それは、十五の冬のことだった。
真っ赤なマフラーに口元を埋めて、咳をひとつ。喉が痛み、身体が熱を持っていることに気がついて、風邪薬を買いに外へ出た矢先。外気の冷たさに身を浸した途端、激しい眩暈に目の前の景色が揺れて、自分の身体を支えることができなくなった。
次に目を開けたとき、目の前に広がっていたのは、病室の天井だった。
自分を取り囲む喧騒と、近づいてくる救急車の音がかすかに記憶に残っている。どこかの病院に運ばれたことはわかったが、部屋の中には自分以外に誰もおらず、そこは現実味のない空間のようにも思えた。
壁にかけられた時計の、無機質な秒針の音を心の拠り所にしながら、自分の意識を引き上げるために何度か瞬きを繰り返す。自分の意思に反して、目を閉じている間隔が長くなりはじめた頃、病室の扉が無遠慮に開く音がした。
仰向けに寝転がる自分の側に寄ってきたのは、若いナースだった。ナースは安堵した表情を見せて、「すぐに先生を呼んできますね」と一言残し、廊下へと駆けて行った。
ナースに引き連れられるようにしてやってきた医師は、聴診器で胸の音を聞いたあと、ベッドの周りに備えつけられている機器に目を走らせた。機器が表示する数値を注意深く見つめ、カルテに三行ほどの文字を書き込む。ペンを胸ポケットにしまい、医師はこちらを向いた。
具合が悪くなった原因は、現時点では不明。夜兎に関するデータが不足しているため、検査に時間を要しているのだという。風邪のような症状は出ているが、検査結果が出てみなければ病名もわからないと医師は言った。
しばらく入院が必要であることは、医師とナースの雰囲気から察することができた。
「安静にしていてくださいね」と言い残して、医師はナースを連れて部屋を去ってゆく。扉が閉まってすぐ、ナースが声をおさえて医師に何かを告げているのが聞こえた。
「先生、……の患者さんですが……で、……なんです。だから……で」
「……そうか。……ご家族に、連絡は?」
「そろそろいらっしゃる頃だと思います。ところで先生、……ですが」
「おそらく、あと一ヶ月は……だから、今はとにかく……して、……させるように……」
会話は途切れ途切れにしか聞こえなかったが、医師とナースの深刻そうな声に、心臓が落ち着きなく鼓動を速めてゆく。こちらに聞こえないよう配慮された声に、自分には内緒にしておかなければならない内容なのだろうかと考えてしまう。
自分の容体は、自分が考えている以上に重く危ういものなのかもしれない。会話の中に混じっていた「一ヶ月」という言葉は、自分に残された時間のことなのだろうか
これから自分はどうなってゆくのだろう。これから自分はどうすべきなのだろう。悪い方向へ考えが進んでしまうのを引き留めることができないまま、時間だけが静かに流れてゆく。
考えを巡らせているうちに、いつしか陽は落ち、病室には人工光が灯された。ベッドを取り囲むようにして設置された機器は、一向に自分の身体から外される気配がない。身体を横に傾けたくても、自分の身体に繋がれている管が邪魔をした。
「銀ちゃん、新八、定春、……どうしてるかな。きっと心配してるアル」
呟いてすぐ、廊下から足音が聞こえてきた。この部屋に向かって駆けてくるのがわかり、思わず身構える。と同時に、病室の扉が勢いよく開かれた。
「神楽!!」「神楽ちゃん!!」
「……銀ちゃん、新八」
窓の外から鳴き声が聞こえて顔を向けると、そこには定春もいる。「……定春も!」
二人と一匹の姿を見て、日常が戻ってくる予感に安堵の笑みが込み上げる。しかし、目の前にちらつく影の色は消えてはくれなかった。それは、静かに心を蝕んでゆく。
