小さな温もりがすぐ側にある。無意識でそれを追いかけ、抱きしめ、背中を丸めて包み込み、夜の闇からそれを護っているうちに、朝になっていた。
陽の温もりと小鳥の鳴き声に呼ばれて、夜の底から浮き上がるように、意識が浮上してゆく。
夢と現の狭間は、波の上で揺れているような感覚に似ていた。両手を広げその心地よさを身に受けようとして、掌に広がる違和感に目を開く。障子から零れる陽の光が目に眩しく、違和感を覚えた手でそれを遮りながら、細めた目でそれを見上げた。
「……ん?」
目の前にかざした掌には、湿ったものに触れたような、濡れたあとがあった。起き上がる気力はまだなく、敷布団の上を掌を這わせるようにして探っていると、すぐ濡れた場所へ手が届いた。敷布団がびっしょり濡れていることがわかり、今度こそ銀時は起き上がる。まさかと思い、自分の下半身を見たが、寝間着を濡らした形跡はなく、銀時は安心した。ところが、安堵したのも束の間、昨日やってきたばかりの子どもがいないことに気がついて、銀時は慌てて部屋を見渡す。
「……神楽?」
「…………」
神楽は部屋の隅で膝を抱えて座りこんでいた。名を呼ぶと、驚いたように肩を震わせる。返事はなく、背中を向けているため表情も窺えないが、神楽が今何を考えているのかはわかるような気がした。
銀時は昨夜のことを振り返り、寝る前に神楽を厠へ連れて行かなかったことを思い出していた。幼い神楽に罪はないが、神楽は自分自身を責め立てているだろう。
「服……着替えたか?」
「…………」
何も言わず、ただ首を左右に振る神楽に、優しい声になるよう意識して問いかけた。濡れた寝間着を着たまま、怒られやしないかと怯えている神楽を見ていると、いじらしく思えてくる。
「怒ったりしねーから、こっち来いよ」
「…………」
畳に手をついて、そろりそろりと振り返った神楽は、今にも泣きそうな顔をしていた。手招きすると、両手をついて立ち上がり、小さな足音を立てて近づいてくる。目の前に座るよう促すと、ぎこちなさそうに膝を曲げ、神楽は布団の上に正座をした。下を向いたまま顔を上げようとしない神楽を覗きこんで、銀時は言った。
「お前はまだ小さいんだから、あんま気にすんじゃねーぞ。濡れたら洗って乾かせばいいんだからな」
「……銀ちゃん、ごめんなさい」
神楽は膝の上で小さな手をぎゅっと握りしめている。銀時は濡れていない方の手で、神楽の頭に、ポン、ポン、と二度触れたあと、大きく撫でまわした。
子どもの世話を任されるということは、教育を任されたことに等しい。だが、自分がそれを意識する前に、神楽は自発的に謝罪の言葉を言った。神楽は思っていた以上に大人びているのかもしれないと、銀時は思う。
「いい子だな、神楽は。……よし、じゃあ着替えて朝飯にするぞ」
「ウン!」
着替えを終え、布団を干し終えると、神楽は鏡の前で髪の毛をいじりはじめた。髪の毛を結おうとしているのはわかるが、櫛を持つ手はたどたどしい。
銀時は神楽の髪型を脳裏に浮かべた。左右に結われたお団子頭には、髪飾りがついていた。四歳の子どもが自分でできる髪型ではないだろう。想像はできないが、星海坊主が神楽の髪の毛を結ってあげていたのかもしれない。それならば、自分がしてあげるべきだろうと銀時は思った。
「……やってやろうか?」
神楽は目をぱちくりさせてすぐ、「ウン!」と嬉しそうに笑った。
櫛と髪飾りを受けとり、銀時は神楽の桃色の髪に触れた。
他人の髪を整えたことは一度もないが、髪を櫛で梳いて髪飾りでまとめあげる様を想像して、自分にもできるはずだと言い聞かせる。だが、想像していた以上に、女の子の髪を整えるのは難しかった。
「なんで右と左の高さが揃わねーんだコレ?!」
左右に髪を分け、上にまとめあげたのはいいが、正面から見ると、髪飾りで結われたお団子の高さが左右で異なっている。神楽の頭を見まわすと、高さだけではなく、位置も揃っていないことがわかった。銀時は項垂れて、「ワリー、やり直しだ」と神楽に謝った。
