雲の影に呼びかけられて、天を見上げる。
 青い空に散りばめられた花の色。風に抱かれて舞う花は、大地へと降り注ぎ、地の上を優しく撫でてゆく。
 ベランダから望む景色は、春の色。自分達に訪れる旅立ちと別れの季節は、空へと舞い上がり、穏やかに時の流れを導いてゆく。
 すぐ傍で、鳥のさえずりが聞こえた。身体を傾けて軒下を見ると、いつからなのだろう、鳥の巣ができていた。
 親鳥に愛育される小鳥たちに、自分達の出会った季節を思い出す。銀時と出会ったばかりの頃の自分たちが、重なってゆく。
 桜模様を描く一枚の外套を物干し竿からすくいあげて、春風になびかせた。空へ吸い込まれてゆく花欠片と一緒に、小鳥が飛び立ってゆく。陽の眩しさに、それを目で追いかけることはすぐにできなくなったけれど、目の奥には大空へ羽ばたく鳥の姿が見えていた。
 地球に降り注ぐ陽の温もりを記憶に残した外套。それを手に家の中へ戻ると、玄関から銀時の声が聞こえてきた。
「オ~イ、神楽ァ~新八ィ~そろそろ行かねーと間に合わなくなるぞ~」
 今日は、少女が宇宙へと旅立つ日。
 エイリアンハンターになるために宇宙へ行く。少女が夢を語ったのは、降り積もった冬の雪が天の雨に解かされて春を迎えゆく途中だった。
 銀時と神楽が恋仲であることを信じて疑わなかった新八は、少女の決意に驚きを隠すことができなかった。神楽は一生、この万事屋から離れることはないと思っていたのだ。しかしこのとき、目と目で互いの意思を交わし合っている銀時と神楽を見て、新八はふたりの選びゆく道を見守ることを決めた。
 新八は外套の持ち主である少女を探しながら、時計を見た。このままでは、夕方に出航する宇宙船に乗り遅れてしまう。
「――神楽ちゃん? どこに行ったんだろう……。……神楽ちゃーん!」
 少女の名を呼ぶと、押し入れの襖が開いた。少女の右手にはカセットテープ。左手には封筒。少女が、封筒の中にカセットテープを入れて、封をするのが見えた。少女は、これまでの、そしてこれからの時の流れに蓋をするかのように、それを指でゆっくりとなぞっている。新八は固唾を呑んだ。「早く行かないと乗り遅れるよ」頭の中に用意していたはずの言葉は、声にならなかった。
「……新八に、お願いがあるアル」
「…………」
 新八は神楽と正面で向かい合った。
「もし、私が、二年後の今日、ここに戻ってこなかったら、コレを銀ちゃんに渡してほしいネ」
 カセットテープの入った封筒を差し出す少女の目は、ひどく赤い。
「……どういう、こと?」
「――銀ちゃんは、ああ見えてさびしがり屋アル。だから……もしもの時――私が帰って来れなくなった時のために――」
 カセットテープに何が吹きこまれているのかは、問うまでもなかった。
 少女が自分へ託そうとする記録が、少女の銀時に対する答えだというのだろうか。新八は、納得することができなかった。
「……神楽ちゃん」
「……新八! お願いアル!」
 少女の懇願は、悲痛な叫びにも似ていた。今の少女には、本来の少女の強さを見ることができなくなっていた。
「神楽ちゃんらしくないよ。いつもの君ならこんなことしない。どうして、必ず戻ってくるって言えないの」
「……必ず戻ってくるアルヨ。――でも……」
「…………」
 これから少女が向かおうとしている先は、春空の向こうにある宇宙。
 季節のない空は、少女の夢と命を天秤にかけ、その天秤の前には、二年という歳月をはかる砂時計を置くのだろう。
「もしもの時、銀ちゃんが、ずっと、私のことを待たなくていいように――」
 コレを渡してほしいのだと、少女は言う。
 もうわずかしか残されていない、少女が地球に留まることを許されている時間。時の経過は、少女に焦りを与えて、少女の本音を引きずり出した。少女はもう一度「お願い」と言った。
 新八は、外套を持つ手をかたく握りしめる。
 決して他人が知ることのない、彼の弱さを知っている少女だからこその決意。彼を想い、彼に永遠の待ち時間を与えないための決断。
 それは、少女の弱さから生まれたものだろうか? 自問してすぐに否定する。強くなりたいと願い、銀時達と共に歩んできたこれまでの日々が、その証だ。
 自分は、少女を信じている。
「……この封筒は僕があずかるよ。でも、僕はこの封筒を渡さない。……だって、君は必ずここに帰ってくるから」
 涙をこらえるためか、唇を引き結んだまま、神楽は「ウン」と頷いた。新八はカセットテープの厚さで膨らんだ封筒を受け取り、手に持っていた外套を神楽に手渡した。
「アリガト、新八」
 視界一面に、外套が翻った。
「お日さまの匂いがするネ」
 少女は、地球の陽を愛おしむ。少女の背中を覆った外套の下端が、地に触れそうな距離で揺れはじめる。次に少女と再会するときには、少女が成長した分、外套の裾は地から離れているのだろう。
「新八ィ、神楽ァ」と銀時にもう一度呼ばれる。
 新八が促すと、少女は慌てて荷物を手に取り、「銀ちゃん、今行くアル!」と廊下を駆けて行った。新八は封筒を懐にしまい、神楽のあとを追いかけた。
 万事屋の玄関に並んで立つ銀時と神楽を見て、一度立ち止まる。しばらく見ることは叶わぬ光景に、再会を約束して、別れを告げた。
 銀時と目が合い、新八は大きく頷いた。眩しくて遠い、光の向こうへと進んでゆく少女を見送る覚悟を、自分達は決めてきたのだ。
 定春の鳴き声を合図に、家の外へ出る。新八は万事屋の扉を閉めた。


