五歳の誕生日を境にして、神楽は目を見張るほどに成長していった。背も伸び、夜兎の性質が現れはじめたのか、運動神経も抜群に良くなった。軽やかな身のこなしは、父親である星海坊主によく似ていた。
 神楽と一緒に暮らしはじめてから一年が経とうとしている頃。ここで暮らしていくには必要なことだろうと、銀時は神楽に文字の読み書きを教えることにした。神楽は嫌がる素振りひとつ見せずに、むしろ楽しんで言葉を覚え、文字の練習をした。ほんの数週間で、父親である星海坊主に手紙を書くまでになった。手紙の内容は見せてもらえないが、神楽は声に出しながら手紙を書いているので、ここでの暮らしのことを書いているのはわかっていた。
 星海坊主に手紙を送っても、住所不定のため戻ってきてしまう。数少ない星海坊主に会える機会に、銀時は神楽が書き溜めていた手紙をこっそりと渡していた。星海坊主はその顔に似つかわしくない表情を浮かべて、涙ぐんだ声で礼を言った。神楽からの手紙は、娘の成長日記のようだと、星海坊主はよく口にしていた。
 神楽は好奇心旺盛な子どもだった。
 定春の散歩は神楽と一緒に出かけることにしている。その帰り道に本屋に立ち寄ると、神楽は必ずといっていいほど、結婚情報誌が並んでいる棚へと駆けて行った。遠くから神楽の様子を窺うと、その雑誌の表紙を読み上げている。この雑誌を読むために文字を覚えようとしているのではないかと思えてしまうほどに、神楽の表情には熱がこもっていた。五歳の子どもが考えていることは正直よくわからない。だが、ウェディングドレスに身を包む大人の女は、神楽の目には、お姫様のような憧れの対象として映っているのかもしれない。
「オイ、神楽。けーるぞ」
 呼びかけても、神楽はその場から動こうとしない。近づくと、神楽は雑誌に目を向けたまま、自分に問いかけてきた。神楽が見ている雑誌の表紙には、幸せそうに微笑む新郎新婦が写し出されている。
「ねェねェ、銀ちゃん。どうやったら、結婚できるアルか?」
 銀時は一瞬考えて、夢のない答えだとは思ったが事実を述べた。
「役所に婚姻届出したらできちまうよ」
「こんいんとどけ?」
「二人の名前を書いて、結婚しますって書く紙だよ」
「なまえ……」
 神楽は何かを考えるように俯く。銀時は神楽の手を握って、引き寄せた。小さな手の温もりは、くすぐったくなるほどに心地よい。
「ホラ、帰るぞ」
「ウン」
 神楽はおとなしく従った。手を繋いで家に帰り着くまでずっと、神楽は一言も声を発しなかった。
 家に着くとすぐに、神楽は紙と鉛筆を持って駆け寄ってくる。
「銀ちゃん! 銀ちゃんの名前、ここに書いてほしいネ!」
「俺の名前?」
「ウン!!」
 真っ白な紙を一枚渡される。自分の名前を書いた紙など一体何に使うのだろう。疑問は浮かぶが、銀時は深く考えないようにした。“坂田銀時”といつになく丁寧に自分の名を記して、紙を返す。
「ホラ」
「アリガト! 銀ちゃん!!」
 紙を持って、神楽は自分から離れてゆく。自分から見えないところまで離れると、神楽は床にその紙を広げて、鉛筆で何かを書きはじめた。何を書いているのかは見えないが、いつにも増して真剣な表情で文字を書いている。そして、いつものように、声を出しながら文字を書いていなかった。
「何書いてるんだ?」
「秘密アル!」
 紙に何かを書き終えると、神楽は押し入れの襖を開き、押し入れの奥へとその紙を隠した。押し入れは、いつからか神楽の持ち物を仕舞う場所となっている。増えてきた衣類やオモチャもそこにすべて入っていた。押し入れの奥を探る音から、どの場所にその紙を隠したのかは見当がつく。しかし、銀時はそれを探ろうとは思わなかった。
「早く大人になれますように」
