これは恋なのかもしれない。
そう自覚したときには、時すでに遅し。もう引き返せないところまできてしまっていた。
相手は自分の保護者のようなもので、「恋愛関係」となるにはほど遠い存在だった。歳も離れているから、「恋愛対象」からも自分はきっと外されているに違いない。
望みのない相手だというのに、どうして好きになってしまったのだろう。そう自身に問いかけ続けること早数ヶ月。考えれば考えるほど深みにはまり、もう抜け出せなくなっていることを悟るまで、そう時間はかからなかった。
「銀ちゃん」
そう名前を呼ぶだけで、心が満たされてゆく。温かくとも不思議な感覚を、神楽はずっと胸に抱き続けてきた。
銀時と自分さえいれば、この星は回ると思っていたし、銀時がいなければ生きていても楽しくないと本人に告げたこともある。どうして今まで「恋」だと気づけなかったのか不思議になるほどに、銀時はいつも自分の心の――世界の中心だった。
「神楽ちゃん、もしかして好きな人ができたの?」
新八の声に、神楽は我に返る。突然の問いかけに神楽は驚いた。無意識のうちに、銀時の名を口にしてしまったのかもしれない。神楽は慌てて周囲を見渡す。銀時の姿はない。昔のことを想い起こしているうちに忘れかけていたが、神楽は新八と二人で留守番をしていたことを思い出した。
時刻は午後六時を過ぎている。銀時は出かけたまま、まだ帰って来ていないようだった。
新八の顔を見ることができずに、神楽は視線を逸らして頷く。
「……ウン」
好きになった人は、仲間で、歳の離れた自分の保護者のような存在。好きになってはいけない相手に恋をしている自覚はあるから、後ろめたいような気持ちもあった。
新八のやわらかな笑みが自分に注がれているのを感じて、神楽はおそるおそる新八の顔を見る。
銀時への想いは密かに隠していたつもりだった。けれど、どうやら新八には気づかれてしまっていたらしい。自分でも気づかぬうちに、顔色や態度にそれが表れてしまっていたのかもしれない。神楽は急に恥ずかしさを覚えて、顔を俯かせた。新八にどう伝えようか迷っていると、廊下から聞き慣れた足音が聞こえてくる。
神楽の胸が脈打つのと同時に、男の声が降ってきた。
「神楽に好きな奴ができたって?」
見れば、部屋の入口に、もたれかかるようにして銀時が立っている。新八と自分の会話を銀時は聞いていたようだった。神楽は動揺を隠すことができなかった。反射的に口をついて出たのは、否定の言葉だった。
「そ、そんなのいないアル!」
「……そんなに顔赤くして。こりゃ嘘ついてる顔だな」
「うるさいネ!!」
神楽は自分の顔がさらに赤くなってゆくのを感じて、それを誤魔化すように銀時に背中を向けた。当の本人に聞かれて、平静でいられるわけがない。耳を塞ぎたい衝動にも駆られるが、それは我慢する。
銀時の視線を痛いほど感じた。耐え切れずに、押し入れに逃げ込むことを考えていると、気怠げな男の声が背後から聞こえてくる。興ざめしたような、ひどく冷たい声のように聞こえた。
「ちょっと飲みにいってくらァ」
「えっ?! 今帰って来たばっかりなのに、また出かけるんですか?」
玄関へと歩き出した銀時を、新八が追う。
「じゃあ、あとはよろしくな。ぱっつぁん」
「ちょっともう……銀さん!!」
扉の閉まる音が、いつになく耳につく。銀時と自分の間に、見えない壁ができてしまったような音。踏み入ってはならない、銀時と自分の境界線の前で、何もできずにただ佇む。
自分の気持ちに気づかないでほしいと願いながらも、それと相反する気持ちが、神楽の胸の内で渦巻いていた。けれど、神楽はその矛盾に気づいて気づかないフリをする。
胸に詰まっていたものを吐き出すように、神楽はひとつ息をついた。