視線を感じて顔を上げると、銀時と目が合った。銀時は何かを察したような表情をしている。慌てて目を逸らしたけれど、それがかえって不自然な行動として銀時の目に映ってしまったようだった。銀時の射すような目が、こちらへと向けられたのがわかり、神楽はベッドの端に視線を落とした。
新八が病院の受付で入院の手続きをしている間、病室は銀時と自分の二人だけになった。銀時と二人っきりの空間はどうにも落ち着かない。それは今にはじまったことではなかった。思い返してみると、この男に淡い恋心を抱きはじめたときから続いていることのように思う。
ベッドの側に置かれた椅子に座り、銀時は言った。
「お前が退院するまで、俺もこの部屋に泊まっから」
「……え」
「だから安心して寝ろ。……何かあったらすぐに言えよ」
自分を見下ろす銀時と目が合う。銀時の表情からも、自分の容体が深刻であることが窺えた。病院の医師から話は聞いているのだろう。
自分に残された時間は短く、その時間を惜しむように、銀時は側にいると言ってくれているのかもしれない。
神楽は銀時を見つめたまま言った。
「……ねェ、銀ちゃん。私、死ぬアルか?」
「バカ! 縁起でもねェこと言うんじゃねーよ!」
銀時の視線が自分から離れた。銀時の表情が見えなくなる。椅子に腰を下ろしたばかりだというのに、銀時は落ち着かない様子で立ち上がった。「ちょっと売店行ってくる。お前、何かいる?」
「プ……プリン食べたいアル」
「プリンね。……お前は寝てていいぞ。買ったらそこの冷蔵庫に入れておいてやるから」
「ウン」
銀時はこちらを一度も振り返ることなく、病室を出て行った。足音ひとつしない静寂を不思議に思いながら目を閉じる。しばらくして、この部屋に近づいてくる足音がした。売店から戻ってきた銀時の足音かと思ったが、すぐにそれは新八の足音だとわかった。
病室の扉のすぐ側から、新八の声が聞こえる。
「……銀さん、そんな所で何してるんですか?」
「何でもねェ。それより、神楽のこと看ててやってくれ。俺、売店行ってくるから」
「はい」
なぜ、銀時は売店へ行かずに扉の前で留まっていたのだろう。
扉の方へ目を向けようとして、神楽は自分の視覚が失われていることに気づく。目を開いたはずなのに、目の前は真っ暗だった。目は覚めているはずなのに、その感覚すらも覚束なくなってゆく。
自分を取り囲んでいる医療機器のひとつから、一際大きな音が鳴った。容体の急変を知らせる音だ。自分の身に起きた変化が自覚できぬまま、機器の音はけたたましい音を上げ続けた。
「神楽ちゃん? 神楽ちゃん?! 神楽ちゃん!!」
遠くから新八の声が聞こえる。それを追うように、銀時の声が病室の外から聞こえた。
「どうした?! 新八!」
「銀さん、神楽ちゃんが!」
病室の扉が開く音に続いて、二人がベッドの側に駆け寄ってくるのがわかる。しかし、何も応えることができない。
「新八、お前は先生を呼んで来い!」
「はい!」
「神楽?! オイ、神楽!!」
病室から遠ざかる新八の足音。自分の名を呼ぶ銀時の声。
夢の中に落ちてゆくときとは異なる、現を手離す感覚に恐怖がこびりつく。失われてゆく聴覚、遠のいてゆく意識を取り戻そうとするけれど、その力は自分には残されていなかった。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。自分の近くで揺れている、白く温かい光に目を開くと、病室の天井が目の前に広がった。光の揺らぎは、朝陽を浴びて窓際で揺れているカーテンによるものだと知る。
すぐ側で衣擦れの音があり、意識を向ける間もなく、新八の声が耳に流れ込んできた。
「神楽ちゃん!! ……よかった、意識が戻って」
