※3Z設定※
二学期は、夏の終わりが一片も見えない、暑い日にはじまった。
始業式は、エアコンなどまず設置されることのない体育館で、慣例となっている防災訓練は、晴れ渡る空の下――校庭で行われた。湿気を伴う息苦しい暑さと、太陽に焼かれているような痛みを伴う暑さを立て続けに浴びた生徒たちは、チャイムが鳴ると、疲れきった顔で教室へと戻っていった。
シャツの後ろが汗で濡れ、背中が透けて見える生徒が数多くいる。銀八も例外ではない。こめかみからは、絶え間なく汗が滴り落ちてきていた。生徒の前では着ていた白衣を脱ぎ捨て、職員室の自席の椅子にかける。人のいない職員室は、節約のためにとエアコンは止まっていた。白衣を脱いだだけでは汗はやまず、シャツの袖を捲り上げ、ネクタイも外す。
四時限目のホームルームまで、まだ少し時間があった。銀八は椅子に座り、机の引き出しからジャンプを取り出した。暑苦しいが、静かで、窓の外からささやかな風が与えられるこの場所の居心地は、悪くない。
暑い日に熱い展開を見るのも、悪くはない。たまたま開いたページの連載物に目を奪われ、コマを追いかけていると、突然、職員室のドアが大きな音を立てて開いた。
「銀ちゃーん!」
声の主は、姿を見なくてもすぐにわかる。ジャンプから顔を上げずに、銀八は応えた。
「学校では"先生"って呼びなさい」
「じゃあ、先生」
「なんだよ」
「遊びにきたアル」
銀八は彼女の言葉に微苦笑する。こんな日に遊ぶ元気があるのは、彼女ぐらいではないのか。
銀八は神楽を見ずに言った。
「職員室は遊ぶところじゃありません」
神楽が近づいてくる気配に、銀八はこっそり笑みを浮かべる。彼女をこちらに引き寄せるために、銀八はわざと神楽と目を合わさないようにしていた。
彼女と、生徒と教師という関係を越えたあとに知ったことだが、目が合っている間、彼女はその場から一歩も動かないのだ。見つめ合うという状況に不慣れなためだろうが、彼女の様子は、"だるまさんがころんだ"という遊びの中で、鬼に見られているときの子供の行動によく似ている。
「――ジャンプを読むのはいいアルか?」
「いいんだよ。友情、努力、勝利、この三つを学ぶためには必要な――オイ、何してる」
距離はすぐに縮まり、椅子にかけていた白衣を、神楽に奪われてしまった。一体何をするつもりなのかと彼女の行動を見守っていると、神楽は袖を通さずに、その白い布を頭からかぶって、こう言った。
「怖い怖いおばけアルヨ~」
「全然怖くねーよ」
銀八は脱力した。彼女の無邪気さが怖ろしいと思う。
「お前、歳を考えろ」と言ってやると、「暑い日には、怖いモノを見ると涼しくなるって聞いたネ! ……涼しくならないアルか?」と、"自称おばけ"が、首を傾げる。笑いたくなるのを堪えて、「だから怖くねーって」と言い返すと、神楽は「やっぱり夜じゃないとダメアルか」と、聞き捨てならない台詞を言った。
誰もいない夜の職員室で同じことをされて、怖くないと言える自信は……残念ながら、ない。彼女にそれを悟られる前に、指導という名目を借りて、事前に阻止しなければと銀八は焦る。
ところが、銀八が口を開こうとしたところで、神楽の頭上に大きなビックリマークが飛び、銀八は身構えた。
「コレ、アレに似てるアル」
「アレ?」
銀八は姿勢を正し、神楽の声に耳を傾けた。
「結婚式で、お嫁さんが頭に乗っけてる帽子みたいな……」
今、目の前にいる彼女の格好は、幼稚園生がお遊戯をしているようにしか見えないが、銀八は真面目に答えを返す。
「ベールな、ベール」
「そう! それアル!」
今度はベールを真似て、神楽は白衣を頭の上からかぶりなおした。