 ターミナルは、地球と宇宙との出入り口。
 一面窓ガラスで囲まれた待合室には、今日の別れを告げる夕陽の色が射し込み、人工光と合わさったそれは、視界を眩しく霞ませる。
 滑り込みで搭乗手続きを済ませ、ゲートの前で、三人と一匹立ち止まった。
「忘れモンはねーか?」
「ウン!」
 銀時の目は優しい。言葉を交わすことなく見つめ合うふたりを、時の流れが手引いてゆく。搭乗案内を知らせるアナウンスに、神楽が顔を上げた。
 神楽と目が合うと、少女の瞳は一瞬だけ揺れて、すぐに強い光を取り戻す。
 新八は、神楽をまっすぐに見つめ返した。少女との約束を、懐にしまい、胸に刻む。
 再会を望む自分達の声が、少女に届いていることを信じた。
「神楽ちゃん、頑張ってね」
「ウン!」
 銀時と自分を見上げていた少女の視線が、緩やかに下りてゆく。少女のやわらかな眼差しは、定春に向けられていた。
 定春の頭を撫でて、目を細めた少女は、いつになく時間をかけて定春に近づき、距離を縮めたところで、勢いよくその白い巨体に抱きついた。
「定春ぅ……定春ぅ……」
 今にも泣き出しそうな神楽の切ない声に、定春も「くぅん」と寂しそうに鳴く。両腕で力いっぱい定春を抱きしめた神楽は、白い毛の中に顔を埋めて、小さな声で「定春。銀ちゃんと新八を頼んだアルヨ」と言った。
「わん!」
 定春の大きな返事に、神楽は身体を離し、ゆっくりと後退した。少しずつ少しずつ、離れてゆく。少女のそれは、カメラに全体をおさめたいときの所作に似ていた。
 少女の瞳にまっすぐ見つめられて、少女の視界いっぱいに自分達が映っていることがわかった。
 少女の背後には、宇宙船へと続く自動ドア。
「銀ちゃん、新八、定春。……またネ!」
 そう言ってすぐに、神楽は背を向けて駆け出してしまった。
 新八は、神楽の背中を見送った。銀時を見れば、彼は少女の背中を見送ることなく、こちらに背を向け歩きはじめていた。さびしそうな背中に、少女が言った言葉を思い出しながら、新八は銀時の背中を追いかけた。
 神楽の足音と、銀時の足音は、重なり合うことなく、離れてゆく。しかし、遠ざかっていったはずの足音が、また少しずつ大きくなってゆくのを感じた。
 新八は少女の駆けて行った方向を見た。時間がないというのに、神楽が銀時に向かって走っていくのが見えた。
 彼が後ろを振り返るより早く、彼の正面に回り込んだ神楽は、踵を上げて、銀時に口付けをした。
「!」
 一瞬の出来事だった。何が起こったのかを理解する前に、足音は再び遠のき、少女の姿は見えなくなっていた。
 銀時は、口元を掌で覆っていた。
「……あんのクソガキ」
 そう告げる銀時の顔は赤い。
 周りの視線が幾つも自分達に向けられていた。何も知らない彼等の目には、再会の約束を交わし合っている恋人達の別れのシーンに映ったかもしれない。だが、少女の決断を知っている新八は、その光景に、少女の切なる心を見つけ出した。
 少女は、これが最後の口付けになるかもしれないという恐怖を、静かに胸に抱いている。
 神楽が銀時から離れるその一瞬、少女の目には溢れんばかりの涙が浮かんでいた。それが、何よりの証だった。