「……私」
「三日間、ずっと意識が戻らなかったんだよ」
顔を横に傾けると、心配そうに自分の顔を覗きこむ新八と目が合う。三日間見ていなかっただけで、新八の顔色は随分と変わってしまった。意識を失う前に見た新八の顔を思い出し、その変わり様に胸が痛んだ。
「……心配、かけちゃったアルな」
「僕達のことは気にしなくていいから。今は安静にするんだよ」
新八の言葉に頷いて、部屋を見渡す。僅かな違和感に引き寄せられて目を向けると、壁の一部が窪んでいるのが見えた。三日前にはなかった窪みだ。
「……あの壁、どうしたアルか?」
「ああ……あれは、銀さんが……」
「銀ちゃんが?」
「『俺がちゃんと見ていれば、こんなことにはならなかった』って……」
銀時が病室を出て、新八が戻ってくるまでの間。誰も看ていない空白の時間ができてしまったことを、銀時は悔いていたのだと新八は言う。「俺のせいだ」と言いながら壁を殴り続ける銀時を止められる者はいなかったらしい。
銀時の姿を探して、もう一度部屋を見渡す。身じろぐと、自分の冷えた手に温もりが触れた。
「……銀ちゃん」
温もりを辿って目を向けると、新八とは反対側の椅子に座り、ベッドの端に顔を埋めている銀時が目に入る。銀時の目元には、寝不足のためか黒い翳りがあった。
「銀さんは、ずっと神楽ちゃんの側についていたんだよ」
ずっと起きていたのだろう銀時に、声をかけて起こすことは戸惑われた。だが、声をかけるかわりに、触れ合っていた銀時の手を衝動的に握りしめてしまう。胸の内から込み上げてくる、自分を突き動かす感情は、留まることを知らなかった。
「か、ぐら?」
素早く手を離したけれど、銀時の手に触れていた余韻は消すことができない。銀時を起こしてしまった罪悪感で胸が満たされてゆく間、銀時は眩しそうに瞬きを繰り返した。
「銀さん。神楽ちゃんが目を覚ましたよ」
「神楽!!」
新八の声に反応して、銀時が目を開く。銀時が立ち上がるのと同時に、神楽も視線を上げた。一瞬だけ、視線が絡まり合った。
「僕、先生を呼んできますね」
新八が駆け足で病室を出て行くのを見送る。病室は銀時と自分の二人だけになった。自分の顔を覗き込むようにして、銀時が近づく。互いに見つめ合ったままの静かな時間が流れた。
こんなときでさえも、銀時が目の前にいるというだけで、胸に秘めていた恋心は呼び覚まされてしまう。心臓が早鐘を打ち、自分と繋がっている医療機器のひとつが、自分のそれを拾うのが見えた。視界の隅に映るのは、数値化された自分の心臓の動き。医師が診察に来る前に、落ち着かせなければと深呼吸を繰り返す。銀時は心配そうに問いかけてきた。
「具合はどうだ?」
「大丈夫アルヨ」
神楽が笑うと、銀時も安心したように笑みを浮かべる。医師を連れてきた新八が病室の扉を開くまで、神楽は目に焼きつけるようにして銀時の顔を見ていた。
医師は絶対安静を言い渡して病室を出て行った。病名が判明するまでは、病気の根本的な解決はできず、不調を訴える箇所の症状をやわらげることしかできないのだという。
病院に運ばれた日。医師達の会話から聞こえてきた「一ヶ月」という言葉が、再び神楽の脳裏によみがえった。自分の命の残り時間。わずかなその時間で何ができるのか、自分の人生でやり残したことは何なのかを、考えた。
一番の心残りは、万事屋にいられなくなること。
そして、ずっと胸に秘めていた恋心を告げていないことが、自分にとっての未練だった。
意識を取り戻したあとも、銀時は約束通り、病室に泊まり込んで自分の面倒を見てくれていた。パチンコや酒を飲みに行った形跡もない。定春の世話は新八に任せて、万事屋の仕事の依頼もすべて断っているようだった。
