晩夏

 青木はいつも時間ぴったりに彼の家を訪れる。彼との約束は殆ど違えたことはない。電車の遅延などでやむなく遅れる場合は、必ず数時間前に連絡を入れて、待ち合わせ時間を変更してもらうようにしている。
 対して、青木の恋人はプライベートでは存外時間に煩くない人だ。毎回申告通りに青木が現れるので、生真面目だなと笑われたこともある。
 しかし青木にすれば、彼を待たせることなど到底できるはずもなかった。彼は恋人である前に自分の元上司である。そして重要な使命を背負った人だ。彼がどれほど忙しい身か、たまの休日がいかに貴重であるかを知っているから、彼と逢える時間を一分一秒でも無駄にしたくなかった。
 この日も青木は約束の時間通りに、彼の家のチャイムを鳴らした。
 程なくドア越しに人の気配がやってくるのが分かった。この扉が開けられる瞬間は、いつも胸が弾む。

 ──薪さん。

 プライベートモードのトーンで彼の名前を呼ぼうとしていた青木は、しかし言葉を発する前に口を噤んだ。
 ドアを開けてくれた薪は、もう一方の手で携帯を耳に当てていた。青木を見ながら、首を小さく横に振る。青木は状況を把握し、黙って頷き返した。
 青木はそっと玄関の中に入り、物音をたてずに靴を脱いだ。それを見て薪はさっさと家の奥に引っ込んでしまう。
「……はい、ですが……ああ、なるほど……そうですね」
 青木が家の中に上がってからも、薪は電話の相手と話し続けた。そして、そのまま寝室の方に行ってしまう。扉が閉まると、彼の声も聞こえなくなった。リビングに取り残された青木は、いつもの場所に荷物を下ろし、ソファの端っこにちょこんと座った。
 話しぶりから察するに、仕事関係の電話らしい。あまり長引かなければよいのだが。青木は壁の時計を見上げる。予定まではまだ余裕はあるが、あまりここを出る時間を延ばしたくない。
 今回の上京は久々に時間の余裕が取れた。薪のオフとも兼ね合って、昼からぽっかりとスケジュールが空いたので、映画でも見に行こうかという話になった。遠出できるほど時間がある訳でもなく、映画ぐらいしか選択肢がなかったという消極的な理由からの選択だったが、これまで彼とデートらしいデートをしたことがなかったので、青木はこの日をとても楽しみにしていた。
 ちなみに今日見る映画は、フランスのサスペンスコメディである。脚本がいいと口コミでは評判で、最後にはどんでん返しもあるらしい。後味が爽快だと聞いて、青木が選んだ。たまには軽い映画でも見て、薪に気分転換してほしいと思ったのだ。
 青木が携帯で劇場の空席状況を確認していると、薪がようやく寝室から出てきた。
「あ、薪さ……」
 顔を上げた青木は、彼の恰好を見て黙り込む。
 先程までアイボリーのサマーニットを着ていた彼が、今はスーツの上下に着替えている。それはすなわち、今日のデートはお預けということだ。
「仕事、ですか」
「ああ」
 薪が申し訳なさそうに答える。それを見て、青木は無理矢理口角を引き上げた。
 青木は彼の恋人である前に、彼の部下だ。だからこういう時、自分は笑って彼を見送らなければならない。
「お仕事ならしょうがないですよね。もう家を出られますか?」
「いや、迎えが来ることになっている。あと三十分ほどは大丈夫だ」
