風邪っ引きラプソディ

 青木の熱が一向に下がらないので、今日風呂に入るのは無理だと判断し、タオルで体を拭いてやることにした。
「お前の体、でかいから拭きがいがあるな」
 薪が茶化すように言うと、青木は「すいません」と苦笑した。
 右手を上げて、次は左手を上げて。大きな男が自分の言うとおりに体を動かす。まるで人形遊びのようだ。薪はこっそりと笑みをこぼした。
 脇腹の辺りを拭くと、青木が「ふふ」と声を上げる。くすぐってしまったかと思ったら、青木は違うことを言った。
「こういうの、恋人っぽくていいなあって思って」
「…………」
 能天気な台詞を聞き流して、黙々と手を動かす。だがそんな彼も実は、恋人の体に触れて少しだけ胸がときめいているのは、本人には内緒だ。
 せっかく体が綺麗になったのだ。汗で湿ったベッドシーツもついでに交換することにした。青木にパジャマを着替えさせ、その間に素早くシーツを取り換える。
 パジャマやシーツを洗濯機に放り込んで、寝室に戻ると、青木は眼鏡を外してベッドに横になっていた。ようやく寝たかと思ったが、薪が枕元に立つと、すぐにぱっちりと目を開けた。
「気分はどうだ。頭痛とか吐き気はないか?」
「ないです。けど、関節がちょっと痛いです」
「熱が高いからな。明日までの我慢だ」
 かけ布団を引っ張って、彼の首元まで引き上げてやる。すると、青木が薪の手を取った。
「薪さん、今日は来てくれてありがとうございました」
「ん」
 薪も彼の手を握り返す。床に膝をついて、同じ高さに目線を合わせる。
「たいしたことはしてないけどな」
「いいえ、そんなことないです。ご飯作ってくれたし、林檎食べさせてくれたし、それに……」
 青木は一旦言葉を切って、視線を下げた。
「本当言うと、すごく寂しかったんです。昼間寝てた時も、今頃みんな仕事してるんだろうなあとか、俺の代わりに誰が買い出しに行ったんだろうとか、色々考えてたら、急に一人の空間が寂しくなっちゃって」
「今日お前が幼児返りしたのはそのせいか」
「あはは、それはもう言わないでください」
 青木は恥ずかしそうに笑う。薪も微笑んだ。弱っている彼の元に駆けつけられたのが、自分であることが嬉しかった。
「僕が帰ったら、また寂しくなりそうか?」
「ちょっとだけ。でも大丈夫です。薪さんは気にせず帰っちゃってください」
 青木は手を繋いでいるのと反対側の手を伸ばして、薪の頬に触れた。
「本当は帰したくないけど……風邪を移すといけないから」
 青木の手が頬を滑り降りて、唇にたどり着いた。親指がそっと下唇をなぞる。それがキスの代わりであることは、言葉にしなくても伝わった。
 彼の瞳が切なく自分を見つめる。
 今ここで、そういう目をするのはズルい。そっちから帰れなんて言うのもズルい。そんなことを言われたら、逆に帰りたくなくなってしまう。薪は筋金入りの天邪鬼なのだ。
「もう少しここにいるから、寝ろ。お前が寝付くまでは傍にいてやる」
「寝るのが勿体ないです」
「何言ってる。毎日職場で顔を合わせてるのに、まだ見飽きないのか?」
「はい、全然飽きません」
 上司に向かってそんなことを言う奇特な部下は、世界中探しても彼一人だろう。薪はくすぐったい気持ちで、「馬鹿め」と返した。
 その時、青木がぶるりと体を震わせた。
「寒いのか?」
「悪寒が、少し……」
 布団から肩を出しているせいだろう。薪は青木の手を中に戻し、布団をかけなおしてやった。そして腕時計を見る。終電の時刻から、駅までの移動時間を差し引き、ここにいられる残り時間を算出する。余裕を見て、一時間と少し。
 薪はベッドの反対側にあるクローゼットの所に行くと、ハンガーを取り出して、「借りるぞ」と声をかけた。
「はあ……」
 ハンガーなど何に使うのだろうと、青木はきょとんとしている。そんな彼に背を向けて、薪は服を脱ぎだした。
「えっ……な、薪さん!?」
 青木の動揺する声を無視して、ジャケットとスラックスをハンガーにかけて、クローゼットの空いている所にしまう。それからワイシャツのボタンを二つ外し、ラフな格好になってベッドに潜り込む。二人分の体重で、パイプベッドがぎしりときしんだ。
 青木が壁際に後ずさる。
「こら、狭いんだからじたばたするな。埃が立つ」
「駄目ですよ、薪さん。風邪が移っちゃいますって」
「ここに来てどれぐらい経ったと思ってる。今更少しぐらい接近したからって変わるもんか」
 薪は彼の隣に体を寄せた。
「どうだ、温かいか?」
「……はい」
 青木が遠慮がちに手を伸ばし、薪の体を抱きしめる。いつも通りの彼の抱擁。違うのは少しだけ体温が高いこと。
「お前が寝付くまでだからな」
「はい」
 密着した体から感じる彼の匂いを、胸いっぱいに吸い込む。同じように青木も顔を寄せ、薪の背中をそっと撫でた。
「俺、熱があって良かったです。もし今健康だったら、間違いなく襲いかかってました……」
 深刻そうな口ぶりで青木が話すので、薪は思わず吹き出してしまった。

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