 雨の日も風の日も、時の流れは止まることなく、少女のいない季節は巡り、二年の歳月が流れた。
 郵便受けに少女からの手紙が届くことは一度もなかった。宇宙を旅する少女の住所は、不定。こちらから手紙を出すこともかなわなかった。連絡通路を断ったのは、少女の、ひとりで闘おうとする意思に他ならなかった。
 自分達は、言葉のない少女の意思を受け取りながら、一度断たれた道はいつかまた繋がると信じていた。少女と過ごした日々を、過去の思い出にするつもりは全くなかったけれど、少女のことを懐かしむ回数は、時の経過とともに増えてゆく。
 一度だけ、銀時が本音を零した日があった。少女が地球を発ってちょうど一年――昨年の今日のことだ。彼はひどく酔っ払って「神楽はいつ帰ってくんだろーな」と澱んだ声で言った。布団の上に身を沈め、現実をおいてけぼりにし、自ら進んで夢の中へと落ちていく彼の様子に、新八の胸は締めつけられた。
 神楽が帰って来る日を知っているのは、新八だけだった。神楽は、帰って来る日を銀時に告げぬまま、カセットテープの入った封筒だけをのこして、宇宙へと行ってしまったのだ。
 少女と約束した彼への秘密を胸に秘めたまま、少女から渡されたカセットテープを胸にしまったまま、新八は時が経つのを待つしかなかった。
 日めくりカレンダーをめくり、約束の日が書かれた数字を、視界の中心に置く。
 その日は朝から落ち着かず、何ひとつ手につかなかった。銀時は朝から外出していて、家の中には自分と定春しかいなかった。
 夕方になっても、玄関からは物音ひとつしなかった。定春が寂しそうに一度だけ鳴いた。
 とうとう夜になり、銀時が帰ってきた。玄関に向かい、彼の姿を見て、慌ててタオルを用意した。
「すげー雨降ってたぞ」
 タオルを受け取り、濡れた身体を拭きながら、彼が言う。
 月の灯りの遮られた外界の暗闇。春の嵐に散ってゆく桜の花弁は、道標になることもできずに、闇の中へと吸い込まれてゆく。部屋に戻ったあとも、新八は玄関の方向へ耳を澄ませていたが、聞こえてくるのは、雨と風が扉を叩く音だけで、人がやってくる気配はなかった。
 この嵐のせいで宇宙船の到着が遅れているのだろう。新八は、自分自身にそう言い聞かせた。
 新八は、嵐を理由に万事屋に一泊することにした。姉の妙に電話をし、泊まることを告げる。受話器をおいて、ソファに腰を下ろした新八は、向かい側のソファに座る銀時に目をやった。
 そこで、新八は気がついた。
「――銀さん、それ……」
 銀時の懐から顔を覗かせている、ベルベッドの箱を指差す。
「あ? コレ? なんだ、見つかっちまったか」
 頭を掻きながら、銀時は照れくさそうに言った。彼とは長い付き合いだ。見つかるように意図してそうしていたことはすぐにわかった。銀時と神楽が恋人同士となってから、決して短くはない歳月が経過している。過ぎゆく日々の中で、銀時が神楽とどう向き合っていこうとしているのか。ベルベッドの箱の中身は、彼なりの意思表示のつもりなのだろう。
「神楽ちゃんに?」
「――ああ……」
 銀時は頷いて、虚空を見つめた。きっと、思い出の中の少女の姿を見ているのだろう。穏やかな微笑みの中に、隠しきれていない寂寥の色が見える。「神楽の奴、今頃、何してるんだろうな」と独り言を言った彼に、新八は何も言えなくなってしまった。


