自分の身体が、自分のものではなくなってゆくようだった。
 今から数年前。早く大人になりたい、そう思っていた頃。緩やかな丘が自分の胸で存在を露わにしはじめたときは、身体の変化に対する戸惑いよりも、大人へ近づいたという喜びの方が勝っていたように思う。しかし、今、神楽の胸の内では、大人になってゆくことへの期待や高揚ではなく、恐怖と不安が綯い交ぜとなった感情が渦巻いていた。
 大人になりたいと望みながら、自身のやまない変化に、怖れにも似た感情を持つ。それは、切望していたものを目の前にして、自分は本当にこれがほしかったのだろうか、かわりに何かを失うのではないか、と踏みとどまることに似ているのかもしれない。


 遠い星から地球へ降り立ち、決して短くはない年月が経とうとしている。一日一日、地球での日々を重ねてゆくうちに、ひとつ屋根の下で寝食をともにする男に、神楽は慕情を抱いた。彼の特別になりたいと、神楽は願うようになった。
 彼は大人の男だった。彼は自分を子供として扱った。彼の叱りは躾であり、彼の優しさは慈愛であった。
 彼とは毎日顔を合わせ、行動をともにしていた。大人である彼に一番近い場所にいるという安心感。その裏では、彼の周りに自分以外の女の影がちらつく度に、神楽の心は焦りに揺れた。
 夏が、また一日終わろうとしている。陽は傾いたが、あまりにもの暑さに、下着のような薄手の布一枚を着て、部屋の扇風機に当たって過ごしていた。胸の頂が、布の上から透けて見える。昨年までは意識することのなかったものだ。神楽は、それを見て見ぬ振りをした。
 夜になると、夜風を含んだ扇風機の風が、汗をかいた肌に触れ、熱を奪い、身体を冷やしてゆく。
「……クシュッ」
 くしゃみを一回。鼻を啜れば、頭上から赤い布が降ってきた。
「カゼひくぞ」
 見れば、自分がいつも着ているチャイナ服の上着だった。服を着ろ、ということらしい。礼を告げるために顔を上げると、彼は自分に背を向けていた。意図してこちらを見ないようにしているとわかる彼の態度に、神楽は違和感を覚えた。
 この日をきっかけに、彼の自分に対する態度が変わったことを、神楽は日に日に実感してゆくことになった。そして一ヶ月経た頃には、そこに一種の規則性のようなものがあることにも気づきはじめた。
 新八が一緒にいるときは、彼は何ひとつ変わったところを見せなかった。自分達はいつものように隣り合って座っていたし、しかめた顔を互いに近づけて、ささいな喧嘩をすることさえあった。しかし、新八が道場に帰り、夜に銀時とふたりきりになると、銀時が身に纏う雰囲気に変化が表れるようになった。
 ソファに隣り合って座るときは、昼間にはなかった距離が自分達の間にできる。そこで目が合えば、時間が凝固するような緊張感が走る。そのこわばりを解くのは銀時で、やわらかな微笑とともに、見つめられる。会話はない。神楽はどうすればよいのかわからなくなり、落とし物を探すような素振りで下へ下へと視線を漂わせ、相手と重ならぬ自分の視界を探すのだ。
 神楽は、銀時が変わってゆくことが恐かった。昔を懐かしみ、あの頃に戻りたいとさえ思った。どうすれば戻れるのだろうか、と、そのことばかりを考えているうちに、よく知っているはずの道で迷子になり、帰り道がわからなくなってしまったような、心許ない気持ちになった。
 夏の出口から通じていた秋の入り口を前にして、神楽は、新八の姉である妙に相談することにした。藁にもすがる思いで、同性であり大人である妙の助言を乞いたいと思ったのだ。
 恒道館の前で立ち止まり、深呼吸をする。中に入ろうか迷っていると、道場の中から妙が姿を見せた。
「アラ。どうしたの? 神楽ちゃん」
 どんな表情をすればいいのか考える時間もなく、どうやって話を切り出せばいいのかもわからない。一瞬、相談することへの迷いが生じたが、神楽は拳を握って、妙をまっすぐに見つめた。
「……アネゴに相談したい事があるアル」
 思い切って告げると、妙は優しい笑顔で神楽を迎え入れてくれた。居間に通されて、ふたりで菓子をつまみ、茶を啜った。最初は、旦那の愚痴を零す妻のように、世間話をした。そして、言葉では言い表しにくい、複雑で入り組んだ相談事を、持ち込んだ。
 妙は話を聞くと、驚いたような顔をして、瞼を上下に動かし瞬きをした。「そうね……」と一呼吸置き、しだいに穏やかな表情になってゆく妙の表情を、神楽は静かに眺めた。やがて「私から言っても大丈夫かしら……」と思案する声がし、静寂の間を挟むと、妙は教え諭すように言った。
「――それは、神楽ちゃんが大人になったからじゃないかしら」
「――え……」
 なぜ、銀時は変わってしまったのだろう。その疑問に対する妙の答えに、神楽は言葉を失ってしまった。
 早く大人になりたい。ずっとそう思っていた。妙が言っている通りなのだとしたら、自分の願いは成就したことになる。しかし、神楽は素直に喜ぶことができなかった。
 それと引き換えに失ったものは、あまりにも大きすぎた。
 妙はこうも言った。
