※冒頭に女遊びする銀さんの描写があります。苦手な方はご注意ください。



 酒の匂いに混じる、女物の香水の香り。時には、どこかでシャワーでも浴びてきたのだろう、石鹸の香りを身に纏わせて帰って来ることもある。
 いつからだろうか。銀時が女のいる気配を漂わせて帰って来るようになったのは。
 何も気づかずにいられるほど鈍感ではないし、もう子どもではないのだから、女の勘もある。日によって変わる香水の香りに、銀時が夜に何をしているのかは薄々と気づきはじめていた。
 月の光が明るい晩。千鳥足で玄関に辿り着いたあと、そのまま倒れ込んでしまった銀時に毛布を持って駆け寄ると、男は今にも嘔吐しそうな声で、「……水」と言った。
「しょうがないアルナ……」
 台所へ向かい、コップに水を注いで、再び玄関へと戻る。水の入ったコップを差し出すと、銀時の手が伸びてきた。そのままおとなしく水を渡せばよかったのだろうが、これまで自分の中で降り積もっていた感情がそれを引き留めた。
 神楽がコップを持った手を引くと、コップを受け取ろうとしていた銀時の手が宙を掴む。
 水を飲みたければ、自分の質問に答えてほしい。態度でそう訴え、神楽は口を開いた。
「女なら、誰でも良いアルか?」
「オイ、神楽。水、寄越せ」
 会話になっていない。コップに向かって伸びてきた銀時の手から逃れるように、一歩後退する。酒に酔っているからだろう、銀時の動きはひどく鈍い。神楽は諦めず、言葉を繋いだ。
「誰でもいいなら、私を選んでヨ」
 口にした途端、どうしようもなく泣きたくなった。
 銀時とひとつ屋根の下で住みはじめてから四年。十八歳の誕生日を迎えたのは、つい最近のことだ。もう子どもといえるような年齢でもなくなりはじめているというのに、銀時はいつまで経っても自分を「女」として意識してくれなかった。それどころか、最近では、他に女がいるということを、日々、主張するような行動をとっている。
 自分が子どもといえる年齢であったときは、女のいる気配などひとつも見せなかったというのに。
 銀時が喉を鳴らすのが聞こえた。息を呑んで、銀時の返事を待つ。コップを持つ手が震えて、水面が揺れた。
「……お前だけはダメだ」
 銀時はひどい言葉を言い放った。女なら誰でもいいけれど、お前だけはダメなのだという。それが銀時の応えだった。
 ショックのあまり、涙も出ない。「女」として意識してくれないばかりか、完全なる拒絶の言葉を銀時は口にしたのだ。身体中の力が抜け、コップを床に落としそうになったところで、銀時の手にそれを奪われてしまう。
 酔いが醒めたのか、いつものように玄関で寝転ぶことはせず、銀時はその場に立ち上がった。自分の持って来た毛布を手に取ると、そのまま廊下へと進み、和室へと入ってゆく。
 ひとり玄関に残された神楽は、その場に座り込んだまま、開かれたままの玄関から覗く夜空を茫然と眺めた。

 翌日の昼間。パチンコに行ったまま帰って来ない銀時の愚痴を零しながら留守番をしていると、向かいのソファで茶を啜っていた新八が、何やら言いにくいものを抱えているような顔をして言った。いつ自分に問おうか、これまでずっと窺っていたような口ぶりだった。
「……神楽ちゃん、銀さんって彼女できたのかな?」
「……え」
 咄嗟に返事が出てこなかった。毎晩女を変えていることを、彼女ができていると表現していいものだろうか。神楽にはわからなかった。それに、銀時が何を考えてそうしているのかも未だ理解できていない。
「実はさっき、銀さんの着物を洗濯してたらね……女の人の口紅がついてるのに気づいちゃって」
「……銀ちゃんの着物は白いから、目立つアルな」
「うん。一応、手洗いしてちゃんと落とせたからそれはいいんだけど……」
 新八は、他にも何か言いたそうな顔をしている。
「……新八。どうしたアルか?」
「……神楽ちゃん。銀さんって、本当にその女の人が好きなのかな?」
「え?」
「実はね、僕、見ちゃったんだ。この前、銀さんが女の人と一緒に歩いているところ」
「……」
「僕達の知らない……見たことのない銀さんだった。普段がアレだから、よく忘れるんだけど……銀さんはやっぱり大人の男の人なんだなって思ったよ。でも……なんか、余裕そうっていうか……全然緊張してないように見えたから……」
 新八の言わんとしていることは、神楽にもなんとなく理解できた。本当に好きな人が相手だったら、しかも、まだ付き合いはじめたばかりなのだとしたら、あの男なら、緊張したり、挙動不審になったりしそうなものだからだ。「もし、僕だったら……」と新八は続ける。
「本当に好きなひとができたら、手に汗をびっしょりかいて、震えちゃったりしそうだけどね」
「情けないアルナ」
 容赦なく返事をすると、新八は、「僕も銀さんくらいの年齢になれば、余裕が出てくるのかな」と苦笑して言った。