「そうですか。じゃあ、もう少し一緒にいられますね」
 そう言って青木は、彼に向かって両腕を広げてみせた。薪がこちらの意図を察して近づいてくる。青木が彼の腰を引き寄せて腕の中に抱きしめると、彼は青木の頭をぽんぽんと撫でてくれた。
「すまないな、いつもこんなことばかりで」
「いいえ、気にしないでください」
 青木は決して強がりではなく、本心から言った。青木が彼と付き合っているのは、彼に何かをしてもらうためではない。彼のために何かをしてあげられるようになりたかったから、恋人になったのだ。自分がいることで彼に少しでも負担をかけたくなかった。
「お戻りは何時ごろになりそうですか? もし夕方までに帰ってこられるのなら、晩飯の用意をしておきますよ。あまりたいしたものは作れませんが」
「そうだな……」
「帰り、長引きそうなんですか?」
「……分からない」
「そうですか」
 単に帰宅の見通しが立たないだけなのか、それとも重大な用件で帰りが遅くなるのか、はたまた遠方に足を運んで泊まりの仕事になるのか。薪の返事からはさっぱり事情が分からなかったが、青木はそれ以上追及することは控えた。
 彼は恋人である自分にも、仕事の内容を教えてくれることは殆どない。そういった方向で公私混同する人ではないのだ。それを寂しいと感じることがないわけではないが、それ以上に青木はそんな彼の潔さを愛していた。
「映画はお前一人で見てきてくれるか? チケット代は僕が出す」
「いいですよ、そんなの。一人で見に行ったってしょうがないですし」
「でも楽しみにしていただろう?」
「ええ、薪さんと一緒にでかけるのを楽しみにしてたんです。また今度行きましょう。まだしばらく上映してますし、来月の上京の時にでも」
「その時休みが取れるか分からない」
「じゃあDVDが出るのを待ちます。俺は薪さんと一緒に見たいんです」
「だが、この家にいたって何もすることはないんじゃないか? お前が暇だろう」
 薪の言う通り、この家でできることは極めて限られている。娯楽的なものは一切置いていない家なのだ。せいぜいがテレビぐらいである。
「そうですねえ、何か用事はありますか?」
「用事?」
「ええ、なんでもしますよ。掃除でも洗濯でも買い物でも。なんなら家中を雑巾がけしましょうか? 床から壁から、全部磨いておきますよ」
 青木が冗談めかして言うと、薪は口元に手を当てて、考え込む仕草を見せた。
 てっきり「いらない」と言われるかと思いきや、何かしてほしいことがあるらしい。一体何を言われるのだろう。まさか本当に家の掃除を言いつけられるのだろうか。もしそうなら腕に寄りをかけて、家中をぴかぴかに磨き上げてみせよう。
 青木はわくわくしながら彼からの初めての「お願い」を待った。
「じゃあ一つだけ、頼みたいことがある」
「はい」
 すると薪は横を向いて、壁の一角を見た。視線の先を辿ると、そこにはカレンダーがかけられていた。
 去年の末に、警察庁全体で配布されたものだ。同じものが九州の青木の家にもある。エメラルドグリーンの海の写真の下に、二か月分の数字が並んでいるが、そこには何のマークも書き込みもされていなかった。
「もし、お前が嫌じゃなければでいいんだが……」
 声が少し小さくなる。青木は彼の言葉を聞き漏らさないよう、じっと彼の口元を見つめた。