四歳の子どもにとって、動かずにじっとしているのは堪えるだろう。機嫌を悪くしてしまうかもしれないと思ったが、神楽は嬉しそうに、そして楽しそうに笑ったままだった。
銀時は不思議な心持ちで、神楽の髪飾りを外した。自分の髪の毛を整えるときのように、櫛に力を込めることはできない。繊細な子どもの肌や髪を傷つけないよう気をつけながら再び櫛で梳かす。ふと気になって神楽の顔を覗きこむと、神楽は気持ちよさそうに目を閉じていた。こんなに小さな子どもが、自分に気を許している。銀時は胸をくすぐられるような心地の中で、こっそり破顔した。
まだ改善の余地はあるが、三度目のやり直しのあとで、銀時は櫛を置いた。これ以上やり直していると、仕事に遅刻してしまうし、何より身動きひとつとれないでいる神楽がかわいそうだ。
「……もう動いていいぞ」
神楽に立つよう促すと、神楽はすぐに立ち上がろうとはしなかった。鏡に映る自身の姿を見つめ、左右に結い上げられた団子を見るために首を左右に振ったあと、満足そうに笑った。
「アリガト、銀ちゃん!」
飛び跳ねる勢いで立ち上がり、頬を染めて礼を言う神楽に銀時は笑みを返す。
自然と神楽の頭へ手が伸びた。自分が櫛を通したばかりの髪を撫でていると、何を言おうとしているのか自分で意識するより先に、口が開いてしまった。
「カワイイな、お前は」
無意識で口にした言葉に、神楽だけではなく自分も驚いた。誤魔化すために咳払いをする自分の隣で、神楽は下を向き、身体を左右に小さく揺らして、モジモジしている。朝飯を食べようと促すまで、神楽はずっと俯いたままだった。
朝食は、炊き立ての白いご飯に卵を乗せた「卵かけご飯」を向かい合って食べた。瞳を輝かせながらおかわりを繰り返す神楽を途中で止めることはまたしてもできず、おひつが空になるまでおかわりを許してしまった。
朝飯を食べ終えると、依頼された仕事に遅刻する間際の時間になっていた。お腹を膨らませて満足気な表情を浮かべている神楽を抱き上げて、一階へと駆け下りる。
「バーさん、神楽のこと頼んだぞ」
スナックのカウンターを掃除していたお登勢に神楽をあずけて、銀時は外へと飛び出した。
「まったく、朝から騒々しいねェ……」
お登勢の声を背後に聞きながら、原付バイクへ駆け寄ろうとして、銀時は立ち止まる。開いたままの扉の奥から「銀ちゃん!」と神楽の声がした。振り返ると、神楽がさみしそうな顔で自分を見つめている。
「仕事、行きたくねーな……」
零れた自身の独り言に、神楽を抱き上げて二階に駆け上がりたい衝動に駆られるが、こんなとき、子どもの前で理性を働かせるのが、大人の役割でもある。仕事の依頼を断れないことは銀時自身もよくわかっていた。
「夕方には帰ってくるから、いい子にしてろよ」
「ウン。早く帰って来てネ。銀ちゃん!」
神楽は約束がほしかったのだろう。さみしそうな顔が一転、笑顔を向けて手を振ってきた神楽に、銀時は手を振り返した。
仕事中も神楽のことが気になっていた銀時は、周辺に時計が見当たらなかったため、何度も空へと目を向けた。おおよその時間を教えてくれる空の色に、橙色が射し込むのを待ち望み、依頼された仕事を終えるとすぐ、銀時は原付バイクに乗り家路を急いだ。
家に着き、一階のスナックの扉を勢いよく開けると、「静かに入って来れないのかィ」とお登勢にたしなめられる。スナックを見渡すと神楽の姿はなく、銀時はお登勢に問いかけた。
「神楽は?」
お登勢は部屋の奥を指差し、「静かにしないと、起きちまうよ」と言った。大股歩きで音を立てないよう部屋の奥を目指すと、布団の上に神楽が寝転んでいた。布団の上で幾度も寝返りを打ったのだろう。髪の毛は乱れ、服にも皺が寄っていたが、それを気にすることもなく涎を零して気持ちよさそうに寝ている。お昼寝の時間を邪魔するのはかわいそうにも思えたが、夕飯の時間も近づいているので、銀時は神楽を起こすことにした。
「……神楽、帰って来たぞ」
「……ン」
自分の声から逃げるようにして、神楽は布団の上を転がってゆく。銀時は布団の上に膝をつき、神楽に近づいた。