銀時が帰って来たのは、午前零時を回った頃だった。玄関の扉が開く音に、神楽は微睡から覚めて、押し入れの天井を見つめた。ブーツを脱ぐ音が聞こえる。ついで、真夜中であることを忘れてしまっているのか、銀時が大きな声で自分を呼んだ。
「ただいま~。かーぐらー。きゃーぐらちゅわはーん!?」
神楽は飛び起きて、押し入れの襖を開けた。
「近所迷惑アル!」
「……ったく、遅いぞ~。かぐらァ」
あかりを灯して玄関先へ駆けてゆくと、顔を赤くして、とけてしまいそうに虚ろな目をした銀時と目が合った。千鳥足で廊下を歩く銀時は、支えを欲しがるように自分へと歩いてくる。避けようと思うより早く、上から覆いかぶさるように、銀時の身体の重みが降ってきた。
「うわっ! ちょっと銀ちゃん!!」
「…………」
銀時の力強い腕が、背中に回る。銀時は安堵したような息をつくと、身体を押しつけてきた。距離が縮まると、男の匂いが濃くなり、その匂いだけで神楽は酔いそうになった。
「うっ……酒臭いアル」
濃い酒の匂いが鼻を突き、銀時から離れようと身体を捩る。だが、銀時はびくともしない。それどころか、腕の力をさらに強めてくる。離さないと態度で示されたような気がして、神楽は抵抗する力を失くしてしまった。これは夢なのかもしれない。まるで、銀時に抱きしめられているようだと、神楽は思ってしまった。
鼓膜の側に心臓があるのではないかと疑いたくなるほどに、自分の胸の激しい鼓動が伝わってくる。銀時の息遣いをすぐ近くに感じて、銀時が自分の首筋に顔を摺り寄せてきたのがわかった。
首筋に銀時の吐息が触れて、神楽は我に返る。銀時の胸を掌で強く押し返して、男の腕を振り払った。銀時に背を向けて、逃げるように廊下を駆ける。しかしすぐに、背後から銀時の腕が伸びてきた。酔っ払いの行動とは思えないほど、間髪をいれずに神楽の身体は銀時に捕えられてしまった。
「……つかまえた」
今度は、背後から銀時に抱きつかれてしまう。振りほどくことを許さない、男の腕。がんじがらめにされているような気持ちになり、神楽はその腕を振り払うことに必死になった。
「何やってるネ。離すアル!」
抵抗は虚しく、男の手に肩を抱かれて、振り向かされる。隙間なく抱き寄せられて、銀時の身体に胸が触れた。うるさいほどに脈打っている自分の心臓の音が、銀時に聞こえてしまいそうだ。このまま黙ってじっとしているわけにはいかない。神楽はもがいた。
「離すワケねーだろ。せっかくつかまえたのに」
銀時にとっては、犬や猫をつかまえたような感覚なのだろう。興奮する動物をなだめるように、頭をポンポンと撫でられる。髪を梳くように撫でていく、銀時の指の感触がくすぐったい。
「ちょっ……やめてヨ、銀ちゃん!」
「ん? 嫌なのか?」
「そ、それは……」
決して嫌ではない、心地よい温もりと、優しい手の感触。「嫌」とたった一言告げれば解放されるかもしれないのに、神楽は答えることができなかった。
本当はもっと触れてほしい。心の奥底にある自分の望みが聞こえてくるような気がして、神楽は頭を振る。普段では考えられない銀時との距離に、神楽の心は振り回されていた。
「どした? 顔真っ赤だぞ」
「……ッ」
銀時に言われて、はじめて自覚する。銀時の視線から逃れるように、神楽は顔を背けた。だが、銀時の視線は目ざとく追いかけてくる。さがしものを見つけるように、団子に結われていない髪を銀時はすくい上げた。
「耳たぶまで真っ赤にして。カワイイな、お前は」
男の甘い声が耳に届く。と同時に、耳たぶを男の唇にくわえられて、甘い痺れが走った。
「キャッ」
「キャッってお前……そんなカワイイこと言ってると、襲っちまうぞ」
自分の耳に手をやって、神楽は銀時を睨んだ。いくら酔っ払っているとはいえ、自分に対する普段の銀時の態度からは想像もできないような言葉だった。
「……今日は一体何アルか? 何か変なモノでも飲んだアルか? 早く厠に行って吐き出してくるネ」