 一週間経っても、神楽は帰って来なかった。
 銀時が外出したのを見計らって、新八は懐から封筒を取り出した。カセットテープの入ったその封筒には、「銀ちゃんへ」と、まるで恋文のように丁寧に宛名が書かれてある。地球で覚えた文字を綴る、少女の拙い筆跡が懐かしい。
 新八は窓の外に広がる青空を見た。神楽が宇宙へ旅立ってからずっと、神楽との約束を忘れた日は一度もなかった。
 二年という歳月が経過した。二年という歳月をはかっていた砂時計は、すべての砂を地に落として、静かに佇んでいる。砂が風に吹かれてこの地から消えてゆく前に、新八は決断をしなければならなかった。
 一週間前、銀時の懐に大事に入れられていたベルベッドの箱のことを、新八は思い出した。銀時は、神楽が帰るのをずっと待っている。少女の左手の薬指に未来を誓う日を、思い描いている。
 新八の脳裏に、二年前の神楽の言葉が重なった。
『もしもの時、銀ちゃんが、ずっと、私のことを待たなくていいように――』
 少女の最後の願いを届けることが、少女にとっての幸せなのかもしれない。
 少女が口にした通り、これを手渡さなければ、銀時は帰らぬ人を永遠に待ち続けることになってしまう。
 しかし、自分は少女に告げたのだ。
『……この封筒は僕があずかるよ。でも、僕はこの封筒を渡さない。……だって、君は必ずここに帰ってくるから』
 少女はここで確かに頷いた。少女との約束を、諦めることはできない。
 自分は、少女を信じているのだ。
 新八は再び封筒を懐にしまおうとした。が、頭上から降ってきた声に、それを止められた。
「――新八、それは何だ」
「銀さん?! ――どうして……」
 銀時は先程外出したばかりだ。なぜ、こんなにも早く帰ってきたのか。辺りを見回し、答えを得る。事務机の上に銀時の財布を見つけた。彼は、忘れ物を取りに帰ってきたのだ。
 新八は、玄関の扉が開く音を聞き逃し、部屋の中へ入ってきた銀時に気づけなかったことを後悔した。
 銀時はそれ以上何も言わず、新八の手から、その封筒を奪い取った。
「――銀さん! 待ってください! それは……」
 封を開いた銀時の目が、驚きに揺れたのがわかった。中に入っていたカセットテープに、見覚えがあるのかもしれない。
 神楽が寝室として使っていた押し入れの襖を開き、銀時はその中からラジカセを取り出した。そして銀時は、戸惑う素振りひとつ見せずに、カセットテープをセットし、再生ボタンを押してしまった。
 とめなければ、と心が急く。彼に聞かせるわけにはいかないのだ。
 なぜなら、そのカセットテープの中に記録されているのは、神楽から彼への、最期の言葉であり、別れの言葉なのだから――。

