雨降って、地、固まる






 十月一日。神楽は、長い休暇を得て、地球へと再び戻ってきていた。
 前回は夏であった季節も、今は秋となり、江戸は紅葉に色づいていた。
 いつか銀時の元から完全に立ち去らなくてはいけないのだと、何度も自分に言い聞かせてきた。
 決死の覚悟で、髪を切り、心を決めたつもりだったが、どうしてもうまくいかなかった。できなかった。
 いつ帰ってくるのかと、彼が問うてくれたことが、嬉しかった。期待してはいけないと知りながらも、その言葉が、ただひたすらに嬉しかった。
 神楽は駆け足で万事屋へと向かった。
 ところが、万事屋へと続く階段を上っていると、何やら話し声がする。神楽は、その場に立ち止まった。
 万事屋の玄関先で、銀時とお登勢が会話を交わしていた。
「今月、またひとつ歳を取るんだねェ」
「ああ」
「もういい歳だ。そろそろ嫁さんでももらったらどうだい」
「……」
「――いい加減、素直になれないもんかねェ」
 無音の間に、胸が震えた。
 銀時は言った。
「……まだ誰にも話してねーが、嫁にしたい奴がいる」
 神楽は、自分の足元が崩れゆくのを感じた。
 地面が揺れている。いや、自分の脈動からくる振動と、視界の揺らぎだった。
 足を前へと踏み出す勇気は、湧いてこない。来てほしくなかったその時が、近づいてくる足音がする。
 神楽は一歩ずつ左右の足をそこから遠ざけ、その場から逃げるように駆け出した。
 行き先はない。ここが、帰る場所だったのだ。
 神楽が泣き出すより先に、空が鳴き声を上げた。
 ぽつりぽつりと、泣くことを覚えたばかりのように小さな滴を地に落としていた空は、いつしか大量の涙を零しはじめ、行き場のない感情を地面へと叩きつけはじめた。
 神楽は、かぶき町を歩いていた。ほんの少しだけ伸びた、短く切りそろえていた髪は、首元に吸いついていた。
 傘を持っているのに、それを掲げずに歩いているのを道行く人々が見つめるが、神楽は全く気にもとめなかった。
 しだいに歩くのも辛く感じてきて、神楽は路地裏へと進み、腰を下ろした。
 雑多なそこは、家と家とに挟まれた小さな空間だった。屋根と屋根の隙間はそれほど広くはなく、雨を幾分遮ってくれる。雨に濡れた荷物を両腕で抱き寄せて、神楽はそのまま目を閉じた。
 十月に帰ると告げていた。約束は守りたかったが、今は、銀時に合わせる顔を持っていない。
「……神楽ちゃん?」
 そこへ、聞き慣れた声がする。神楽は顔を上げた。自分の顔は雨で濡れている。泣いていることには、気づかれないだろう。
「……アネゴ」
「どうしたの、こんな所で。カゼ、ひくわよ」
 妙は、持っている傘をそっと自分へ傾けてくれた。
 立ち上がり、それでも誰にも合わせる顔を持てなくて、神楽は俯く。
「何かあったの?」
 妙の問いに、首を左右に振る。
「……んにもないアル」
「無理、しなくていいのよ。神楽ちゃん」
 妙の声に、神楽は自分の目からぶわっと溢れるものを感じて、腕で必死にそれを拭おうした。
「……ッ」
「あ、待って、神楽ちゃん。そんなことしたら、顔が真っ赤になっちゃうわよ」
 妙の取り出したハンカチが、神楽の頬のそれを拭うようにあてられた。空から、目から、零れ落ちて混ざり合ったそれが、一枚の布の中へと浸み込んでゆく。
「今日は私、休みなの。家にいらっしゃい」
 喉がつかえて声が出ず、神楽は首を縦に振って頷いた。
 恒道館には、妙だけがいた。新八はおそらく万事屋にいるのだろう。門をくぐり、脱衣所で着替えを終えた後で、和室へと案内された。
「お茶、どうぞ。きっと落ち着くわ」
「アリガト、アネゴ」
 温かいお茶を受け取り、神楽は湯呑を傾けた。湯の熱さに怯えているわけでもないのに、震える息を自覚する。
「今日、地球に帰ってきたのね?」
「……ウン」
「ケガもしてないようだし、安心したわ」
「……」
 せっかくのお茶に涙が混じりそうになり、神楽は湯呑を静かに置いた。雨に濡れた心身は、お茶の熱さと、妙の言葉に温もりを得る。
 湯の揺らぎを見つめてゆくうちに、波紋はやんだ。雨の音、雨の匂いで、胸が静寂に包まれてゆく。
「銀さんの所には、まだ帰ってなかったのね」
「え」