 そんな神楽の声が押し入れから聞こえてきて、銀時の胸は何かを予感するかのように高鳴った。


 神楽と一つ屋根の下で暮らしはじめてから、早いもので十年の歳月が流れた。四歳のときにこの家にやってきた神楽も、今は十四歳。そして自分も、三十路半ばを過ぎた。古い知り合いや飲み仲間に、「早く嫁さんでも貰ったらどうだ」と、会話の節々に言われることも日に日に増えてきている。つまり、そういう年代になってきているということなのだろう。だが、嫁を貰う自分の姿などまったく想像できない。それに、この家にもうひとり、他の女が住むことなど銀時には考えられなかった。
「銀ちゃん! また昨日酔っ払って帰ってきたアルな?!」
 神楽の声に、目を開けて顔を傾ける。眉を顰める神楽と目が合った。その奥では、朝陽を受けとめる障子窓が白く温かな光を湛えている。
「……あぁ、もう朝か」
 思考を中断するきっかけを得て、銀時は息をひとつ吐いた。
 昨夜はいつになく酒の酔いに惑わされてしまった。家に帰ってすぐにソファに横たわったけれど、この深い酔いが、自分の意識の底に眠っている思考をすくい上げてしまったようで、随分と長い時間、考えに耽ってしまっていた。
 答えの出ない思考に注ぐ、朝の喧騒に混じる神楽の足音が、日常の音が、耳に心地良かった。
「あっ! 銀ちゃんの着物、お酒でびしょ濡れネ! 一体どんな飲み方したアルか?!」
 脱衣所から神楽の声が聞こえる。何も言い返す言葉が出てこない。まるで尻に敷かれている旦那のようだと、銀時は苦笑する。昔、神楽の遊びに付き合ってやっていた「おままごと」では、旦那役の自分に文句ひとつ言わない従順な嫁だったというのに。
「俺ァ、一体どこで育て方を間違ったんだ? ……昔はあんなに可愛かったのに」
「何か言ったアルか?」
 部屋へ戻ってきた神楽が、低い声を含ませて言う。女は怒らせると恐い。そんな言葉が脳裏をよぎり、銀時は自分が神楽のことを女として例えたことに幾分驚いた。神楽の視線がますます強くなる。沈黙が続くと、神楽は不安そうに瞳を緩ませた。こんなところは、昔と何も変わっていない。銀時は神楽の様子に気づかないフリをして、やわらかな声で言った。
「なんでもねーよ」
 銀時は大きく伸びをしてソファから身体を起こす。台所へ行き、コップに水を注ぐと一気に飲み干した。乾いた喉は潤うが、昨夜の思考が頭の中を幾重も交差し、すっきりしない。
 ふと視線の隅に、自分と神楽の歯ブラシが見えた。昔は、神楽が歯磨きをしているときに口をゆすぐのを手伝ってやっていたことを思い出す。小さな身体の重みは、ぼんやりと記憶の底に残っているような気がした。
 あっという間に、自分で何でもできるしっかりした女になってしまったと、少女との思い出を振り返りながら銀時は微笑む。
 もちろん歯磨きだけではない。いつしか、一緒に風呂に入ることもなくなったし、晩御飯も神楽がひとりで食べることも増えてきた。洗濯物も二人分一緒に洗っていたけれど、いつからか脱衣所に神楽の下着が置かれることもなくなった。自分の見ていないところで洗っているのを何度か見かけたこともある。
 神楽のそれは、年頃の娘が父親や兄弟に対してする行動とは似て非なるものだった。異性に対する嫌悪感とも違うような気がする。自分は神楽の親でも兄でもないから、世間の言っていることとは当てはまらない部分も多い。だが、確実に変化は訪れていた。
 もう、そういう年頃になってしまったのか。と、保護者的な立場では寂しさをも覚える。だが、自分の頭の中に渦巻いている感情というのは、決してそれだけではない。これまでに味わったことのない感情の存在が、目の前に散らつく。