『銀ちゃん』

 二年前の神楽の声に、新八は、銀時をとめる言葉を失い、その場から動くこともできなくなった。懐かしさを伴う声のあと、スピーカーからは音のないさざめきだけが聞こえてきた。テープは、不変の速度で回り続けている。ひどく落ち着かない静寂の中で、自身の心臓が激しく音を立てているのがわかる。少女が呼吸を整える気配が感じ取られ、流れる無音は、いよいよ終わりを告げた。

『銀ちゃんが、今、このテープをきいているということは、私は万事屋に帰ってくることができなかったんですね』

『新八には、私のワガママをきいてもらいました。地球を出てから二年後に帰って来ることができなかったら、銀ちゃんにこのカセットテープを渡してほしいって』

『新八に、ゴメンネって伝えてほしいアル』

 新八は顔を上げた。目の前に、泣きそうに顔を歪めた神楽の姿が見えたような気がした。

『えいりあんはんたーになるって決めてからずっと、こうなる覚悟はしていました』

『でも、どうしても、銀ちゃんのことが気になって、メッセージを残しています』

『――銀ちゃん、二年間、待たせてゴメンネ』

『私はもう帰れなくなっちゃったから……。だから……だから、銀ちゃんは……地球の女の人と幸せになってください』

 そのとき、スピーカーから銀時の声が流れてきた。

『オ~イ、神楽ァ~新八ィ~そろそろ行かねーと間に合わなくなるぞ~』

 神楽が地球を旅立った日。銀時が自分達を呼んだ声だった。
 二年前の世界で、神楽が微笑む気配がした。

『じゃあネ、銀ちゃん。――銀ちゃんが、呼んでるアル』

『――私、銀ちゃんのことが……』

『やっぱり、ここじゃ言えないネ。銀ちゃんと約束したもんネ。この言葉は、直接言うって』

『だから、いつか、そらの上で銀ちゃんに逢えたら、最初に、この言葉を言うアル!』

『――銀ちゃん、私のことを好きになってくれて、ありがとう』

『地球に来て、万事屋で過ごした毎日は、私にとって、大切な宝ものです』

『私達は、これからもずっと、三人と一匹で万事屋アルヨ!』

『――神楽より』

 自分達の知らなかった少女の記録が辿り着いた今。ブツッと、記録の終わりを告げる音がした。
 銀時は、停止スイッチを押さなかった。テープは回り続け、静音だけを伝えてきた。
 どれほどの時間が経ったのか。再び小さなノイズがあった。銀時と自分は、顔を上げた。

