目を覚ますと、見慣れた押し入れの天井ではなく、和室の天井が見えた。
瞼の重みに逆らえず、再び目を閉じる。自分の体温で温まった布団の中で寝返りを打てば、額に乗っていたらしい濡れタオルが敷布団の上へと滑り落ちた。
重い瞼を再び持ち上げる。タオルに含まされていた冷水が、シーツに染みを広げてゆくのが見える。早く拾い上げなければと手を伸ばすと、横から伸びてきた大きな手に先に拾い上げられてしまった。
その手を追いかけるようにして視線を上げる。よく知る男の顔が目の前にあった。
「……大丈夫か?」
「ぎ、銀ちゃん? 私、なんでここに……」
一瞬視界に影が落とされたあと、額に水気を含んだタオルの感触が広がった。冷たいと感じたそれが、瞬く間に自分の体温と中和されてゆく。そこではじめて、神楽は自分が発熱していることに気がついた。
「お前、覚えてねーのか?」
銀時に問いかけられて、神楽は自分の記憶を辿る。
神楽の脳裏に浮かぶのは、ひとり旅から万事屋に帰って来たときの記憶だ。
銀時と言い合いになり、もう一泊するために外へ出ようとした自分が、銀時の腕に引き留められたところまではよく覚えている。しかし、そこから先の記憶はない。
「……よく、覚えてないネ」
「そうか」
何の感情も読み取れない相槌を打って、銀時は続けた。「それにしても、お前。こんなに熱出しておきながら、もう一泊するなんてよく言えたな」
その声には、自分への咎めが含まれているようにも聞こえた。
「…………」
「まァ……ひとり旅の続きは、また今度にしろ」
今度は止めないから、どうしても旅がしたければ好きにしろ、という意味を込めて言ったのだろう。しかし、男の口調はそれと矛盾しているように思えた。行くな、と言われているような気がしたのだ。
「もうひとり旅はいいネ」
「あん?」
「銀ちゃんのことが気になって、夜眠れなくなるから」
熱で頭が朦朧としているせいでもあるのだろう。神楽は本心を口にしてしまった。一度心の声を口にしてしまうと、もう意地を張る必要もなくなってしまったように思えた。
銀時を想い、眠れなかった夜のことを、神楽は男に話した。顔を傾けて銀時の顔を見る。優しい男の表情に、神楽は息を呑んだ。
額から再び滑り落ちようとする濡れタオルに男の手が伸びた。額を銀時の掌で覆われる心地よさに目を閉じると、銀時の掌が今度は自分の頭に触れた。
ポン、ポン、と、子どもをあやすように撫でられる。昔、銀時に頭を撫でられた頃の記憶が、神楽の脳裏によみがえった。
「昔に戻ったみたいネ」
子どもの頃を懐かしみながら、神楽は言った。昔はよく、銀時に頭を撫でられていたのだ。
時が経つにつれて、銀時に触れられることはなくなっていった。自分から距離を置こうとする男の本心を知るのが怖くなり、自ら触れることもできなくなった。
そして、いつしか子どもの頃の自分を羨むようにもなっていた。
「銀ちゃんは、子どもの頃の私と今の私、どっちが好きアルか?」
ひとり旅から帰ったとき、銀時の机の上に置かれていた写真のことを思い出しながら、神楽は問うた。
「何言ってんだよ。昔も今も、お前はお前だろうが」
「じゃあ……なんで昔の私の写真なんか……」
思わず零れた胸の内の声に、銀時が目を見開いたのがわかった。静かな優しい声で、銀時は応えてくれた。自分を安心させようとするかのような、落ち着いた声音だった。
「……アレは、俺がずっと持ってた写真なんだよ」
神楽は銀時を見上げた。銀時が自分の写真を眺めている光景を想像して、神楽は泣きたくなった。
眠れなかったひとり旅の夜、自分が銀時を想っていたように。自分がここにいない間、銀時も自分のことを考えていてくれたのだろうか。ほんの少しでも、さびしいと思ってくれていたのだろうか。
淡い期待に、神楽は縋りついた。
「私がいなくて、さびしかったアルか?」
「バッ……バカ言ってねーで、病人は早く寝ろ!」
銀時が自分から視線を逸らす。神楽は微笑んだ。細めた目の端から、滴が零れ落ちた。銀時に気づかれる前に、布団の中へ顔を埋めた。
「ウン。……おやすみ、銀ちゃん」
自分の体調が良くなるまで、銀時は付きっきりで看病をしてくれた。しかし、体調が回復してしばらくすると、またこれまでと同じように、夜には酒を飲みに出歩くようになった。
千鳥足で万事屋に帰って来る銀時を介抱するのは、変わらず神楽の役目だった。
そうして、いつしか季節は秋を越え、冬を迎え入れていた。
雪の降る寒い夜にも、銀時は酒を飲みに出かけて行った。日付が変わり、夜が深みを帯びてくる頃に、銀時は帰って来た。
神楽は寒さに身を縮こまらせながら、玄関へと向かう。玄関に倒れ込む男の身体に近づくと、酒の匂いが鼻を突いた。玄関の床はひどく冷たい。この冷たさを感じられないほどに、ひどく酔っ払っているようだった。
