NO WAY OUT
自らの階級が高くなっていくにつれ、それに付随する余計なものは累乗で増えていく。その中で一番厄介なのが、義理という代物だ。
薪はうんざりしながら白のタイを襟に回した。そしてテーブルの上に置かれた一通の手紙を見やる。金字と白い花の刻印で装飾されたその手紙の正式名称は、「招待状」という。
本日は大安吉日、空はからりと晴れ上がり、まことに結構な結婚式日和だった。
警察官同士の結婚で、そのうち一人は科警研に所属しているとはいえ、直属の上司でもない自分がなぜ式に出席しなければならないのか。答えは簡単で、新婦の父親が警察官僚で、薪の統括する科警研とも繋がりが深いからである。招待状を手渡しされて出欠の返答を求められては、さすがの薪も無碍に断ることができなかった。
それにしても、披露宴の出席者ぐらい自分たちで決めればいいものを、親に口出しされるままとは、なんとも頼りないご両人である。この意志薄弱さでは夫婦関係も長く続かないのではなかろうか。その場合、薪は極めて無為なことに付き合わされることになる。
──昔なら捜査があるからと言って断れたのに。
窮屈になった我が身を思い、彼はため息をついた。
会場は都心から離れた郊外の山の手にあった。街並みは広々と美しく、富裕層が大きな邸宅を構えることで知られている地域である。式場も売りに出されていた屋敷をリメイクして作られたらしい。しかしそういう場所は得てして交通の便が悪いものだ。薪は最寄りの駅からタクシーで会場まで乗りつけた。
塀の外から切妻屋根と先端の十字架が覗いている。ここは教会とバンケットルームが隣接していて、式の後スムーズに披露宴に移行できるようになっている。一連のセレモニーが終わるまで三時間超と言ったところか。薪は観念して門をくぐった。
教会の前庭には、すでに多くの人がたむろしていた。警察関係者が呆れるほど多い。右を見ても左を見ても黒一色。それも一般人とは程遠い、重苦しい風体の者ばかりである。新婦の友人らしきうら若い女性の一団もいるにはいたが、華やかなドレスが黒スーツの波に埋没していた。
その中でも特に黒服の人間が集まっている一角があった。人だかりの中心にいるのは花嫁の父である。薪はそちらに向かった。
「おお、薪くん。来てくれたんだね」
「このたびはお招き頂きましてありがとうございます。お嬢様のご結婚、心よりお慶び申し上げます」
「ありがとう。君も忙しいのに、わざわざ足を運んでもらってすまないね」
「いえ、そんな」
──全くだ。そう思うなら最初から呼ばないでほしい。
と内心の本音を笑顔の裏に隠して、薪は如才なく挨拶を済ませた。
やがて予定の時間になり、式場のスタッフが現れた。チャペルの扉が開かれ、その中に招待客達が入っていく。薪も列の最後尾に並んだ。
挙式は粛々としめやかに執り行われた。高い天井から陽の光が差し込み、白い祭壇の上で、主役二人が幸せそうに将来を誓い合う。彼らと親しい仲であれば、さぞかし胸を打つ感動的な光景だっただろう。薪は余所行きの笑顔を顔に張り付けて、客席の一番後ろから拍手を送った。
その後、ブーケトスや記念撮影などお決まりの催しが行われる。それを一歩引いた所から眺めているうちに、披露宴の用意が整ったと案内が入った。
バンケットルームに移動し、入口で受付をする。芳名帳に名前を書くときに、薪はページの先頭に知っている名前を見つけた。それは彼の心に爪痕を立てる名前だった。
──どうして、こんなところで。
会場の中に入ると、確かに新郎側の席にその男はいた。向こうはこちらに気づいていないようだ。薪は視界の端に彼の姿を捉えながら、新婦側に設けられた自分の席に着いた。
挙式と同じように、披露宴も何の意外性もない陳腐なものだった。いくつかの挨拶、祝辞が述べられた後、新郎新婦がお色直しに立った。