『オラ、神楽。何か喋れ』
『ウ、ウン。……あーあーあー、こちら、神楽アル。…………』

 過ぎし日の、銀時と神楽の声だった。

『銀さん、神楽ちゃん、ご飯にしますよ~』
『おう』『ウン!』

 少女と一緒に過ごした日々が、鮮やかに甦る。
 もうあの頃には戻れないのだろうか。目を伏せると、床の木目が目に入った。時間は確実に流れている。自分達には、前へ進む道しか残されていない。
「――新八」
 銀時の声に、新八は顔を上げた。
「はい」
「ワリー。ちょっとひとりにさせてくれねーか?」
「……わかりました」
 銀時に背を向けて、新八は部屋を出た。部屋を出る前、ほんの一瞬だけ、新八は彼を振り返った。
 ――あの男の背中が、震えていた。
 新八は、廊下に出ると、壁を背にしてその場に座り込んだ。視界が歪み、耐え切れなかったものが、込み上げた。床が濡れてゆくのも構わず、堪え切れない嗚咽を零した。
 玄関の扉から零れ入る斜陽が、目に沁みた。こんな日にも、世界は暮れて、無情にも時を流そうとしている。
 陽が闇に覆われていく途中。すぐ傍で鳥のさえずりが聞こえ、新八は重くなった頭を持ち上げた。
 二年前、少女が地球を旅立った日。ベランダの軒下で、鳥の巣を見つけた。あの日、小鳥たちが飛び立ってからずっと、鳴き声を聞いていなかった。
 幻聴かと思ったが、そうではない。近所の軒下で鳴いているわけでもない。確かにベランダから聞こえてくる。鳥たちが、巣に、戻ってきたのだ。
 新八は、祈るように目を閉じた。成長して戻ってきた小鳥たちのように、少女にも戻ってきてほしかった。
「神楽ちゃん、帰ってきてよ。――銀さんが、待ってるよ」
 定春が大きな鳴き声を上げた。鳥の声は聞こえなくなり、玄関でかすかな物音がした。風が扉を叩くような音だったが、定春が「わん! わん!」と更に大きな鳴き声を上げながら玄関へと駆けて行ったので、只事ではないとわかった。定春を追いかけるようにして玄関へと走る。
 扉を開くと、そこには、血まみれになって倒れている少女の姿があった。
 そこから先のことは、記憶に残す余裕もないほどに切迫していた。今にも絶えてしまいそうなほどに、少女の息は細かった。救急車を呼べるような状況ではなく、定春の鳴き声に呼ばれる形で玄関へとやってきた銀時が、少女を背負い、病院へと走った。少女を背負って走る銀時の背中を、定春と追いかけた。病院に着くとすぐに、少女は手術室へと運ばれていった。
 手術室の前で、椅子の上ではなく、床の上に二人と一匹で座り込んだ。力が抜けて、立ち上がれなくなった。銀時は一声も出さず、少女が運ばれていった扉を静かに見つめていた。
 銀時が「神楽」と呼ぶ声が、叫ぶ声が、耳に響き、ずっと残っている。
 自分が少女に手渡した桜色の外套は、血の色を吸って変色していた。
 二年と一週間。少女の身に何が起きたのかはわからない。しかし、傷口の広さや出血の量から見ても、エイリアンによって負わされた傷であることに間違いはない。
 少女が目指しているエイリアンハンターというものが、生半可な気持ちで抱くことは許されない夢であるということを、目の前で思い知らされた。カセットテープに残された銀時へのメッセージが、それを自分に託した少女の決意が、少女の覚悟の表れであり、少女の切なる闘いでもあったのだと、新八は知った。
 手術が終わり、集中治療室へと運ばれた神楽は、一週間、目を覚まさなかった。
 部屋の外では、定春が自分達を見守るようにして待っている。銀時と新八は一睡もせずに神楽に付き添っていたが、とうとう看護婦に睡眠を取れと注意されてしまい、交代で寝ることにした。
 ベッドの上に腕を乗せ、椅子の上で眠っている銀時の隣で、新八は神楽の様子を窺った。
 神楽は、プラスティックの酸素吸入器を口に当てている。神楽の呼吸に合わせてそれが曇り、心電図の音が規則正しく流れているのを聞くと、新八は安心した。
 夕方に近い時間なのだろう。夕陽が白いカーテンを通して部屋の中へと入ってくる。一度だけ、心電図の音が跳ね上がったのが聞こえ、新八は神楽を見た。
 神楽の目が、わずかだが開いている。
「――ぎ、んちゃ……しん、ぱち……?」
「――神楽ちゃん?」
 神楽の左手が、掛布団の上でわずかに動く。そして、その手は、ベッドの上に乗っていた銀時の腕に届いた。新八は、銀時を起こす声をかけず、銀時が神楽の手に気づくことを、祈った。
 新八は、銀時の瞼が徐々に上へと上がってゆくのを見届けた。
「――神楽……」
「――銀、ちゃ……」
 酸素吸入器が曇り、神楽は自分の手で、それを外した。機械を通さずに地球の空気を吸った神楽は、目尻に涙を溜めて、銀時の名前を繰り返した。
「……銀ちゃ……銀ちゃん……銀、ちゃん……」
 神楽の身体は点滴に繋がれていて、身動きをとることができない。それをもどかしく思っているのだろう。少女は、シーツの上に身体を擦りつけている。起き上がろうとしているのがわかり、新八は「まだ動いちゃダメだよ、神楽ちゃん」と、少女の聴覚を刺激しないよう、小さな声で告げた。そして、銀時に「僕、先生を呼んできます」と告げる。銀時は「頼む」と短く答えて、椅子から腰を上げた。
 医師と一緒に病室へ戻ると、銀時は夕陽を背にして窓際に立ち、優しい目で神楽を見つめていた。
「――神楽」
「――銀ちゃ、ごめ……ごめんなさい……」
「――神楽、もう泣くな……」
 医師が神楽に駆け寄ったので、銀時と新八はベッドから離れる。神楽はゆっくりと呼吸を繰り返しながら、首を動かし、こちらを見た。
「――新八、ゴメンネ……」
「――神楽ちゃん?」
「……私、新八に、あの封――」
「神楽ちゃん」
 名前を呼んで、ゆっくりと左右に首を振り、新八は神楽の言葉を遮った。
 必ず戻って来る、と約束してくれた少女に、そして、その約束を守ってくれた少女に、新八は心からの言葉を笑顔で伝える。
「神楽ちゃんが謝ることは何もないよ。だって、神楽ちゃんは、僕との約束を守ってくれたんだから」
 少女の目尻から零れた涙が、夕陽の光を受けて、輝く。
「――新八、アリガト……」
「ありがとう、神楽ちゃん」