「銀ちゃん! こんなところで寝てたらカゼひくアルヨ!」
身体を大きく揺り動かしてみても、銀時はその場から動こうとしない。酔いのせいで、動くのが面倒なのだろう。
毛布を取りに一度部屋へ戻ろうか。そう考えてすぐ、毛布一枚、いや、布団一式あったとしても、この玄関の寒さは凌げるものではないことに気づく。この酔っ払いをどうしようかと考えている傍らで、銀時がクシャミをするのが聞こえた。
「銀ちゃん! ホントにカゼひいちゃうアルヨ!!」
「……おう」
少しは酔いが醒めたのか。銀時の口から返事があった。辺りに充満している酒の匂いが、更に濃くなる。酒を飲んでいない自分さえも酔ってしまいそうな強い匂いだ。
「銀ちゃん」
「…………」
男からの返事はない。神楽はひとつ息を吐いた。
銀時はすっかり玄関の床に身体をあずけてしまっている。酒に酔っている時の銀時は無防備だ。神楽は顔を近づけて、銀時の顔を眺めた。
男の顔を間近で見られる機会が、ほとんどないせいだろう。よく知る顔のはずなのに、間近で見ると、いつもとは違った印象を受ける。愛しさが込み上げて、もっと近づいてみたいと思ってしまう。
神楽は銀時の頭を撫でた。癖のある天然パーマの髪が、神楽の指先で戯れた。男の性格そのものを表しているかのような跳ねっ返りの髪に笑みが零れる。銀時を起こすことも忘れて髪を撫でていると、その手を強い力で阻まれてしまった。
手首を銀時に掴まれていた。こんなに寒いというのに、自分の手首を掴む銀時の手は汗でびっしょりと濡れていた。
目を開いた銀時と目が合う。はじめて見る、銀時の戸惑いの瞳に、神楽は目を見開いた。
銀時は床に膝をついて起き上がり、自分を振り返ることもせずに、この場から離れようとする。
神楽は咄嗟に、銀時の着流しを掴んだ。銀時はそれに構わず自分から離れようとする。神楽は掴んだ着流しを離さなかった。傍から見れば、子どもが駄々をこねているようにも見えるだろう。
神楽は銀時の着流しを両手で掴んで言った。
「……銀ちゃん、なんで私から逃げるアルか?」
「逃げてなんかねーよ」
銀時が振り返る。神楽が銀時の着流しを手離すと、互いを見つめ合うだけの静かな時間が訪れた。先に視線を逸らしたのは銀時だった。
雪の降る音が耳に届きそうなほどの静寂のあとで、衣擦れの音がした。銀時の片手が自分の後頭部に回り、そのまま片腕で抱き寄せられる。素直に両腕で抱きしめてくれないところが、銀時らしいと思った。
このもどかしい距離に神楽が頭を振ると、男の胸に強く抱き寄せられる。男の胸に顔が埋まり、銀時の顔が見えなくなった。息を吸えば、男と酒の匂いだけが胸を満たした。
これまでの日々に想いを馳せる。男を手離したくなくて、神楽は嘘の言葉を言った。
「……苦しいアル。銀ちゃん、離してヨ」
離して、と口にした途端、背中の骨が砕けそうになるほどに、両腕で強く抱きしめられた。
それに応えるように、神楽は銀時の背中に手を回した。銀時がそれに気づいて、自分から離れようとする。それを引き留めるようにして、神楽は男の背に強くしがみついた。
「離してヨ、銀ちゃん」
離して、と言いながら、男が離れないように抱きつく。
天邪鬼のこの男を、今度こそ手離さないように――。
これが、素直に自分を受け入れてくれない男への、自分の心の伝え方だった。不器用な自分は、こんな形でしか、銀時を引き留められないのだ。
「お前、言ってることとやってることが合ってねーぞ」
「その言葉、そっくりそのまま銀ちゃんにお返しするネ」
困ったような口調で言う銀時に、神楽は笑顔で返事をする。
男の背にしがみついたまま、神楽は銀時の胸に頬を摺り寄せた。すると、自分を抱き寄せる銀時の腕の力が緩み、自分達の間にわずかに距離が開く。神楽はおそるおそる銀時を見上げた。
すぐ目の前に銀時の顔があり、神楽は硬直する。銀時との距離は更に縮まり、今にも唇が触れ合いそうな距離まで、銀時は顔を近づけてきた。
反射的に、神楽はかたく目を閉じた。自分の心臓が大きく脈打ち、その振動とでもいえるような大きな心音が耳に届く。目を閉じ、銀時の動きを静かに追っていると、唇にではなく額に小さな衝撃が走った。
「……ッ!」
目を開くと、男と自分の額が触れ合っているのがわかった。男に軽く頭突きされたのだと知って、神楽は潤んだ目で銀時を見上げる。銀時はまっすぐ自分を見つめ返して言った。
「俺を、あんま煽んじゃねーよ」
額を離すと、ポン、ポン、と、二度、自分の頭を撫でて、銀時は自分から離れていった。
身体に力が入らず、男を追いかけることができない。玄関をあとにする銀時の背中を目で追いながら、神楽はその場に座り込んだ。