「……オイ、俺の白衣で遊ぶんじゃ――」
「お嫁さんになったみたいアル~」
神楽は、その場でくるくると回りはじめる。
――窓の外から注がれる陽の光が、タイミングを見計らったように強まった。白衣の白を弾くその眩さに、銀時は目を細める。そして、この暑い夏の日は、まるで時間の理を歪めたような幻影を、銀八に見せた。
目の前に広がるのは、純白の世界。ウェディングドレスを着て、笑顔で振り返る神楽の姿。風に揺れるベールが、銀八の心を大きく揺さぶる。
「…………」
身動きひとつせず、銀八は神楽を見つめていた。銀八の視線に気づいたのだろう神楽が、銀八の目の前で立ち止まる。神楽の目が、怯えたように震えた。
何も言わない自分に、怒らせてしまったのかもしれない、と彼女なりに不安になったのだろう。
「――私、そろそろ教室に戻るネ。お邪魔しましたアル~」
元あった場所に返すつもりなのだろう。神楽の手が白衣にそえられるのを見て、銀八は思わず「待て」と口走っていた。
「……え?」
「…………」
銀八は、静かに手を下ろした神楽の目の前に立つ。
「先生?」
銀八は、白衣をすくいあげるようにして持ち上げた。結婚式で、花婿と花嫁が、誓いの口付けを交わし合うときのように。
「今は"銀ちゃん"って呼びなさい」
「――銀ちゃん?」
見上げてくる神楽に、ひとつ笑みを落とす。温かい赤色に染まってゆく頬を視線だけで愛撫し、腰を屈めて、銀八は神楽に近づく。
神楽がゆっくり目を閉じてゆくのを見て、銀八も目を閉じた。
誰もいない部屋の中。誰に誓うでもなく、口付けを交わす。
唇を啄み、舌を絡ませ、唾液を交換し合うような深いキスではない。はじめて神楽にキスをしたときのような、触れ合うだけの口付けだ。
唇を重ねてからほんの数秒で、銀八は神楽から離れた。目を開き、瞬きをする神楽の腕を摑まえて、銀八は言った。
「……予行練習だ。本番は――卒業式が終わるまで待ってろ」
「……」
首を上下に振って、神楽は頷く。銀八が神楽から白衣を受け取ると、しだいに校内の騒がしさが耳に届くようになり、銀八は時計を見た。ちょうど時計の長針が動き、チャイムが鳴った。
「予鈴、鳴ったぞ」
「ウン!」
時間切れであることが互いにわかった。銀八が彼女の教師に戻ろうとすると、神楽も銀八の生徒に戻ろうとする。
神楽が職員室から出て行くのを見送って、白衣を椅子にかけなおし、箱から取り出した煙草を口に咥えた。ライターの火が揺れないよう、窓からの風を片手で遮り、ライターに煙草を近づける。その途中で、神楽に名を呼ばれた。部屋に入ってくる前と同じように、開かれたドアの前で、神楽は声を上げる。
「銀ちゃーん!」
「なんだよ」
「病める時も、健やかなる時も……えっと、えっと……」結婚式でよく使われる、誓いの言葉を思い出そうとしているのだろう。彼女がどんな意図でその言葉を口にしようとしているのかが手に取るようにわかって、銀八は神楽の言葉を静かに待った。
「――どんな時でも、私は銀ちゃんの事が大好きアル!」
煙草が手から零れ落ちる。告げられたのは、型にはめ込まれていない、彼女らしい誓いの言葉だった。
腰を屈めて、銀八は煙草を拾い上げた。神楽が走り去ってゆく音を聞きながら、火を灯していない煙草を箱に戻す。
神楽の香りが残る白衣に、銀八はそっと視線を落とした。
「――卒業まで、あと半年か」
ホームルーム開始のチャイムが鳴るまでに「先生」に戻らなければならなかったが、今日ばかりは、戻れる自信がなかった。
『Title:花嫁は生徒』
FIN
[初出:2012/12/9、Twitter呟:2010/8/29]