まるで、銀時を独り占めしているようだと神楽は思った。銀時と一緒に暮らしはじめてからこれまで、こんなにも長い間、ひとつの部屋で二人でいることは一度もなかったのだ。
ところが、日に日に心は貪欲となり、銀時が側にいてくれるだけでは満足できなくなっていった。命の残り時間が減ってゆくにつれて、焦りは募ってゆく。そうして神楽の心には、ひとつの願いだけが残された。
「……銀ちゃん、お願いがあるアル」
椅子に座って、売店で買ったばかりのジャンプを読んでいる銀時に、神楽は話しかけた。
「どした? 何かほしいモンでもあんのか?」
「……になってほしいアル」
「ん?」
一度目は掠れた声になってしまう。自分の声が聞き取れなかったのだろう銀時へ、今度ははっきりと願いを口にした。
「私が死ぬまで、銀ちゃんに恋人になってほしいアル」
「……」
ジャンプの紙面から銀時が顔を上げる。目を逸らしたくなるのを堪え、神楽は銀時を見つめ続けた。
「私の最後のワガママ、きいてほしいアル。死ぬ前に一度だけ、銀ちゃんの恋人になりたいネ」
自分の懇願に、銀時は頭を掻きながら言った。
「死ぬなんて簡単に言うんじゃねーよ。何弱気な事言ってんだ、お前らしくねェ。……それにな、そういうのは俺みたいな身近な男で済ませるモンじゃねーよ。ちゃんと惚れた相手を見つけてから、そいつに言え」
銀時を困らせてしまうことはわかっていた。だが、自分の心を偽り、銀時に嘘を吐くことはできなかった。自分の抱えているこの想いを、自分のこのワガママを、銀時に聞き入れてほしかった。同情でも良かった。それで、ほんのひとときでも、この男が手に入るのならば。
「私、ちゃんと見つけてるアルヨ」
「神楽、お前……」
「……銀ちゃんが好きアル。いつか……私が大人になったら、言おうと思ってたネ。でも、私は大人になれないかもしれないから……今しかないのヨ」
窓の外から吹いてくる風に、ジャンプのページが捲れる。銀時はそれを気にも留めずに、自分を見つめ返してきた。銀時が何を想い、何を考えているのかは、表情からは窺えなかった。
汗の滲んでいた手を握りしめる。震えを残している手に、思っていた以上に自分が緊張していることを知った。静寂と銀時の視線に堪えられず、視線を落とす。冷たい風が頭上を撫でてゆく。風によるものではなく、銀時の意思で、ジャンプが閉じられる音が聞こえた。
「……わかったよ」
銀時の声に顔を上げると、やわらかな笑みを湛えた目と目が合った。「ありがとう」「ごめんなさい」どう返事をすれば良いのか考えているうちに、複雑に絡まり合った感情は、思いがけない一言を生み出す。
「浮気は、許さないアルヨ」
その言葉は、照れ隠しに他ならなかった。
「浮気? 何言ってんだ、オメーは。俺ァこう見えて一途なんだぞ」
今になって恥ずかしさが込み上げてくる。銀時からの意外な返事にどう応えれば良いのかわからず、神楽は俯いた。
「……ウ、ウン」
かりそめとはいえ、銀時と恋人同士となってから、神楽にとって幸せの日々が続いた。
自分に残された時間は日に日に減ってゆくけれど、銀時と恋人同士でいられる時間は、久遠の時の存在を感じることができた。一生分の幸せを、一度に貰ったような気分だった。この幸せな日々は、自分の人生が長ければ、小分けにして与えられるものだったのかもしれない。
毎日、朝になると院長の回診がある。回診の時間が近づくと、銀時は櫛を持ち、不慣れな手つきで自分の髪を梳いてくれた。寝癖で絡まり合った髪の毛が、銀時の持つ櫛でほどかれて、肩の上に流されてゆく。
