NO WAY OUT
次に薪が目を覚ました時、室内の電気は一切ついておらず、部屋の中は真っ暗だった。窓際だけが少し明るい。そこに大きなシルエットがひっそりと佇んでいた。
よく見ると、彼は右手に何かを持っていた。携帯でどこかに電話をしているようだ。ボソボソと小声で話しているので、話の内容までは分からなかったが、なんとなく仕事関係の電話ではないかという気がした。
やがて青木は通話を終わらせたが、そのまま何をするでもなく窓の外を眺めていた。カーテンの隙間から差し込んだ外の光が、彼の横顔をぼんやりと照らしている。それを見た時、薪は以前にも似たようなことがあったのを思いだした。
ひと月前に科警研で開いた国際シンポジウム。その講演の最中、自分は今と同じように離れたところから彼のことを見つめていた。青木は部下の前で室長としての顔を見せ、その視線がこちらに向けられることは一度もなかった。
あの時も自分は思ったのだ。たまらなく寂しい、と──。
薪がベッドの上に起き上がると、彼がこちらに気づいた。
「あ、薪さん。もう起きて大丈夫なんですか?」
青木が電気をつけて、こちらにやってくる。間接照明の頼りない明かりではあったが、それでも部屋の中が見渡せるまでには明るくなった。
部屋は広々としたツインルームで、薪が寝ているのは廊下側のベッドだった。枕元には薪の腕時計が置かれている。寝ている間に青木が外したのだろう。文字盤は夜の九時過ぎを指していた。今から彼を急いで出発させても、飛行機の最終便にはとても間に合わないだろう。
「ご気分はどうですか? これ、水です。良かったらどうぞ」
青木がペットボトルを差し出してくる。薪はそれを受け取り、一息に半分ほど飲んだ。寝ている間にすっかり喉がからからに乾いていた。
ペットボトルの蓋を閉めながら、ふうと大きく息を吐き出す。まだ怠さが抜けきってはいなかったが、水分を取って、少し頭の奥がすっきりした。
「僕はもう大丈夫だ。それよりお前は? ご家族にはちゃんと連絡したのか?」
「あ、はい。式が長引いて、飛行機の時間に間に合わなくなったってことにしておきました。今日は俺もここに泊まるので、薪さんは何かあったら俺を起こしてください」
「すまないな、僕のせいで……」
薪が表情を曇らせると、青木はにこりと笑った。
「いえ、気にしないでください。元はといえば俺の方が薪さんを引き留めたんだし、それに最初から日程に無理があったんです。九州から日帰り往復なんて、よく考えれば無茶な話ですよね。母にも久しぶりに怒られちゃいました。室長にもなって落ち着きのないって」
青木は軽い笑い話のように言った。
「それより、腹減りませんか? もし何か食べれそうだったら飯にしませんか? 俺、薪さんが起きるのを待ってたんです。だからもう腹ペコで」
「ああ、別に構わないが……」
薪が了承すると、彼はベッドと反対側のテーブルの上から、細長いファイルのようなものを取ってきた。館内のサービス案内のようだった。
青木は隣のベッドに腰かけ、ファイルを開いた。
「ええと……施設内のレストランはもうラストオーダーが近いみたいですね。ルームサービスにしましょうか。その方が部屋でゆっくりできますし。それか、薪さん外食が苦手なんでしたっけ。なんだったら俺、その辺のコンビニで弁当でも買ってきましょうか?」
「ルームサービスでいい。支払いは僕が持つから、何でも好きなものを頼め」
「好きなものって言っても、俺は何でも食べられますから。それより偏食大王の薪さんの方が選ぶの大変じゃないですか。さあ、果たして薪さんが食べられそうなものがありますかね?」
青木はからかうように言いながら、楽しそうにページをめくっている。
「コース料理はもういいですよね。昼に似たようなの食べたばかりだし。何かあっさりと軽いもの……となると和食かな
、やっぱり。うどんとかおにぎりとか……あ、お粥のセットなんてありますよ。これなんかどうですか?」
青木が和食のページを開いて差し出してくる。薪はそれをちらっと一瞥しただけで、すぐに彼に返した。
「お粥にしますか?」
「いや、やっぱり僕はいい。遠慮する」
「え? 夕食を取らないってことですか?」
「ああ。悪いが一人で食べてくれるか? 僕のことは気にしなくていいから」
「やっぱりまだ気分が良くないんですか?」
青木が心配そうに顔を覗き込んでくる。薪はふいと視線を外した。
「いや、腹が空いてないだけだ。昼間の料理で僕はもう十分だったから……」
すると青木がこちらに身を乗り出して、手を伸ばしてきた。薪は咄嗟に身を引くが、彼は気にせず薪の額に手を置いた。
「うーん……まだ、少し体温が低いみたいですね。できたら温かいものを食べて体を温めてほしかったんですが……食べられないならしょうがないです。無理に腹に詰め込んだら、かえって気分が悪くなるかもしれませんし。今お茶を淹れるので、それだけでも飲んでください」
彼はベッドから立ちあがって、ポットの所に行き、お茶を入れた。
「はい、どうぞ」
カップを渡されて両手で受け取ると、そこからじんわりとぬくもりが伝わる。薪はそこでようやく自分の体が冷えていることに気づいた。
一口飲んだお茶は、いかにもティーバッグの薄い味だった。それでも薪は文句を言わず、最後までゆっくりと飲み干した。
それから再びベッドに横たわった。すると青木が布団を首元まで引き上げて、胸の所をぽんぽんと叩いた。まるで小さな子供を寝かしつけるように。
きっと家でもこんな風に姪に接しているのだろうと、薪は思った。
「薪さん?」
「……なんでもない」
薪は寝がえりを打って彼に背中を向けた。なぜか急に罪悪感に襲われた。自分がまるで世界一の悪者にでもなったような気分だ。体調不良を起こして彼を自分のそばに引き留め、その上家族に嘘までつかせてしまった。青木に優しくされればされるほど後ろめたさが募っていく。
いっそこのまま朝まで寝てしまおうか。そして明日には何事もなかったように彼と別れるのだ。互いに他人行儀な顔をして。
自分はいつの間にこんな大人の小狡いやり方を覚えてしまったのだろう。そんなことを思って薪が自嘲した時、不意に肩に手をかけられた。同時に顔の上に影が差す。
彼がこちらを見つめている。そうと分かっても、薪は後ろを振り向けなかった。すると、青木が心配そうな声を出した。
「薪さん……」
「青木、僕は大丈夫だから……」
──今は放っておいてくれないか。
そう続けようとした薪の言葉を、青木は遮って言った。
「あなたがそんな風に悲し気な顔をしているのは俺のせいですか? だから俺と別れるんですか……?」