ホットミルクと甘い夢

 法医第九研究室第八管区では、もう随分前からある噂がまことしやかに流れている。室長に遠距離恋愛中の恋人がいるという噂だ。
 今の所、本人に直接確かめた者はいない。だがいつもは冷静な彼が、東京への出張が決まるたびにそわそわと落ち着きをなくしているのは事実であり、そんな姿を見るにつけ、やはり噂は真実なのだろうというのが管区を上げての見解だった。
 そしてこのたびの出張でも、彼はいそいそとある電話番号に電話をかけた。たった一言、「会いませんか」と約束を取り付けるために。

 日が暮れる前に向こうを出てから四時間、電車と飛行機を乗り継いで、青木はようやく駅に辿りついた。
 改札を出たところで、早速メールを打つ。
『今、駅に着きました。そちらは帰宅されてますか? 今からお宅に伺っても構わないでしょうか?』
 メールを送って間もなく返事が返ってきた。文面はごくシンプルに、「了解」とだけ。
 青木はショルダーバッグを肩にかけ直し、ロータリーからタクシーに乗り込んだ。

 ──やっぱり九百キロは遠いよなあ……。
 流れる車窓の風景を眺めながら、青木は一人呟いた。前回の訪問から今日までの日数を指折り数える。
 地方勤務の人間としては、結構な頻度で上京していることになるだろう。しかしそれでも青木には物足りなかった。プライベートでもちょくちょく来られたらいいのだが、幼い子供を養っている身の上、そうそう自由に行動するわけにもいかない。こうして出張にかこつけては、なんとか時間を捻り出している現状だ。
 次に来られるのは墓参りの時だろうか。毎年姉夫婦の命日に合わせて、休暇を取るようにしている。しかしその時は青木一人でなく、舞や母親も連れてくるので、あの人に会えるかどうかは分からない。むしろ家族同伴であれば、会ってくれなくなる可能性の方が高い。
 あの人なら、きっとこう言うだろうから。
 僕よりも家族を優先しろ、と。

 十分ほどして、タクシーはとある高層マンションの前で止まった。青木はタクシーから降りると、セキュリティを通り抜けてマンションの中に入った。大理石のロビーを歩いて、高速エレベーターに乗り、一気に上層階まで上がる。そして角部屋の一室で足を止めると、彼はチャイムを鳴らした。
 ドアが開くまでの短い間、青木の胸はいつもどきどきと高鳴る。まるで、初めてできた彼女の部屋を最初に訪ねた日のようだ。わけもなく咳払いをしたり、髪を撫でつけたりしてしまう。
 やがて扉が開いた。するとそれまでの緊張が嘘のように、青木の顔は自然と綻んだ。逢いたくてたまらなかった顔を前にし、万感の思いを込めて、その人の名前を呼ぶ。

「……こんばんは、薪さん」



 まだ九時すぎだと言うのに、薪はもうパジャマに着替えていた。今しがたまで入浴していたのだと言う。
「お前も風呂入るか?」
「はい、ありがとうございます。職場から直接来たんで助かります」
「飯はもう食ったのか?」
「いえ、それはまだ。移動、移動で忙しなくて、どこかに立ち寄る暇もなくて。すごい腹減っちゃいました」
 青木が冗談めかして腹を抑える仕草をすると、薪は顔を上げてこちらを見た。なぜかもの言いたげな目をしている。しかし彼は何も言わず、視線をそらした。
「……そうか。じゃあお前が風呂に入ってる間に、何か用意しておく。と言っても、簡単なものしか出せないが」
「とんでもない。薪さんの手料理、すごく嬉しいです。ありがとうございます」
 先にリビングに通される。部屋の隅に荷物を置いていると、薪が着替えを持ってきてくれた。この家には青木専用の室内着が用意されている。少しでも荷物が少なくなるようにと、薪が置くことを許可してくれたのだ。それを持って、青木は脱衣所へ向かった。

 先に洗面所で手と顔を洗う。タオルで顔を拭きながら、青木は鏡に映る自分の姿を見つめた。
 そこには到って平々凡々な男が映っている。身長こそあれ、威厳や貫禄といったものはまだそれほど身についていない。如何せんキャリア組なので、役職の重さに年齢が釣り合わないのはある程度仕方ないことではあるのだが──。
 青木はこれまで捜査官として数々の経験を重ねてきた。第九に勤め出した頃に比べれば、随分成長したと思う。現実にこうして管区を一つ任せられてもいる。しかしそれでも、自分にはまだまだ多くの物が足りていないと、青木は考えていた。
 彼の前には大きな山がそびえたっている。その山は非常に大きく、偉大で、足をかけるどころか、いまだ全体像を掴むことすらおぼつかないでいる。
 青木としては一日でも早く彼に追いつきたい。隣に並び立つことはできなくても、後ろから彼を支えることができたらと思う。しかし現実を顧みると、そこに至るまでの道のりは果てしなく遠かった。距離が埋まる日が永遠にこないのではないかとすら思う。かつての彼と同じ立場に立ったからこそ、痛切にそう感じるのだ。
 タオルを元の位置に戻しながら、青木はため息を吐いた。
 さっき、薪の目が何を言わんとしていたかは察していた。青木は彼に会うために、前泊してここにやって来た。自宅に寄ることもせず、食事も取る暇も惜しみ、一目散に飛行機に飛び乗って。だから──。
 だから、きっとこう思ったのだろう。
 僕に会うためにそんな無理をしなくてもいいのに、と。