銀時が髪を梳いてくれている間。神楽は銀時に気づかれぬよう、髪を梳く銀時を手鏡で映し出した。真剣な表情をしたり、困ったような表情をしたり、銀時は日々苦戦しているようだった。鏡に映る銀時を密かに眺めるこの時間が、神楽は好きだった。
「神楽ちゃん、具合はどう?」
「ウン。今日も調子良いアルヨ」
心が満たされると、身体にも良い影響があるらしい。毎朝、決まった時間に病室に来てくれる新八へ返す言葉も、新八を安心させられるものへと変わっていった。
自分の腕に繋がれていた点滴も、医療機器も、外されている時間が増えた。
体調が回復するにつれて、神楽の心の中では普段の生活への欲が芽生えはじめていた。久しく外に出ていないことに気がついて、ベッドに立て掛けるように置いてある番傘を神楽は手に取った。
銀時は反対するだろうから、見つからないうちに外へ出なければならない。しかし、ベッドから降りようとしたところで、ちょうど病室へ入ってきた銀時に見つかってしまった。
「バカ! 何やってんだオメーは」
「そ、外に出ようと思って……」
「こんな寒いのに外に出る病人がいるか!」
「ここにいるネ! ……今日は体調が良いから、久しぶりに外に出てみたかったアル」
素直に打ち明けると、銀時は頭を掻きながら、「そうだよな……ずっと外に出てねーんだよな」とこちらにも聞こえる独り言を呟いたあと、許しの言葉をくれた。
「……ったく、しょうがねーな。車椅子借りてきてやるから、ベッドの上でじっとしてろ」
「大丈夫ヨ。私、自分で歩けるネ」
「ダメだ」
一歩も譲らない銀時に、自分への思いやりが透けて見え、神楽は銀時に言われた通りに車椅子に乗った。はじめて乗る車椅子に、神楽は緊張した。
車椅子から見える世界は、自分が想像していたものとはまるで違って見えた。安易に形容できない弱々しさが、自分の身を包んでいるようだった。低い位置から見上げる世界は、子どもの頃に見ていたそれを思い出させる。見上げる空も、いつもより遠くにあるように感じた。
「空が遠いネ」
「冬だからな」
銀時の応えに笑って、神楽は言葉を続けた。
「銀ちゃんも遠いネ」
車椅子に座ったまま銀時を見上げる。自分の言葉の意味に気づいてくれたのだろう。銀時は自分の目の前にやって来て、その場にしゃがみこんだ。銀時と自分の目の高さが等しくなる。
「これで、近くなっただろ」
「ウン」
笑い合って間もなく、静寂が訪れた。こんなに近くで、銀時と見つめ合ったことはない。車椅子の手すりに、銀時の手が乗る。車輪が前へと進み、自分が銀時に引き寄せられるのがわかった。
期待に胸が膨らみ、迫りくる罪悪感に胸が潰れた。唇と唇が触れ合う直前、神楽は銀時から離れた。
「こんな事まで、しなくていいアルヨ」
銀時の肩を押して、本来あるべき自分達の距離を守る。
銀時の優しさが胸を突いた。目の端に涙が滲む。埃が入ったのだと銀時に嘘をついて、目を擦った。
久しぶりに外気に触れたせいか、喉が渇き咳が込み上げてくる。止まらない咳に背中を丸めると、銀時の大きな掌に背中を撫でられた。咳き込む苦しさが、不思議なくらい、やわらいでゆく。身体の中で蠢く毒気を全部吐き出すような咳が落ち着くと、銀時が車椅子をわずかに後ろに引いて言った。周りを見渡すと、陽が落ちかけていた。
「戻るか?」
「ウン」
病室へ戻るとすぐに夕食の時間になった。夕食が済むと、瞬く間に就寝時間が訪れる。電気が消されたあとも、「おやすみ」と言葉を交わし合っただけで、会話は途絶えてしまった。昼間、銀時からの接触を拒んだせいで、自分達の間に目に見えない隔たりができてしまったような気がした。
ベッドサイドのテーブルに置かれた時計が、就寝時間から一時間後の時間を指しても、神楽は眠ることができなかった。