「酒以外飲んじゃいねーよ」
「じゃあ、水でも飲んで早く酔いを醒ましてくるアル」
心の中を覗きこんでくるかのような、まっすぐな男の目に見つめられる。反射的に目を背けると、銀時にぐいっと顎を掴まれてしまう。鋭い銀時の視線に捕えられて、目が離せない。
「今日は酒に酔ってんじゃなくて、お前に酔ってんだよ」
「……嘘ばっかり」
声が小さく震えた。「私の気持ちを知りもしないで」言いかけた言葉を呑みこんだ。銀時の腕が緩むのを感じ、神楽は男から離れた。銀時の顔を見ずに、神楽は言う。
「私はもう寝るネ。銀ちゃんも、ちゃんと寝床で寝るアルヨ」
踵を返そうとしたところで、銀時に壁へと追いつめられた。銀時の拳が壁を叩く。真夜中の静けさに響く、辺りをつんざくような音。その音と衝撃に、ビクッと身体が震えた。背中に触れる壁は冷たい。銀時は壁に拳を乗せたまま言った。
「嘘じゃねーよ。いつもお前のこと見てたんだぞ。……一番近いところで、毎日」
「……え」
信じられない言葉に、神楽は硬直する。何を言われたのか、その言葉を理解するより早く、銀時は問いつめるような口調で言った。
「好きな奴、できたんだってな」
神楽はおそるおそる顔を上げて、銀時を見る。自分ではなく銀時の方が、追いつめられたような顔をしていた。これまで見たことのない、男の表情だった。
「だからそれは違……」
昼間と同じ答えを返そうとする前に、銀時の人差し指が自分の唇に触れた。身長差ゆえに、銀時の顔が斜め上から近づいてくる。慌てて下を向き、逃げ場をさがした。
銀時は膝を折り曲げて、神楽より低い位置から見上げてくる。互いの息が触れる距離まで近づくと、男は言った。
「そいつじゃなくて、俺にしとけ」
「……え」
呼気を吸い取られるように、唇を奪われた。首筋を辿る男の大きな掌に強く引き寄せられる。息ができずに苦し紛れに口を開くと、すかさずその隙間に男の唇が合わさる。
酒の匂いがますます濃くなり、眩暈がした。
「……やぁっ! やめ……っ、ぎんっ……」
銀時の胸を叩いても、びくともしない。自分の身体を這う男の手に、神楽の身体から力が抜けてゆく。銀時の熱い掌に頬を包まれて、神楽は小さな悲鳴を上げた。
銀時は唇だけに留まらず、頬にも、首筋にも、髪にも、額にも、唇を寄せてきた。男に抵抗する力をすっかり奪われてしまった神楽は、その場に立っていることさえもできなくなってしまう。身体の力が完全に抜けるのと同時に、男の腕に支えられて、神楽は銀時を見上げた。
「銀、ちゃん……」
足が宙に浮き、神楽は思わず銀時にしがみつく。銀時に横抱きされていることに気づいて、この酔っ払いのどこにそんな力が残っていたのかと神楽は思案した。それほどまでに、まるで頑なな意思を持っているかのように、銀時の腕は力強かった。
銀時は神楽を抱えたまま歩き出し、部屋の中へと入ってゆく。ソファの上に神楽を横たえると、その上に覆いかぶさるようにして、銀時は顔を近づけてきた。
甘く低い男の声に、神楽は頭が痺れるような感覚に陥った。
「……好きだ」
男の言葉に、目の前が滲んだ。嘘だ、と神楽は心の中で叫んだ。
神楽は銀時から目を逸らすようにして、顔を傾けた。その拍子に、目から溢れた涙がソファの上へと伝い落ちてゆく。ポツ、ポツ、と涙が落ちる音を聞きながら、神楽は震える声で言った。
「銀ちゃんが、私を好きになるはずなんてないネ。……今だけなんでしょ? いつもの銀ちゃんは、私のことなんてただのガキとしか思ってないアル。朝、目を覚ましたら、きっと銀ちゃんは忘れてるネ」
心の中を吐露するのは、胸が苦しかった。
酒に酔っ払っているせいで、心にもないことを言っているに違いない。自分に対しての言葉なのかどうかでさえ疑わしい。普段の銀時とは違い過ぎる行動。銀時が口にしそうにない言葉。