「かーぐらー」
もう一度名を呼ぶと、神楽の身体がピクリと動く。すると今度はこちらに向かって転がってきた。自分の目の前まで転がってくると、神楽は寝起きであるのにも関わらず、元気な声を上げた。
「……銀ちゃん!!」
抱き上げてほしいのだろう。両手を伸ばしてくる神楽の小さな背中に腕を回して、そのまま抱き上げる。小さな背中を指の腹でトントンとあやしながら、銀時は神楽にきいた。
「いい子にしてたか?」
「ウン!」
首に巻きついている神楽の細い腕に力がこもる。銀時は神楽を下ろさず、そのまま部屋をあとにした。
カウンターで準備をしているお登勢に礼を言うと、神楽が自分の肩から身を乗り出して、お登勢に手を振っている。手を振り返すお登勢の顔は、これまで見たことのない穏やかな表情をしていた。神楽と一緒にいるときの自分も、きっとこんな顔をしているのだろうなと銀時は思った。
万事屋に帰り、夕飯と風呂を終え、銀時は今朝の出来事を思い出した。ソファの上で眠そうにしている神楽に声をかけると、まどろんだ目で自分を見上げてくる。
「神楽。寝る前に厠へ行くんだぞ」
「……ウン」
神楽はソファの上から飛び降りて、廊下へと歩みはじめたが、部屋を出る直前で立ち止まり、一歩後退した。
「……どした」
「…………」
返事はない。自分の感情を隠す術を覚えていない幼い子どもは、思っていることをそのまま顔に出す。ゆっくりと振り返った神楽は、泣きそうな顔をしていた。
「……もしかして、怖いのか?」
「…………」
神楽は再びこちらに背を向けて、声は出さずに、コクリ、と首を上下に振った。他の部屋と比べて、厠は薄暗い。子どもが怖がるのも無理はない。
「一緒に行ってやるから、そんな顔すんな」
ホッとした表情を浮かべる神楽に、銀時は笑った。
幾分空気の冷えている廊下をふたり並んで進み、厠の前に辿り着くと、神楽は再び泣きそうな顔になった。
「銀ちゃん! ここで待っててネ!」
「わかってるよ」
扉を開いて、神楽に中へ入るよう促しながら言う。ようやく扉の向こうへと入っていた神楽に安堵しながら待っていると、今度は切羽詰まったような神楽の声が聞こえてきた。音を立てず静かに待っていたので、いなくなったと思ったようだ。
「銀ちゃん! まだ行っちゃやーヨ!」
「銀ちゃんはここにいるぞー。……ちゃんと、いてやるから」
「……ウン」
返事する声は小さかったが、神楽は自分の言葉を信じてくれたようだった。神楽が手を洗って出てくるまで、自分の所在を確認する声がかけられることはなかった。
厠からの帰りに歯磨きも一緒にすませ、銀時は神楽を寝室に運んだ。大人が寝るにはまだ早い時間だが、布団を敷いていると、仕事の疲れも相まって眠気が訪れてくる。電気を消し、敷いた布団の上に横向きで寝転がると、力の抜けた自分の腕の中に神楽が転がり込んできた。
小さな身体を丸めて、隙間の中におさまろうとする神楽に、銀時は思わず笑ってしまう。神楽が窮屈な思いをしなくてすむように、銀時は腕を広げて、小さな身体を迎え入れた。
「おやすみ、神楽」
「おやすみ、銀ちゃん」
数分後。神楽が眠ったのを見届けて、銀時も目を閉じる。小さな温もりを抱く心地よさに、銀時も意識をすぐに手放した。
だが、朝を迎えるより早く、銀時は目を覚ますことになった。
腕の中にあったはずの温もりは消えている。耳を澄ませると、夜の静寂に混じって、神楽の啜り泣く声がした。身体の具合でも悪いのかと、銀時は慌てて飛び起きる。
「神楽?!」
「……ぎ……ちゃ……」
布団の隅で泣きじゃくっている神楽に近づく。
「どした?」嗚咽のせいで返事ができずにいる神楽に「どっか痛いのか?」と更に問いかけると、首を左右に振った。神楽の応えにひとまず安心するが、顔中を涙で濡らして泣く神楽の様子を見ていると、胸が詰まる。
銀時は神楽の身体を抱き寄せて、小さな背中を一定のリズムで優しく叩いた。しだいに落ち着きを取り戻していった神楽は、なぜ泣いているのかを話しはじめた。
「……夢を、見たアル」