病室は静まり返っていたが、突然、隣りのベッドで眠っていたはずの銀時が起き上がる気配がして、神楽は慌てて目を閉じる。夜更かししていることを銀時に見つかってしまえば、怒られてしまうだろう。
銀時が自分のベッドに近づいてくるのがわかり、神楽は寝たフリを続ける。ベッドの軋む音がしたあと、自分の唇に触れゆくものがあった。目を薄く開くと、銀時の顔が目の前にある。
銀時は自分が寝ていると思っているはずだ。それならばなぜ、こんなことをするのだろう。自分の生が尽きるまで、恋人役を全うしようとしてくれているのだろうか。
『私が死ぬまで、銀ちゃんに恋人になってほしいアル』
愚かな約束だったのかもしれない。自分は、銀時の優しさを利用しているのだ。そして、ああ見えてさびしがり屋のあの男に、自分の記憶を刻み込ませるような真似をしている。
それでも、銀時が与えてくれる温もりを嬉しいと感じてしまった自分に、神楽は嗚咽を零した。震える息を我慢するのが、精一杯だった。
入院してから一ヶ月が経過した。毎朝、決まった時間に病室へ来てくれる新八の声が、その日はいつになく弾んでいた。
「神楽ちゃん! もうすぐ退院だって。随分と長引いちゃったけど、もう大丈夫だって。よかったね! ……神楽ちゃん?」
新八の言葉の意味が理解できず、神楽は声を荒げた。
「……退院?! そんなはずはないネ! だって私……」銀時と新八の目が、こちらを向く。神楽は声を落とし、自身を落ち着かせながら言葉を続けた。「私の病気、治らないんじゃないアルか?」
「えぇ?! 院長先生はそんな事言ってなかったけど……。ですよね? 銀さん」
「ああ。あともう二、三日すればほぼ完全に治るだろうってよ」
二人が嘘を吐いているとはとても思えなかった。
「じゃあ僕、病院の受付に行って手続きしてきますから。神楽ちゃん、まだ安静にしてなきゃダメだよ」
病室を出て行く新八の足音を聞きながら、ベッドの端に視線を落とす。銀時が自分の側に歩み寄ってきて、言った。
「今日、お前の精密検査の結果が出たっつーから、先生に聞きに行ったんだよ。正体は風邪のウイルス。ただお前の身体に薬が効かなくて、悪化した上に長引いちまったんだとさ」
自分が聞いた、「一ヶ月」という言葉は、検査結果が出るまでの期間だったのだと理解する。
自分の勘違いで、銀時を巻き込んでしまったことへの後悔が、胸に押し寄せた。
「そう……だったアルか」
「……神楽? まだどっか具合悪いのか?」
銀時の問いかけに、神楽は頭を左右に振った。
「ごめんネ、銀ちゃん」
「ん?」
「これでもう……銀ちゃんに恋人になってもらう理由はなくなったアル。だから……」
もう恋人同士でいる必要はない。そう口にしようとしたけれど、その言葉は銀時によって遮られた。
「何言ってんだよ。お前が死ぬまで、俺はお前の恋人なんだろ」
反射的に涙が零れ落ちた。
ほんのひとときだけ、叶えることを許された恋だと思っていた。
しかし、銀時が自分の願いを受け入れてくれた日からずっと、銀時は終わりのない想いを向けてくれていたのだと知る。
車椅子にはじめて乗った時。夜中に寝たフリをした時。銀時から向けられた感情は、銀時の真の気持ちだったのだと、今になって気づかされる。
愚かだったのは、恋人同士になる約束ではなく、銀時の想いに気づいていなかった自分自身だった。
「……銀ちゃん」
窓の外で、一際大きな風が吹いた。春の訪れを知らせる風だ。この風がやむ頃に、自分は退院できるのだろう。
季節が変わり、退院してからもずっと、自分達のこの関係は続いてゆく。
自分の恋に与えられたのは、男の偽りのない心だった。
FIN
[初出:2014/1/4]