神楽は銀時を信じることができなかった。
もし銀時が酔っ払ってさえいなければ、素直に男の胸に飛び込んでいけたかもしれない。だが、現実はそうではない。こんなときだけ自分を女扱いする、ひどい男だと、神楽は思った。
「…………」
銀時は何も言わない。神楽は嗚咽を堪えながら言った。
「酔っ払いの言うことなんて、信じられないアル」
「酔っ払ってなきゃ信じるのか?」
低くおさえた男の声。思いがけない言葉に、神楽は戸惑う。言葉を探している間、銀時の熱い視線が降りてくる。
そして、静まり返った部屋に、鈍い音が鳴った。
「銀ちゃん!!」
見上げると、握りしめた拳で銀時が自身の額を殴りつけていた。ポタ、ポタ、と真っ赤な血が、銀時の額から伝い落ちていく。銀時は痛みを感じている表情ひとつ見せずに、まっすぐ神楽を見つめてきた。
「オラ。酔いはもう醒めたぞ」
「……銀ちゃん」
自分の声に応えるように、「神楽」と名を呼ばれる。自分がよく知る、普段の銀時の声だった。
「今の俺の言葉なら、信じるんだな?」
「……明日になっても、忘れない?」
「あぁ」
神楽は銀時に手を伸ばした。その手を銀時につかまれる。
「銀ちゃんを信じるアル」
そう告げると、銀時の重みが身体に圧しかかってきた。
「……好きだ」
銀時の甘い声、力強い腕に抱きしめられる心地よさに、神楽は銀時の肩に頬を摺り寄せた。熱い男の掌に頬を包まれて、神楽はうっとりと目を閉じる。
二度目のキスは、触れるだけの優しい接吻だった。酔いの勢いはそこにはなく、胸がくすぐったくなるような、温かなものだった。
しばらくすると、穏やかな男の寝息が聞こえてきた。名残惜しく感じながらも、神楽は銀時の腕から抜け出す。銀時の額を手当てしなければと思い立ち、救急箱を取りに行く。ソファで寝息を立てている銀時の額を手当てしながら、神楽は銀時の言葉を思い出していた。そして、自分の気持ちをまだ銀時に言葉で伝えていないことに気づく。
もう、自分の気持ちを隠さなくていい。嘘をつかなくていい。そう思うだけで、神楽は涙がとまらなかった。
翌朝。新八が万事屋の玄関を開く音で神楽は目を覚ました。「おはようございます」といつものように部屋へと入ってきた新八は、開口一番にこう言った。
「銀さん、どうしたんですか、額のその傷」
どうやらすでに銀時は起きているようだった。銀時はいつもと変わらぬ声音で新八に言った。
「ああ、ちょっと俺の本気を見せようとして」
「はい?」
頭上に疑問詞を浮かべる新八の姿が目に浮かぶようだった。神楽は押し入れの襖を開いて、顔を覗かせた。床に両足をついて、二人の前に立つ。
「おはようアル」
「あ、おはよう、神楽ちゃん。朝ご飯、すぐ作るからね」
「ウン」
新八はすぐに台所へと駆けてゆく。新八が鍋を火にかける音を遠くに聞きながら、神楽はソファに座る銀時を見つめた。銀時と目が合う。ぎこちない銀時の表情に、神楽はおそるおそる問いかけた。
「昨日のこと、覚えてるアルか?」
「お、おう……」
「…………」
銀時は目を伏せて言った。
「情けねーだろ。酒の力借りなきゃ何もできねェ男なんて」
神楽は昨夜の銀時を思い出す。酔っ払いの言うことは信じられない、そう告げたとき、銀時が自ら酒の力を振り払ったことを、神楽は覚えていた。神楽は左右に頭を振った。
「情けないのは私アル。……私、銀ちゃんに本当のこと言ってないネ」
「……本当のこと?」
「私、銀ちゃん以外の男(ひと)を好きになったことなんてないネ。私が好きなのは、銀ちゃんアル。これまでも、これからも……ずっと、ずっと、銀ちゃんだけヨ」
銀時の目が驚いたように見開かれてゆく。酒の酔いは醒めているはずなのに、銀時は顔をわずかに赤くして、自分に向かって両腕を大きく広げた。
「……来いよ」
銀時の声に神楽は微笑む。神楽は迷いなく、銀時の胸に飛び込んだ。
FIN