 そして次に薪が言ったことに、青木は「はい、分かりました」と答えた。


 聞き返すことも理由を尋ねることもせず、当たり前のように頼みごとを引き受ける青木に、薪は戸惑うような表情を浮かべる。
「いいのか……?」
「もちろんです」
 青木は彼ににこりと笑いかけた。そして彼の頬を包み込むように、両側から手を当てる。すると薪は屈みこんで、瞼を閉じてくれた。
 青木はこの瞬間の彼の顔を見るのが、とても好きだった。無防備に目を瞑って、自分だけに向けられる顔。世界中で自分しか知らない、この瞬間の彼の顔が。

 青木は万感の思いを込めて、そっと彼の唇をついばんだ。

コメント

kahoriさん

素直になれない二人のいじらしさやすれ違いがもどかしいんですけど大好物です♪
熟練夫婦になっていくまでの過程として大切な一歩ですね。
仕事中もプライべートもメッタ切りされるようになったら青木君不憫すぎますからね(笑)
映画は私に何かネタをふってきてるのかと思って、分からなかったので質問しました〜
早とちりで失礼しましたm(_ _)m

> 素直になれない二人のいじらしさやすれ違いが

そうか、素直じゃないのは薪さんだけだと思ってましたが
考えてみると青木も青木で意地っ張りですね。
きっと好きな人に頼られたい男のプライドなんでしょうね〜。

> 早とちりで失礼しましたm(_ _)m

いえいえ、こちらこそいい加減な奴ですみません。
基本知識の浅い人間なので、読み手さんの豊かな人生経験に全力でよっかかって
作品を作っていきたいと思います(笑)。

 

kahoriさん

体が大きいのにソファにちょこんと縮こまっている青木君可愛い&不憫です。
ご褒美のちゅーだけでどこまでも頑張ってしまいそうですね。
薪さんを大切に思うばかり尽くしたい欲が強い青木君、
恋人同士なんだからもっと対等に振舞ってもいいのでは…と心配になりました。
お互いが気を使っている様が恋愛初期のようで初々しい感じがするのもよいですね(^^)
ワンコが次回報われるのか気になります!
作中登場する映画って実在するものがあるのですか?
夏のお話ということですが墓参りとか関係してくるのかしら〜?続きを楽しみにしています!

> 体が大きいのにソファにちょこんと縮こまっている青木君

私が何気にこだわったポイントをちゃんと拾ってくれてありがとう〜!
私の中で青木がこんなイメージなんですよね。
付き合いだしても、まだ上司としての薪さんの方が先に立って、全然対等になれてないんですよ。
「俺が薪さんを支えるんだ!」って思ってても、それはあくまで部下としての側面の方が大きくて、
我がまま言って薪さんを困らせちゃいけない、自分より薪さんを優先しなきゃって思うばかりに、
なかなか本心を打ち明けられないんです。
デート楽しみにしてたのに行けなくて残念だーとか。
それでまた薪さんが他人行儀の塊みたいな人でしょう?
お互い思う所はたっぷりあるのに素直になれない二人だろうなあと。
そういう青木のいい意味でも悪い意味でも謙虚なところが、
ソファの座り方一つにも現れるんじゃないかなと思うんです。
そのうち「俺と仕事とどっちが大事なんですか!?」って台詞の一つでも言えるようになるといいですね。
そして薪さんに「仕事に決まってるだろう!」とサックリ切られると(笑)。

> 作中登場する映画って実在するものがあるのですか?

特にないですねー。二人が映画見に行くならこんな感じかなーって想像して、適当に書きました。
フランス映画にしたのは何年か前に見た「最強のふたり」が面白かったので、
ああいう味わいがあって、所々音楽の効かせた映画をイメージしてって感じです。
いい加減ですみません。^^;

 

なみたろうさん

きゃわわ(*≧∀≦*)
こちらの二人はサイコーです!なんてゆうか、自然な感じが。
雰囲気が原作に近いとゆうか。なのに自然な感じで恋人同士ってゆう。
リアルな薪さん、少々デレ増し。
薪さんのキス顔…ああわんこいじめたくなってきた。

> 薪さんのキス顔…ああわんこいじめたくなってきた。

わんこイジメちゃ駄目ですよ(笑)。あれはあれで飼い主を守る忠犬なんですから。
次の回でわんこ頑張ってお役目を果たしますから、そしたら頭を撫でて褒めてあげて〜。
ていうか私だって見たいわ! くそ、青木め!(笑)

> 雰囲気が原作に近いとゆうか。

プライベートの時の薪さんがどんなか、原作で殆ど描かれないから分かんないんですよね。
一応私なりに試行錯誤中なんですけど……。
読んでいて自然と清水絵の薪さんが頭に浮かぶような話を書きたいなっていうのが目標なので
そう言って頂けて本当に光栄です。読んでくれてありがとう〜!


 

 (無記名可)
 
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