主役が抜けて、会場の空気がふっと抜ける。席を外して休憩に行く者、さりげなく余興の準備に入る者、顔見知りの所に挨拶しに行く者。薪のいるテーブルは警察機構の中でそれなりの立場にいる人間が集められていたので、酌をしようとする者たちが押し寄せた。
その中の一人にビール瓶を向けられて、薪が仕方なくコップを持ち上げた時、反対側から回って来た者の体が肩を押した。コップの位置がずれて、ビールがスーツの袖口にかかってしまう。
「もっ、申し訳ございません!」
「大変失礼をいたしまして、お洋服は大丈夫でしょうか!?」
ビールを注いだ者と接触した者と、双方が米つきバッタのように謝ってくるのをいなし、薪は席を立った。そして彼はホールを抜け出し、化粧室に向かった。
幸いなことに、中のシャツまでは被害が及んでいなかった。ジャケットを脱いで、洗面所で袖を軽くもみ洗いをした後、ハンドドライヤーに当てて乾かす。さすがに手の水気を飛ばすように簡単にはいかず、しばらくその場に立ちっぱなしになっていると、ふと背後から声をかけられた。
「薪さん」
その声が聞こえた瞬間、前にもこれと似たようなことがあったな、と薪は思った。それがいつのことだったか考え、やがて彼は気づいた。ああ、あの時とは自分たちの立ち位置が反対なのだと。あの時は彼が洗面所にいて、自分が入口から声をかけたのだった。
振り返ると、彼がいつものように笑ってそこにいた。
「薪さんもいらしてたんですね。会えると思ってなかったから、びっくりしました」
「そっちはいつ来たんだ? 挙式では見かけなかったが」
「今日土曜日でしょう? 移動が間に合わなくて、披露宴から出席することにさせてもらったんです。確か、新婦が科警研の人なんですよね」
「そっちは新郎側だったな」
「ええ。新郎とは大学で同期だったんです」
「そうか」
「同じ年に入庁したんで、最初のうちは連絡取り合って、たまに飲みに行ったりしてたんですけど、それも第九に入ってからはばったり止んじゃってて。だから顔見るのも数年ぶりなんですよね」
「うん」
「それにしても結婚式って重なるもんですね。俺、式に参加したの今年でもう三回目なんですよ。おかげで出費が痛くて」
まるで何かの言い訳のように自分がここにいる理由を話す男を、薪は冷めた目で眺めていた。彼の話す言葉が耳を通過して、頭に残らない。
そのうち、廊下から他の人間が入ってきた。
「あ、すいません」
入口を遮るような形で立っていた青木が、謝って場所を譲る。その間に、薪はドライヤーからジャケットを取り出した。まだ軽く湿っていたが、このぐらいなら放っておいても自然乾燥でどうにかなるだろう。
「そろそろお色直しが終わる頃だろう。僕はもう会場に戻るから」
「あ、はい」
薪が袖に腕を通すと、青木が当たり前のようにそれを手伝おうとする。薪は「結構だ」と断り、一人でジャケットを着込んだ。
すると青木が身を屈めて、薪の耳元に囁いた。
「あの、後で少しお時間を頂けませんか? ちょっと話したいことがあるんです」
顔を上げると、彼はやけに真剣な表情でこちらを見つめていた。先程までの愛想の良さはどこに行ってしまったのだろうか。
話したいこととは一体何についてだろう。自分たちが顔を合わせたのが数か月ぶりで、ここ最近はろくに電話もなかったことについてだろうか? それとも彼がこちらに来る機会があっても、ろくろく話もせず九州にとんぼ返りする件についてだろうか? 今回の上京を自分が一切聞かされていない件について? それとも──
薪は視線を下げて、彼の左手を見つめる。
さっき席についていた時には指に嵌められていたはずの指輪が、今はなぜか外されている件についてだろうか?