 銀時は頭を掻きむしり、その感情を外へ追い出そうとした。自分に言い訳をしようとすればするほど、頭の中が混乱するような気がして、銀時は乱暴に顔を洗った。



 銀時の混乱をよそに、時は確実に神楽を大人の女へと成長させていった。
 それは、冬晴れの日――ソファで居眠りをしていた神楽が、腹をおさえて厠に駆け込んだ日を境に、急速に速度を上げはじめた。水の流れる音がしたあと、しばらくして、神楽が顔を真っ青にして自分の元へと駆けてくる。
「銀ちゃん、お腹が痛いアル」
 余程痛むのか、神楽は下を向いたまま顔を上げようとしない。銀時は慌てて、神楽の側へと近づいた。
「病院行くか?」
「…………」
 すると、神楽は困ったような表情を浮かべて、首を左右に振った。
「病院行かねーと、なおらねーぞ? どした? どのへんが痛い?」
 腰を屈めて問いかけると、神楽は小さな声で一言呟いた。
「……血が」
 今にも消えそうな声だったが、銀時はそのとき、瞬時にすべてを理解した。理解するのと同時に、銀時は玄関を飛び出し、階下へと叫びながら駆けてゆく。
「ババァァァァァ!!」
「……なんだい、騒々しい」
 営業時間前のスナックお登勢に駆け込むと、箒を手にしたお登勢がこちらを睨む。
「か、神楽が!!」
 自分がいかに切羽詰まった声を出しているか自覚する。神楽の名前を出した途端、お登勢の表情も一変した。ただならぬことが起きたことはそれだけで察してくれたようだった。
「神楽がどうしたって?!」
「話はあとだ! 今すぐ来てくれ!!」
 銀時はお登勢を連れて、二階へと駆け上がる。神楽はソファの横にじっと佇んでいた。お登勢と自分の顔を交互に見て、どうすればいいのか不安そうに瞳を揺らした。
「あー……そういうことかい。……銀時、アンタは一旦この部屋から出ていっておくれ」
 お登勢は、腹に両手を乗せている神楽に、何が起きたのか悟ったようだった。
「おう」
 女のことは女に任せるのが一番だと、銀時は寝室へと移動した。落ち着かずに、寝転び、天井を見上げる。物音がしてすぐ、神楽はお登勢と一緒に一階へと降りて行った。
 しばらくすると、神楽だけが二階へと戻ってきた。聞けば、お登勢は買い物に出かけたという。一緒に行くと訴えたそうだが、腹痛のある神楽を思いやって、お登勢だけで出かけたようだった。
 寝室をあとにし、神楽と二人でソファに向かい合って座る。
「腹の痛みはおさまったか?」
「ウン。バーさんがあったかい飲み物を飲ませてくれたネ。そしたら、ちょっとおさまったアル」
「……そうか」
 神楽は腹に手をやって、俯いた。よくよく見れば、顔が赤い。まだ具合が悪いのではないかと思ったが、そうではないようだった。顔だけではなく耳たぶまで、かわいそうなほどに真っ赤にしている。
「バーさんに、色々聞いたアル」
「…………」
 どう返事をすればよいのかわからず、銀時は無言のまま神楽を見つめた。
「銀ちゃん。私ネ、赤ちゃん産める身体になったアルヨ」
 突然だったのにも関わらず、神楽の心の中には戸惑いといったものはないようだった。というよりも、嬉しさのほうが勝っているような表情を浮かべている。そして、期待のこもった目で、こう言うのだ。
「私、大人になれたアルか?」
 どう応えるべきか、銀時は迷った。そして銀時は、今の自分と神楽の関係を変えない言葉を選んだ。
「いや、お前はまだまだガキだよ」
「そっか。そーアルな」
 寂しそうな表情を滲ませて、神楽が言う。今まで見てきた少女とはまったく違う、大人の境界線を踏み越えてゆくような顔で、神楽が自分を見つめていた。
 胸の底でくすぶる感情がある。いつの日にかこの感情を抑えられなくなる――自分の胸に芽吹いた予感に、銀時は気づいて気づかないフリをした。






[初出:2015/7/5]