は女だけど、男としてお前を愛したい」
 ……この馬鹿トモヤ。そんなこと、こんな至近距離で言われたら、クラクラするじゃんか。
「僕も……男とか女とか関係なく、トモヤのことが好き……」
 僕らの三度目のキスは、どちらからともなく始まった。
「さっきの続き、しよっか」
「……うん」




 お互いに相手のサラシを解くのが上手くて、ちょっと可笑しかったけど言葉には出来なかった。
 だって僕はもうトモヤの柔らかい唇をついばむのに夢中だったし、トモヤは僕の舌に自分のを絡めるのが楽しくてしょうがないって感じだったから。
「ん……っ……ぁふ……」
「ふぁ……んんぅ……」
 どっちが漏らした声かなんて良く分からない。唇だけの戯れで脳天まで痺れるような気持ちよさが味わえるなら、この先どれだけ気持ちよくなれるんだろうか。
「ジュン……さっきのお返し……」
 気づけば、僕の胸はトモヤの両手にすっぽりと収まっていた。体温の高い手のひら全体で、やわやわとこねるように揉まれ、感じたことのない心地よさが肺を圧迫する。
「あ……っ……や……んっ……」
「ジュンのおっぱい……柔らかいのに、コリコリしたのが手のひらに当たってるよ……」
 やだっ。乳首が、トモヤの手のひらで擦れて、じんじん痺れてる――
「き、気持ちいいよぉ……トモヤぁ……」
 このじんじんした気持ちよさを分けたくて、僕はトモヤの乳首をつまみあげた。僕以上に、ここが弱いのはさっきの愛撫でなんとなく分かってた。
「ふぁ、んんっ……っ!」
 出かけた大声を、唇を噛んで抑えるトモヤ。そんなトモヤが愛しくて、さらに乳首弄りに没頭したくなる。
「んぅっ……あくっ……気持ち、よすぎて……だめだって……」
 息も絶え絶えに喘ぐトモヤを押し倒し、僕はその乳首に吸い付いた。
「ひあっ!」
 びくんっ、とトモヤが打ち震えた。軽く吸い付いたのにこんな反応をされたら、男でなくたってたまらなくなるじゃないか。
 なんだか嗜虐心ってのが芽生えてきたかもしれない。それくらいトモヤの反応は初々しくて、可愛かった。


「トモヤ……可愛い……」
「お、俺だって……ジュンの、感じてるの……可愛いとこ、見たい……のに……」
「ダぁメ。ずぅっと僕の気持ちに気づいてくれなかった鈍ちんには三回ぐらいイってもらわなひゃああっ!」
 悲鳴を上げたのは、トモヤが僕の内股からトランクスの中へと手を滑り込ませたからだ。トモヤの指先は正確に、僕の身体の中でもっとも敏感な部分を擦っていた。
「ああっ……やぁ……んぅっ……」
 冗談じゃないくらい気持ちいい。キスや胸を弄られるのも気持ちよかったけど、そんなものは比じゃない。
 好きな人の指でそこを擦られることが、ハンマーで頭を割られるくらいに暴力的で圧倒的な快楽になるなんて。
 くちゅりぬちゅりと、指が擦れるたびに聞いたこともないような淫らな水音が響いてくる。一番端の小さな突起に指がかかり、その瞬間、下腹部が気持ち良さに波打った。
「はぁっ、んふぁ……くぅっ! や、やだっ! きもち……きもちいいよぅっ!」
 もう半狂乱だった。脳の回線が焼き切れるんじゃないかってくらい快感がスパークして、ところどころで白く火花を散らしてる。僕はトモヤの全身にむしゃぶりついた。
「あぁっ!」
 再び跳ねるトモヤの身体。受けた快感が振動となって伝わり、僕の股を擦る指のリズムに変調子を与えてくれる。
 嬉しい誤算だ。トモヤを気持ちよくした分だけ、トモヤがもっと僕を気持ちよくしてくれるんだ。
「いっぱい、感じて……トモヤ……」
 固く尖った乳首を唇で甘くついばみながら、薄桃色の乳輪の外周を舌先でレコード針のようになぞる。
 トモヤの乳首はじれったそうにヒクヒクと震え、それがいっそう僕の劣情を刺激した。
 右手で全身を撫で回しながら、空いた左手でトモヤの右乳首をひねるようにつまむと、口に含んだ左の乳首がこれ以上ないほどに固く尖った。
「じゅ、ジュン……」
「トモヤぁ……」
 お互いの名を呼び合い、僕たちは唇を重ねあう。トモヤが僕にしているみたいに、僕も右手を下着に隠されたトモヤの最も女性らしい場所へと指を突き立てた。
「ああああうっ!」
 ほんの指先。爪の根元が入ったあたりでトモヤの膣内が指を押し返してくる。音を立てて指を出し入れすると、くぐもった悲鳴をあげてトモヤも指の動きをエスカレートさせた。
「あっ、やんっ、トモヤ、もっと、もっとおっ!」
 肉襞さえこねられる動きに合わせるように、自分でも気づかぬうちに腰が動いてる。あふれ出た愛液が内股を伝って流れ落ちてゆく。
「やだ、やだぁ……い、いっちゃうよぉ」
「俺も……気持ちよくて――くっ」
 もう、限界だった。快楽の波と白い火花が意識の九十九%を覆いつくしてる。残った一%で僕はトモヤの名を呼んだ。
「トモヤぁ……は、はなさないで、ぼくを、やだ、いっちゃぅ――そこ、こすられて、いっちゃ、いや、いっちゃぁ、いっちゃうぅっ……!」
「あ、ああ……ジュン――っ!」
 トモヤは優しい。あんなにイジワルに責めたのに、最後の最後で僕のことを支えてくれた。片手で抱きしめて、白い波で意識が朦朧とする僕の唇にそっとキスをしてくれた。
 そういうとこが大好きなんだよ、鈍ちんトモヤめ。
 心の中で悪態をついて、僕は全ての意識を白い波に手渡した。




