『Title:星は、遠く』


 日常が、壊れる日。
 雨に洗い流された世界は、どこまでも澄みきっていた。雨上がりの夏空から注ぐ陽は、容赦なく地を照らし、受けとめきれなかった残滴を、天に返そうとしている。
「良い天気アル!」
 窓の外に広がる夏の空を見上げて、大きく伸びをする。「ホント、良い天気だね」と新八の声が背後から聞こえ、神楽は後ろを振り返り、笑みを零した。
 桂が万事屋に姿を見せたのは、街にまだ雨の名残が残っている、朝陽の眩しい時間だった。
 地面の窪みに溜まっていた水を撥ねたのだろう。桂の着ている着物の裾は泥で汚れていて、ここまで走ってきたことがわかる。水溜りを避ける余裕もないくらい急いでいたのだと理解して、神楽は胸騒ぎを覚えた。
「新八君、リーダー。……朝からすまない」
 桂は心からすまなそうに言い、自分達に向けるのとはまた別の顔で、「銀時」と自分達の背後に声をかけた。後ろを振り返れば、ソファで寝転んでいたはずの銀時が、いつの間にか自分達の背後に立っている。
 何かを悟ったような表情の銀時に、桂は何も言わずに頷いた。
「新八、神楽。ちょっと出てくる」
 銀時は木刀を持ち、玄関へ向かうと、ブーツを履きはじめた。出かけるときの彼の一連の所作。普段と変わらない、見慣れたはずのそれに、隠しきれていない緊張が入り混じっているのが見える。
 胸騒ぎが、神楽の胸を激しく叩きはじめ、鼓動を速めてゆく。神楽は銀時を呼びとめた。
「銀ちゃん!」
「銀さん!」
 新八と声が重なる。
 自分達の声は、彼に届かなかった。自分達も一緒に行く、と意思表示することさえも、銀時は許してくれなかった。振り返らないその背中が、自分達が踏み入ることを拒んでいる。
 桂を見れば、自分達の視線を受け取る前に、玄関の外へと身を運んでいた。
 迷いのないふたりの背中が、外の陽を浴びて、形を歪めてゆく。
 二人の背中を追いかけることができず、その場に新八と立ち尽くした。定春の鳴き声に背中を押されて、一歩分、足を前へと踏み出したけれど、同じタイミングで玄関の扉を閉められてしまい、そこから前に進むことができない。
 ――銀時が、自分達の知らない場所へと行ってしまう。
 外側から閉められた玄関の扉を見ていられずに、神楽は俯いた。ポン、と肩に新八の手が乗る。顔を上げると、「銀さん達なら、大丈夫だよ。きっとすぐに帰ってくるよ」と微笑みかけてくれた。心配なのは、新八も同じに違いない。ふたりが出かけて行った理由も、場所も、全く知らされていないのだ。しかし、お互いに大丈夫と信じることで、自分達は銀時達の帰りを信じて待つことができる。
「そーネ。二人ならきっと大丈夫アル」
 波紋を浮かべた目を閉じ合わせ、神楽は鮮明に映る現実を見つめた。
 ところが、夜になっても、銀時は帰って来なかった。
 月の色が浮き彫りになってゆく頃、道場へと帰る新八を神楽は見送った。心配そうな顔をして帰るのを躊躇っている新八に、ひとりでもちゃんと留守番できると胸を張り、神楽は背中を押した。
 風呂に入り、布団に入る時間になっても、銀時は帰って来なかった。
 押し入れの中で、ただ暗いだけの空間を見つめる。なかなか眠れず、浅い眠りを何度も繰り返して、朝になるのを待つしかなかった。何度目の目覚めか数えるのも億劫になってしまい、夜に鳴く虫の声を目を閉じたまま聞いていると、押し入れの襖が不自然な音を立てるのが聞こえて、神楽は反射的に身体を起こした。近くに人の気配を感じて、横を見れば、目の前に銀時の顔がある。
「ワリー、起こしちまったな」
「こんな遅くまでどこに行ってたアルか! この不良息子!」
 自分達に何も言わずに出ていった銀時への咎めを、自分達の距離に見合う言葉で告げる。
 素直に心配していたと口にすれば良かったのだろうが、どうしても彼の前では正直になれない。
 銀時が笑った気配に、神楽は安堵の息を吐いた。いつもの彼が戻ってきた、と思った。
 しかし、彼の口から告げられる言葉は、ひどく残酷なものだった。
「――神楽。……俺はヅラと一緒に、この街を出ることにした」
 心臓が激しく音を立てて、息苦しい。銀時を失うかもしれないという恐怖が、焦燥を駆り立てる。
 日常が、この手から離れてゆく。早くつかまえなければ、と心が急く。つかまえられない距離まで離れてしまえば、それは、重力に逆らうことなく落ちて、粉々に壊れてしまうに違いない。
「――いつ……いつ帰って来るアルか?」
 銀時の返事はなく、神楽は矢継ぎ早に問いを重ねた。
「――ちゃんと帰って来るんだヨネ?」
 銀時は応えない。衣擦れの音がして、彼の気配を探っていると、大きな空気の揺れを感じた。神楽は身構えたが、自分の身体を腕ごと包まれて、身動きが取れなくなる。