「年頃の女の子と男の人が一緒に住んでいるんですもの。自然なことよ」
「――自然なこと?」
 妙は頷き、「――銀さんは、最初から、こうなることがわかっていたはずよ」と続ける。最初とは、自分が銀時と一緒に暮らしはじめたときのことを指しているのだろうか。いつかこうなることを、銀時は、はじめから知っていたということなのだろうか。
 ならば、なぜ、彼は自分と一緒に暮らすことを受け入れてくれたのだろう――。
 外で、扉を叩く音がする。妙が玄関へ向かうのを見送ったあと、扉が開く音が聞こえた。
「アラ、銀さん。――神楽ちゃん、お迎えよ」
 妙に呼ばれて、神楽も玄関へと向かった。「――ちょうど近くに用があったんだよ。ついでだ、ついで」と彼が理由を告げる声が聞こえる。
「アネゴ、話、きいてくれてアリガト」
 礼を言うと、妙は笑みを返してくれた。大人の女性の微笑だった。
 銀時とうまく目を合わせることができず、神楽は靴を履くことでそれを誤魔化した。焦って踵が崩れたまま立ち上がると、前のめりに倒れそうになる。目の前に立っていた銀時に腕を支えられて、神楽は男の腕の力強さを意識した。
「――銀さん。神楽ちゃんに変なことをしたら、ただじゃおきませんからね」
「――まだ、しねーよ」
 妙に返事をする銀時の声が、頭上を撫でてゆく。変なこととは何だろうか。考えている途中で、支えられていた腕を強く引かれてしまう。「ホラ、行くぞ。神楽」
「ウ、ウン。――アネゴ、またネ!」
 手を振る妙に見送られて、神楽は銀時と道場を出た。門の外に出ると、銀時の手が離れてゆく。何を話せばいいのかわからず、神楽は口を閉ざしたまま歩いた。
 人通りも決して多くはない時間帯のためか、道行く人の声も、喧騒に邪魔されずによくきこえる。銀時と自分の足音に意識を向けそうになったところで、前からやってくる、自分より幾分年上だろう女の子達の会話が耳に入ってきた。
「最近、この辺、夜になると物騒らしいね」
「そうみたいだね。昨日も――」
 その先の言葉は、すれ違って距離が開き、きこえなくなった。
 もしかして、銀時は、自分を心配して迎えに来てくれたのだろうか。
 彼の優しさを感じて、神楽はこっそり笑みを零した。そして、急に不安になる。大事にされていることに変わりはない。だが、何かが変わってしまった、という恐怖は拭えない。
 神楽は、隣に並んで歩く銀時を見上げた。彼は、自分の視線を感じてはいるようだが、それに応えようとはしない。神楽は前を向き、自分の影を追いかけるようにして歩いた。
 陽が落ちる頃、万事屋に着いた。今日の料理当番が自分であることを思い出し、神楽は台所に立ってご飯を炊いた。食事中は、テレビの音声だけが聞こえてきた。会話のない空間が落ち着かず、神楽はご飯を食べることだけに集中しようとした。頬が膨れるほどに白飯を頬張って食べていると、銀時が笑いながら言う。
「誰もとって食ったりしねーから、落ち着いて食えよ」
 銀時の優しい笑みに、神楽は自分の頬が赤くなってゆくのを自覚して、取り繕う余裕もなく、喉にご飯を詰まらせてしまった。
「ゴホッ! ゴホッ!」
「オイオイ、大丈夫か?」
 向かい合わせに座っていた銀時が、ソファから腰を上げるのが見える。呼吸するのも息苦しく、涙で視界が滲んだ。目を閉じてしまったため、それから先は見えなくなったが、すぐ側に、銀時の気配を感じる。
 背中をさする手。視界の隅に映る銀時の着物の色。背中を上下にさすられて、差し出された水を、神楽は一気に飲み干した。
「――ハァ……ハァ……死ぬかと思ったアル――アリガト、銀ちゃん」
 背中を撫でる手が動きをとめた。しかし、その手が、自分の背中から離れる気配はない。顔を上げ、自分の隣に腰を下ろしている銀時を見上げると、優しい笑みとともに、見つめ返された。銀時は何も言わない。
 こうして、今日も、銀時は変わってしまう。
「いつもの銀ちゃんに戻ってヨ」
 縋るように、神楽は銀時の着物を握っていた。
「――神楽」
 背中から離れた彼の手が、今度は自分の頭の上に乗った。
「こんなの……銀ちゃんが、銀ちゃんじゃなくなっていくみたいで、イヤアル」
 一度零れだした本音はとまらなかった。
 妙の言った通り、自分が大人になったことで銀時が変わってしまったのだとしたら、大人になんかなりたくなかった。大人になることを望んでいたけれど、大切にしてきた彼との日常をかわりに失うのは、嫌だった。
 自分だけにきこえる声で「大人になんかなりたくないネ」と口にする。
 銀時は笑みを崩さずに、頭を撫で続けている。そして、彼は口を開いた。
 子どもに言い聞かせるような声であるにも関わらず、銀時の言葉は、神楽が子どもであることを否定した。
「お前がガキに戻れねーように、俺も、もう、戻れねーんだよ。――お前は女で、俺は男だからな」



『Title:大人になんかなりたくないな、と思ったら、もう大人だ』



FIN



[初出:2013/1/6、Twitter呟:2012/7/22]