「夢?」
神楽の小さな手の指が、自分の腕にしがみつくのが見える。神楽は下を向き、腕の中に顔を埋めて言った。
「大人になった私が、銀ちゃんとバイバイする夢」
「…………」
「大人になったら、銀ちゃんとバイバイしなきゃいけないアルか?」
返す言葉が見つからなかった。いつになるかはわからないが、星海坊主からあずかっているこの子どもは、いつか父親の元へと帰って行く。それは、変えられることのない未来であり、現実だ。
神楽の小さな背中を支える掌に力をこめる。神楽とはまだ出会ったばかりだというのに、いつか手離さなければならない日のことを考えて、銀時は目を伏せた。
ふと思い立ち、銀時は神楽の両脇を支えて立ち上がった。腕を伸ばして、天井に触れそうになるほど高く、神楽を持ち上げる。親が子どもをあやすときのように、「高い高い」をしてやると、神楽は驚いた顔をしたが、怖がることなく自分をまっすぐに見下ろしてきた。
神楽を自分に引き寄せて、再び高く持ち上げる。そうして、神楽が部屋を見渡せるように一周すると、神楽は楽しそうに笑った。
銀時は精一杯の笑みを湛えて、神楽に言った。
「どうだ? 部屋の中がいつもと違って見えるだろ?」
「ウン!」
「大人になったら、こんな風に、お前の見る世界も変わっていくんだよ。お前は、自分で自分のことを決めて、自分の行きたい場所に行けるようになるんだ」
「自分の行きたい場所……」
「決めるのは……神楽、お前自身だよ」
自分の言葉は神楽に伝わっただろうか。神楽を見上げると、神楽は大きく頷いてくれた。返事の声は上げず、神楽は溢れた涙を呑み込んだ。神楽が泣きやんでくれたことがわかり、銀時は胸を撫で下ろす。しかし、銀時が布団の上に神楽を下ろそうとしたところで、子どもの声音とは思えない神楽の声がきこえた。
夜の暗がりの中。窓の外から射し込む月の光が、神楽の顔を照らす。涙を浮かべて笑みを深めてゆく表情も、子どものそれとは思えなかった。
「銀ちゃん、大好きアル」
「…………え」
突然の言葉に、銀時は息を呑んだ。一瞬、幻聴ではないかと疑ったが、続く神楽の言葉に、自分の聞き間違えではないことがわかった。
「銀ちゃんは?」
神楽に問いかけられて、たじろぐ。四歳の子どもが相手とはいえ、答えを返すのには、照れと迷いがあった。
黙ったまま神楽を見上げていると、神楽の表情が不安に揺れはじめる。幼い子どもが親や身近にいる人間に向ける好意と同じで、深い意味はないだろうと自分に言い聞かせながら、銀時は口を開いた。
「お……俺も好きだぞ」
「大好きじゃないアルか?」
神楽の声から元気がなくなってゆくのがわかり、銀時は慌てた。恥じらいを捨てて大きな声で答える。
「だっ……大大大好きだぞ!」
「私と一緒ネ!」
「……そうだな、一緒だ!」
銀時は神楽を自分の腕の中に抱き寄せて、布団の上に下ろした。神楽は自分から離れようとはせず、細い腕を首に巻きつけてきた。そして、内緒話をするように耳元で囁いた。
「銀ちゃん、私が大人になったら……銀ちゃんのお嫁さんにしてほしいアル」
小さな声に、耳だけではなく、胸もくすぐられる。神楽はいいことを思いついたのだと嬉しそうに続けた。「そしたら、銀ちゃんとずっと一緒にいられるネ」
銀時は神楽の小さな背中を抱いて言った。考えるより先に、返事を口にしていた。
「……お前が、大人になるまで、覚えてたらな」
神楽が望むのならばと、本気で考えはじめた自分に、銀時は驚きを隠せなかった。
必ず訪れるだろう、神楽がこの家を出て行く日。自分は、今日の自分のことを思い出して、何を考え、何を想うのだろう。
「私、絶対、忘れないアルヨ!」
神楽の想いを受け取りながら、銀時はさみしさを覚えた。
自分には、子どもの頃の――神楽と同じ年頃の記憶はない。自分と同じように、また、誰もがそうであるように、神楽も大人になれば子どもの頃の記憶を忘れてしまうのだということはわかっている。
けれど、たとえ神楽が忘れてしまったとしても、自分は忘れられそうにないと、銀時は思った。