 恋愛感情は交通事故みたいなものだ。唐突で、不意打ちで、予防策なんてあまりアテにならない。しかも当たり所が悪ければ死んでしまう――
 うん。まったく持ってその通りだと思う。特に、致命的な大事故にあった俺が言うのだから間違いない。
 ベッドの上で大の字になってそんなことを考えていると、
「とーもーやっ!」
 猫のように喉を鳴らし、ご機嫌で俺の腕に絡み付いている高科ジュンという名の大事故が、対俺専用の致死的な笑顔を見せた。
 ちなみに、俺も彼女も服は着ていない。ハードに愛し合ったおかげで、ベッドから降りるのが億劫なだけだった。
「どうしたの? なんだか珍妙な顔しちゃってさ」
「ん……ちと考え事してた。お前のこととか色々」
 その大半が、さっきジュンが見せたあられもない痴態の事なのだが、言ったら言ったで彼女はヘソを曲げるか――もしくは素晴らしく厄介な報復活動に出てくれるだろう。
 こいつの反撃は、結構ねちっこいし。
 当たり障りのない答えは、なかなかジュンには好評のようだ。赤面しているところなんて、可愛くってしょうがない。
「そういえばさ……トモヤって、昔からトモヤだったの?」
「……は?」
 唐突に、しかも要領を得ない質問をされて俺は面食らった。
 お前は俺が宇宙人に宇宙人に誘拐されて改造手術を受けて女になったとでも思ってるのか?と言いたげな視線を返すと、ジュンは「違う違う。名前のことだよ」と苦笑した。
「だってほら、『トモヤ』って男の子の名前だし、生まれて間もない時から男の子を主張してたわけじゃないだろ? 最初の名前ってどんなのかな――って思っただけだよ」
 ああ、なんだ。そういうことか。そういえば、そんな名前もあったんだった。
 幼稚園時代で自分の性別に疑問を持った俺は、親に頼んで無理矢理名前を変えてもらったんだっけ。
 あんまり教えたくはないんだが、お互いにいろんな秘密を打ち明けちまった仲だし、興味津々といった顔のこいつを見ていると黙っているのも出来そうにない。
 ああ、これが世に言う『惚れた弱み』って奴か。
「誰にも言うなよな……俺、『トモヤ』になる前は、トモエって名前だった。結構、ありふれてるだろ?」
「へぇ……トモヤっぽくて、キレイで格好良い名前じゃん」
 自分ですら使わなくなった名前をジュンは良いと褒めてくれた。恥ずかしかったけど、なんか気分がいいのも事実だった。
「あ、ありがと……」
 うん。この気分を維持したまま、別の話題を振ってしまおう。出来れば名前ネタは、これくらいにしておきたい。もっといっぱい、ジュンと色んなことを語り合いたいし。
「で、どんな漢字書くの? やっぱり、巴御前の巴?」
 ……うん。どうして、お前ってば俺の男心がご理解いただけないんですかね。
「べ、別にどんな字書いたって関係ないだろっ。今の俺はトモヤだし、昔の名前のことなんて――ん……っ」
 ファーストキスのときと同じように、ジュンが不意に唇を重ねた。吐き出しかけた言葉を全部飲み込ませる、絶対に抵抗できない優しいキス。
 唇が離れると同時にジュンが言った。
「好きな人のこと、全部知りたいって思うのが女心なんだからね」
 ……お前ってば、時々大胆だよな。そのくせ恥ずかしそうに頬を赤らめたりして、凄く可愛いじゃないか、畜生っ。
 この湧き上がるムラムラとした感情をどうしてくれるというのだ。
「俺の男心に火ぃ点けやがってこの小悪魔があっ!」
「あんっ! ちょ、ちょっと、それ、はげしっ、ともやぁ……っ!」
 俺は、このどうしようもなく愛しくて可愛らしい恋人に覆いかぶさり、その細い身体にむしゃぶりついた。


 後日、あの脳が天気な実の母親から、俺の昔の名前がジュンにバラされた。うちの母親とジュンが仲良かったなんて知らなかったぞ、俺。
「『十萌』ちゃ〜ん。んふふふふ……」
「……だから教えたくなかったんだよ。クソッ」
 子猫が毛玉の玩具を見つけたような、小悪魔めいたジュンの笑顔を受け止めながら、俺は空を見上げてうめいた。
 神様。お願いですからサプライズな人生は、これで打ち止めにしてくれませんか?と。


おわり。


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