 二ヶ月後。神楽の退院の日がやってきた。
 病院の医師は、神楽の回復力に驚きを見せていたが、神楽は「だって、私、えいりあんはんたーアルヨ! そんなヤワじゃないネ!」と無邪気に笑ってみせた。病院食を何人前も平らげるほどに体力を取り戻していた神楽に、銀時と新八は度々冷汗をかき、そして笑い合った。
 銀時が神楽を迎えに行くと言うので、新八は万事屋で神楽が帰ってくる準備をはじめた。
 神楽を迎えに行く時間になると、銀時は出かける前に、普段通りの声で「新八」と自分を呼び寄せた。銀時の手には、「銀ちゃんへ」と書かれた封筒とカセットテープが握られていた。
「あの日……お前の手からこれを奪い取って悪かった」
「……銀さん」
 新八は、銀時が封筒を手にした気持ちを理解していた。
 ずっと帰って来ない少女が残したメッセージ。その存在を知れば、その中身も知りたいと思うのは当然だ。封筒に自分の名前が書かれていれば、尚更、その中に封じられていたカセットテープを聞かずにはいられないだろう。
 新八は、謝らないでください、と銀時に言った。彼は、温かく、そして力強い光をその目に湛えて、封筒とカセットテープを新八に差し出した。
「新八、これはお前に返すよ」
「……」
 銀時の行動に、新八は目を見開く。
「お前は、神楽との約束を守ったんだ」銀時は続けた。「俺は、これを受け取っちゃいない」と。
「――はい」
 新八は、封筒とカセットテープを銀時から受け取り、銀時の目をまっすぐに見返して返事をした。
 病院へ向かう銀時の背中を見届けてから、新八は家事にいそしんだ。
 どれくらいの時間が経っただろうか。そろそろふたりが帰って来る時間だろうかと考えていたところで、ベランダから鳥のさえずりが聞こえてきた。
 鳥の鳴き声に呼ばれるようにして、新八はベランダへと向かう。
 桜模様を描く一枚の外套を物干し竿からすくいあげて、春風になびかせた。空へ吸い込まれてゆく花欠片と一緒に、小鳥が飛び立ってゆく。陽の眩しさに、それを目で追いかけることは、すぐにできなくなった。しかし、その先の未来を、新八は信じることができた。
 ――自分達の帰る場所は、ここにある。
 定春の鳴き声を合図に、新八は玄関へと駆けてゆく。
 帰ってきた神楽の左手の薬指には、地球の陽を受けて輝くひとつの証。
「――銀さん、神楽ちゃん、おかえりなさい」
 静かに回っていたカセットテープが、カチリ、と止まる音が聞こえる。
 再び回り始めたそれは、これからの新しい自分達の物語を、記録してゆくのだろう。
 




FIN





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