「……お前がこの家に来てからの生活、楽しかったよ」
 彼にとっては、もう、過去の出来事となってしまったのだろうか。別れの言葉を予感して、神楽は耳を塞ぎたい衝動に駆られるが、力の込められない両手は、微動だにしない。
「ぎ……」
「俺ァ、お前に"銀ちゃん"って呼ばれるの、結構好きだったんだ」銀時は懐かしむように言う。「お前が、銀ちゃんってはじめて呼んでくれた時なんか、嬉しくって一人で飲みに行ったりしてよォ……」
 背中に回された手に強く抱き寄せられる。目の前には銀時の胸があり、彼の腕に抱かれていることを知った。
 声が出せなくなり、銀時の肩に顔を擦りつけながら、神楽は無言で彼に訴えかけた。
「……」
 息苦しさに胸が詰まり、涙で視界が歪んだ。
 滲んだ夜の暗闇の中。小さな光が彼の肩越しに見えて、神楽は瞬きを繰り返し、それを見た。小さな小さな星の光。夜空に住む星たちが、どんなに遠い場所にいるかを、神楽は知っている。
 今、手の届くうちにつかまえなければ、と身を捩ろうとしたけれど、銀時の腕を振りほどくことが、神楽にはどうしてもできなかった。
「――俺がいなくなっても、お前はひとりじゃねーからな」
 新八や定春、そしてババア達もいるんだから、と彼は続ける。
 再び、目に涙が滲んだ。
「今まで、あんがとよ」
「…………」
「じゃあな」
 金縛りにあったように、身体が動かなくなる。
 銀時の腕が離れても、銀時を外へ連れ出す玄関の扉の音が聞こえても、神楽は追いかけることができなかった。
 銀時の言葉が、何度も頭の中で再生される。自分の心に刻みつけるように繰り返し思い出しては、神楽は静かに涙を流し続けた。
 浅い眠りを、何度も繰り返した。朝に、昼に、夕方に、夜に。目を覚ます度に、時間の経過を思わせる空の色が部屋の中へと零れ落ちてゆくのを、拾うことなく、ただ見つめていた。
「――神楽ちゃん」
「……」
 夏の暑さを避ける気も起きず、布団の中に潜り込んだまま、神楽は新八の声を聞いていた。壊れた日常を目の当たりにした朝。迫りくる涙を我慢して、銀時がこの街を出て行ったことを知らせてからずっと、新八とも会話を交わしていなかった。
 銀時がこの家を出てからの二日間、ずっとこうしている。
「銀ちゃん」と呼んでも彼の返事はない。そんな日がこれからも続くかと思うと、堪えられそうになかった。
「……神楽ちゃん、起きてるんだよね?」
「……」
 返事をするかわりに、布団の中で身じろぐ。
「僕、銀さんを追いかけようと思う」
 新八の力強い声が聞こえて、神楽は閉じていた目を開いた。
「……でも」
 布団の中で聞こえる自分の声は、ひどく弱々しかった。じゃあな、と告げた銀時の言葉を思い出して、神楽は再び目を閉じる。あの言葉は、自分だけではない。自分達に告げられた言葉なのだと理解していた。
「二度と、銀さんに会えなくなってもいいの?」
「イヤアル!」
 反射的に掛布団を持ち上げて起き上がった。神楽は押し入れの襖を開く。泣いてばかりいた目に、陽の眩しさは痛いと感じた。
 押し入れの前にいた新八は、微笑んで言った。
「――銀さんがさよならを言ったのは、神楽ちゃんだけなんだ。君は、銀さんにとって、大切な女の子なんだよ」
「…………」
「銀さんは、君を巻き込みたくなかったんだ。だから、僕が銀さんを連れ戻しに行く。僕が必ず、銀さんを連れて帰ってくるから、神楽ちゃんはここで待っ――」
 床に足を下ろす音を重ねる。神楽は首を振って、押し入れの外へと出た。
 銀時の前で正直になれない自分は、自分の気持ちを胸にしまい、隠し、彼の拒みを恐れた。その恐怖に屈し、彼を追いかけることのできない自分の弱さは、この場所へ留まることを選ばせた。そして、仲間である新八に、ひとりで行くと言わせてしまった。
 神楽は震える拳を握りしめた。
「……私も行くアル」
「……え?」
「私も、銀ちゃんを追いかけるアル」
「――神楽ちゃん」
 彼が言ったように、自分達は決して、ひとりではないのだ。
「銀ちゃんが私達を護ってくれたように、私達も銀ちゃんを護る! 私達は、離れても、三人と一匹で万事屋ネ。……そうでしょ」
 新八は驚いた顔をみせて、そうしてすぐに笑顔になった。
「そうだね、神楽ちゃん」
 新八につられるようにして、神楽も笑う。
 遠くても、いつか追いつけるかもしれない。この場所に留まっているよりも、少しでも彼との距離が縮まればいい。
 まだ見えぬ夜空の星を思い出しながら、暗闇に落ちる前に、まずは一歩、彼の背中を追いかけた。



FIN





[初出:2012/12/24、Twitter呟:2010/10/20]