 その日の晩も、銀時は外へと出かけて行った。忘れようとしていた昨夜の記憶がよみがえり、神楽は頭まで毛布をかぶって、それを振り払おうとした。
 日付が変わったことを告げる時計の鐘の音が聞こえる頃。これまで月の光を湛えていた夜空を雲が占領しはじめ、瞬く間に雨が降りはじめた。バケツの水が引っくり返ったような、と形容できるような雨のけたたましい音に、夢と現を彷徨っていた神楽は目を覚ました。
 銀時は傘を持って出かけて行っただろうかと気になり、玄関へと向かう。銀時の傘はその場に置かれたままだった。帰り道、銀時は濡れて帰って来ることになるのだろう。すぐにでも傘を届けなければ、と神楽の心は急いた。
 銀時がどこへ行ってしまったのかは見当もつかないが、繁華街へ行けば、もしかしたらすれ違うこともあるかもしれない。それはわずかな可能性ではあるけれど、神楽は自分と銀時のふたり分の傘を持って、迷うことなく玄関の扉を開いた。
 寝間着のままで外へと飛び出したことに後悔しはじめた頃。万事屋を出て最初の曲がり角で、神楽は足をとめた。
 見知らぬ女と銀時が、向かい合っているのが見える。
 目の前にいる銀時が、自分を拒絶して、今日もまた別の女の元へと出かけて行った男なのだということを嫌でも思い知らされてしまった。
 ふたりはこちらに気づいていない。その場に佇んだままでいると、強い雨の音に、女の手が男の頬を打つ音が混じった。女は一言二言何かを叫んで、銀時の元から走り去る。
 女がこちらに向かって走ってくるのがわかったが、どうすることもできずに立ちすくんだままでいると、女の肩とぶつかった。どうやら自分の存在に気づいていなかったらしい。少しだけよろけてしまったが、左右の足がバランスよく地を踏み、転ばずにすんだ。
 自分のことなど気にも留めずに走り去ってゆく女の背後を目で追いかけたあと、ふと視線を感じて、神楽は前を向いた。
 銀時が自分を見ている。後ろめたいことをしているわけではないのに、むしろ、後ろめたいことをしているのは銀時の方なのに、神楽は思わず銀時から視線を逸らしてしまった。
「……お前、何やってんだよ」
 まるで何事もなかったかのように。いつもの声音で言う銀時に苛立ちすら覚えながら、神楽は逸らした視線を元に戻す。そうして銀時に近づき、銀時の傘を差しだした。
「傘、持ってきてやったネ」
「……そうか」
 今更傘を差したところでどうにもならないほどに濡れていたが、銀時は自分から受け取った傘を開いて頭上に掲げた。
 それを合図に、ふたりで万事屋へ続く道を歩きはじめる。万事屋の玄関へ辿り着くまで、会話はなかった。
 家に帰り着くと、定春が自分達を出迎えてくれた。
 傘を畳んで、すばやく靴を脱ぐ。部屋へ行き、大きめのタオルを銀時のために用意して、玄関へと戻ると、銀時が頬を手で押さえながら突っ立っていた。女の平手打ちは、あとになって痛みが強まる類のものなのだろう。
「何があったのかは知らないけど、自業自得アル」
「……そうだな」
 呆れた声で言い放った言葉に、銀時からの反論はなかった。
 銀時の頬の痛みを冷ますために、台所へ向かい、タオルを水で濡らす。適度に絞って、銀時の元へ向かおうとしたところで、台所の入り口に銀時が立っていることに気がついた。
 何も言わずに自分を見つめる銀時に、かける言葉がひとつも思い浮かばずに、神楽はただ黙って銀時に近寄る。銀時の頬は、赤みが増している。きっと、ヒリヒリとした痛みがあるに違いない。
 痛みを刺激しないように、神楽は濡れたタオルを銀時の頬に優しく当てた。そうしている間もずっと、銀時が自分を見つめているのがわかり、神楽は視線を逸らし続ける。長く注がれる視線に堪え切れなくなり、一度タオルを頬から離したところで、銀時が自分の手首を摑んできた。振り払うことなどできない、強い、大人の男の、力だった。
 これまで黙っていた銀時が、口を開く。
「……やっぱり、お前だけはダメだ」
 銀時の言葉に、昨夜の記憶が鮮明によみがえった。大きく身じろいで、神楽は銀時に摑まれた手を振りほどこうとする。だが、銀時は手離そうとしない。
「離すネ! そんなことを言うためにこんなことするアルか? いい加減にするアル!!」
 傷口を抉られるような心地の中で、銀時のもう片方の頬に、自分もあの女と同じように平手打ちをしたくなる衝動に駆られる。神楽は唇を噛んでそれに耐え、自分の失恋の痛みから逃れることに必死になった。
 かなりの力で抵抗をしているのに、銀時の手はびくともしない。暴れる自分に相反して、銀時は落ち着いているようにも見える。銀時は声を落として言った。
「お前だけは……」
 神楽は大きく目を見開いた。銀時の声に、銀時が自分に与えている熱を自覚する。
 自分の手首を摑む銀時の手は、汗でびっしょり濡れていて、わずかに震えているようにも思えた。力をこめすぎて震えているというよりはむしろ、戸惑いを押し隠そうとして失敗しているようにも見える震えだった。
 昼間、新八の言っていた言葉を、神楽は思い出していた。
『本当に好きなひとができたら、手に汗をびっしょりかいて、震えちゃったりしそうだけどね』
「お前だけはダメだ」と言っていた銀時の言葉が、「お前じゃなきゃダメだ」と言っているように聞こえはじめる。
 視界が霞んで、足元に涙が零れ落ちた。
 この男の性格はよくわかっていたはずなのに、どうしてこれまで気づかなかったのだろう。
 どうして、この男はこんなにも、素直じゃないのだろう。
「銀ちゃんの……銀ちゃんの、バカ」






[初出:2013/9/15 22:40から2時間]