Lovers
レジで「温めますか?」と聞かれ、彼は反射的に「はい」と答えたが、すぐにそれを後悔した。自宅マンションまで、まだもう少し歩かなければならない。今ここで弁当を温めてもらっても、家に着く頃には冷めきってしまうだろう。しかし訂正する間もなく、弁当は電子レンジの中に入れられ、店員が流れるような早業でボタンを押していた。鈴木は仕方なくほかほかになった弁当を受け取って、コンビニを出た。
店を出てすぐの路地を曲がり、大通りから住宅街の中に入る。街灯はまばらに立っていて、辺りはほとんど暗闇に沈んでいる。夜道をとぼとぼ歩きながら、鈴木は帰ってからのことを考えた。
このところ忙しくしていて、すっかり家のことを後回しにしている。掃除も洗濯も全くしていない。前にゴミ出しをしたのはいつだっただろう。荒れた家の中を思って、彼はげっそりとなった。
まあいい、明日は土曜日だ。面倒なことは明日に回して、今日はもう休んでしまおう。なんだったら弁当を食べるのも明日の朝でいい。疲れすぎて食欲がない。とにかく今は一刻も早くベッドに潜り込んで眠りたかった。
鈴木は今日までとある通り魔殺人の捜査に関わっていた。被害者は都内に住む三十代の男性で、会社からの帰宅途中に刺殺された。遺体からは財布と時計が抜き取られていたので、強盗の仕業だろうと見られていた。だが調べを続けて行くうちに、鈴木はそれに疑問を持つようになった。
被害者が殺害されたのは人気のない公園で、一人の目撃者も出なかった。また近くに幹線道路が走っていて、夜間でもそれなりに音があるため、近隣住民から悲鳴や物音を聞いたという証言も出なかった。まさに犯罪にはうってつけの場所だった。
この現場の状況を知った時、彼はふと思ったのだ。犯人は被害者の後を付けてたまたまこの公園に行きついたのではなく、帰りのルートをあらかじめ知っていたのではないかと。
その疑惑が確信に変わったのは、画面上で犯人の目を見た時だった。
被害者は背後から襲われた上に、犯人が覆面をしていたので、MRI画像から犯人を特定できるような情報は得られなかった。はっきりと分かったのは単独犯であること。それ以外は大体の体格や服装、使用された凶器の形状など、曖昧なものばかりだった。
しかし被害者の意識が途切れる寸前、犯人の姿が真正面から映り込む瞬間があった。犯人が被害者の顔を覗き込んだのだ。その目を見た時、鈴木は直感した。これは被害者の所持している金品を探している目ではない。被害者の生存を確かめている目なのだと。
物取りが目的の犯行ならば、必ずしも被害者の命を断つ必要はない。犯人は顔を隠していたのだ。胸元の財布を奪ってさっさと逃げた方がよほど証拠は残らない。だが犯人はそうせず、わざわざ被害者が絶命したかを確認した。それはなぜか。
──強盗はフェイクで、本当の目的は被害者自身だったというわけか。
薪はすぐに鈴木の意図を理解してくれた。
捜査本部ではすでに強盗の線で捜査が進められていた。今回の事件は第九が主導して担当しているものではなく、被害者が犯人を見ている可能性があるから確かめてほしいと、警視庁の方から要請を受けてのことだった。だから犯行時の映像から目ぼしい証拠が見つからなかった時点で、第九としての役目は終わっていた。
だが薪は鈴木の訴えを聞き入れ、特別に一週間の猶予をくれた。捜査本部の方針を覆すだけの証拠を見つけてみせろと、同い年の上司は言った。
鈴木は手始めに朝夕の通勤の様子から調べた。最初の直感を信じるなら、犯人がどこかで被害者の視界に現れるのではないかと思ったのだ。しかし、これといって怪しい人物は浮上しなかった。被害者も誰かにつけられていると感じたことはなかったようで、彼が後ろを振り返って確認するということは一度もなかった。
それならばと、今度は日常生活を追ってみたのだが、こちらの結果も捗々しくなかった。被害者は誰かと諍いを起こしたりトラブルに巻き込まれたりすることもなく、その暮らしぶりはごくごく平凡な一市民のそれだった。捜査一課の調べでも、家庭や職場環境に問題はなく、また金銭トラブル等も抱えておらず、怨恨の線は薄いとされていた。
鈴木はほとんど家にも帰らないで、ひたすら被害者の脳を見た。少しでも事件の予兆となるものが彼の目に映っていないかと、一縷の望みにかけてMRI機器の前に座り続けた。しかし何の手掛かりも得られないまま、約束の一週間は過ぎてしまった。
成果が出せなかったことを薪に報告すると、肩を叩かれ、「今日はゆっくり休め」と言われた。その時鈴木は、罵倒されるより労わられる方がきついこともあるのだなと思った。
ついていない時は何もかもがうまく行かないものだ。帰る途中で雨が降ってきてしまった。マンションに到着する直前だったので、そこまでひどく雨に打たれたわけではないが、今の暗鬱とした気分をさらに引き下げる効果は十分だった。
重い足を引きずって、ようやく自宅の前までたどり着く。玄関の扉を開けると、なぜか部屋の明かりが点いていた。そして奥から雪子が現れた。
「お帰りなさい、遅かったのね」
「なんだ、来てたのか」
「あら、来ちゃいけなかった?」
「そんなことはないけど、平日だし、連絡ぐらいくれたら良かったのに……」
「連絡したわよ。何度も」
「え?」
携帯を確認すると、画面が暗くなっていた。
「……充電切れてたのに気づかなかった。悪い」
「別にいいわ。どうせ仕事中で見てないだろうなって分かってたし」
雪子は気にしていないようにからりと笑った。鈴木の職場では、勤務中は携帯の電話を落とすのが決まりになっている。今までにもこういう風に連絡がすれ違うことが何度かあったので、慣れているのだ。
靴を脱いで家の中に上がると、うまそうな匂いがした。どうやら食事を作って待っていてくれたらしい。食べ物の匂いを嗅いで、鈴木は急に腹が減っていることに気づいた。
「飯作ってくれたんだな」
「ええ、そうだけど……先にお風呂に入って来たら? 髪も服も濡れてるじゃない。いつから雨が降ってたの?」
「家につく直前。たいしたことないからいいよ。今から風呂沸かしてたら遅くなるし、音も近所迷惑だろう」
「大丈夫。もうお湯は張ってあるから、追い炊きしたらすぐ入れるわ。ほら、鞄貸して」
雪子が鈴木の手から鞄とコンビニの買い物袋を取り上げる。そして買い物袋の方を持ち上げた。
「これは明日の朝ご飯でいいわよね?」
「……ああ、いいよ」
元より異論はなかったが、こちらに否やを言わせない態度が多少鼻に付いたのは事実だった。だが今はつまらないことを言い合って体力を消耗したくない。彼は黙って着替えを取りに行った。