 自分で考えたことに落ち込んでしまい、青木は洗面台に手をついて項垂れた。
 分かっている。薪は決して薄情なわけではない。青木に会いたいと思ってくれていないわけでもない。ただ、彼は悲しいぐらいに無欲なのだ。事件に関することなら誰より強く主張できるのに、それがことプライベートになると、途端に口を噤んでしまう。
 青木に対しても、これまで何かを要求してきたことは殆どない。それが、青木にはほんの少しだけ寂しい。
 ──いつか……あの人に頼ってもらえるような人間になれるんだろうか。
 鏡の中の男は、およそ頼りがいのなさそうな目でこちらを見返していた。

 手早く入浴を済ませてリビングに戻る。
「薪さん、お風呂頂きました。ありがとうございました」
「ああ」
 キッチンから声がしたかと思ったら、薪が料理の乗せられた皿をテーブルの上に並べた。ありふれた家庭料理だが、どれも実に美味そうだ。皿から作り立ての湯気が立ち上っている。思わず胃がきゅうと鳴って、青木は本気で腹を抑えた。
「うわあ、美味そうですね」
「早く食え。腹減ったろう」
「はい」
 青木はテーブルにつき、両手を合わせた。
「いただきます」
 そう言って頭を下げる。するとテーブルの反対側で、薪がくすりと笑った。
 育児を始めてからというもの、青木は日常のあらゆることに気を配るようになった。何しろ自分の所作が舞のお手本になるのだ。自然と模範的な行動が身についてしまう。
 もちろん薪はそのことを知っているし、今の微笑みにもからかいの色はない。ただ、とても優しい目をしてこちらを見ていた。青木は料理をつつきながら、今の笑顔を頭の中の記録庫にこっそりしまい込んだ。
 青木が食事している間、薪は反対側の椅子に座って、何かの書類を読んでいた。特に会話もなかったが、自分に付き合って食卓についていてくれる。それだけのことが嬉しかった。
「ごちそうさまでした」
「綺麗に全部食べたんだな」
「はい、お腹空いてたんで。それにすごく美味かったです」
「気に入ったのなら良かった」
 青木が食事を終えると、薪はリビングの方に行ってしまった。青木はキッチンの流し場で、一人皿洗いをした。
 濡れた手をタオルで拭きながら、青木はふと冷蔵庫を見る。
「薪さん、飲み物頂いてもいいですか?」
「ああ。どれでも好きなのを開けていい」
「どうも」
 薪の了解を得て、青木は冷蔵庫の扉を開けた。

コメント

kahoriさん

新しくなったサイトでまた楽しませてもらっています(^^)
薪さんが青木君のメールを心待ちにしていたのに、すぐ返信したら決まりが悪いと思って、
間を置いてシンプルに返信していたらと思うと萌えますv絶対天邪鬼。
初歩的な質問ですいませんが、各お話の下にあるコメント欄から書き込んだ場合、
それぞれどこから書き込んだのか分かるようになっているのでしょうか?
ちなみに今ホットミルクの最初のページからコメントしています。

> 間を置いてシンプルに返信していたらと思うと

薪さんは絶対天邪鬼ですよねー。
メールはそっけないし、会ったら会ったで「無理しなくてもいいのに」的な目で見て来るし。
でも本当は心の底の底の底の方で、「青木に会えて嬉しい」って思ってるんですよ。
その辺のめんどくさ〜い機微を(笑)読み取ってくれてありがとうございます!

> 初歩的な質問ですいませんが、

送られたコメントにはそれぞれ元ページ名が記載されるようになっているので
どのページに寄せられたコメントか分かるようになっています。
ホットミルクのお話、また読んでもらえて嬉しいです。
これは秘密で一番最初に書いた話で、自分ではまだキャラを掴めていなくて
うまく書けなかったかなあと思ってたんですが、こうして何度も読んで頂けると
書いてよかったなあって思います。kahoriさん、本当にありがとう〜!

 

 (無記名可)
 
 レス時引用不可