「銀さんに、神楽ちゃんがここにいることを電話したら、『こっちに帰ってきてたのか』って、驚いてたから」
「……アネゴ」
「今日は、こっちに泊まるって言っておいたから、今日はここでゆっくり休んで。新ちゃんは、今日、万事屋に泊まるそうよ」
「……え」
「たまには、女同士、ゆっくり話でもしましょ」
 そう言って笑う妙に、神楽も笑った。
 夜は静かに更けてゆく。雨はやむことなく降り続き、風は勢いを増した。テレビからは、台風上陸のニュースが流れている。
 雨戸をふたりで閉めて、布団を並べた。月の光のない闇夜の中に、雨戸を叩く雨風の音。
 慌ただしい音と呼応するように、激しく揺れていた神楽のやり場のない想いも、ようやく言葉にすることができるまでに落ち着いた。
「……アネゴ」
「どうしたの? 神楽ちゃん」
「……銀ちゃん、もうすぐお嫁さんもらうアルヨ。あのマダオにも遅過ぎた春がくるネ」
「銀さんがそう言ったの?」
「ウン。バーさんとそういう話をしてるの、聞いちゃったアル」
「――そう……」
 神楽は、見慣れぬ天井を眺めた。
「いつか、こんな日がくるってわかってたネ。銀ちゃんにお嫁さんができても、銀ちゃんはずっと万事屋にいていいって言ってくれたアル。私も、コブでもいいから、銀ちゃんの側にいたいって思ってたネ。でも、やっぱり私は……」
 淡々と零れ落ちる言葉の余韻が、後から迫ってくる。
 ――夢を、描いていた。
 万事屋にいること。エイリアンハンターになること。
 彼への想いを絶たなければならないことに気づいたあの日。自分は、もうひとつの夢を追うことに必死になった。
 失っても、泣かないでいられるように、強くなろうとしていた。
 二年という月日が流れて、想いを断ち切ったつもりでいたけれど、断ち切るどころかますます深みを帯びて、掴んで、離すことができなくなっていた。
 身勝手な、思慕だ。
 嗚咽が零れはじめたので、妙に背を向ける。妙は、その背中をゆっくりとさすってくれた。
「……大丈夫よ、神楽ちゃん」
「……ッ」
「ちゃんと本当のことを聞いて、本当のことを言ってみたら? ……神楽ちゃんが失うものは、きっとなにもないから」
 息をのむ。涙が溢れた。
 ずっと誰にも言えずにいた言葉があった。諦めきれない想いがあった。変わらぬ想いがあった。
 遠い記憶の中で、再生される雨の日の出来事を。内緒で彼に触れたあの日々を。忘れることなど、なかったことにすることなど、できやしない。
「ウン」






 十月一日。昼過ぎに万事屋の電話が鳴った。
 電話に出ると、姉の声。銀時にかわってほしいというので、彼を呼んだ。一言二言言葉を交わし、銀時は電話を切った。
 銀時が姉に向けて言っていた言葉から、新八は想像を働かせる。
「神楽ちゃん、こっちに帰ってきてるんですか?」
「ああ。今日はお前んとこに泊まるんだとよ。お前は今日、ここにお泊りな」
 地球に帰ってきた神楽が、真っ先に万事屋に帰ってこないのは珍しい。
「……神楽ちゃんと、何かあったんですか」
「何もねーよ。会ってもいない」
 銀時の表情は、いつもとまったく変わらない。嘘は言っていないのだろう。
 神楽は、銀時に会わずして、妙のところへ行ったのだ。
 理由はわからないが、これは銀時と神楽のふたりの問題であるということが新八にはわかっていた。
 新八は、拳を握りしめる。
 胸に刻んでいた、姉に言われた言葉と、戸棚に隠してあった酒のことを思い出し、新八は腹を決めた。
 江戸に台風が上陸するのだとニュースが伝えている。
 風呂に入り、雨戸を閉めたあとで、新八はソファで寝転びテレビを見ている銀時に声をかけた。
「銀さん、今日は男同士、二人で飲みませんか」
 酒のボトルを掲げてみせると、彼は物珍しいものを見るような目でこちらを見てきた。
「どうしたの、お前」
「たまにはいいじゃないですか、こういうのも」
 銀時は何かを考えている素振りを見せて、頷く。新八は、机にグラスをふたつ並べた。つまみはない。
 互いに酒を注ぎ合い、酒の力に頼ることでしか本音を語れない、情けなくも男の性(さが)に頼ろうとした。
 新八は机にグラスを置いた。
「なんか、色々言いたいことがあったような気がするんですけど、もういいや」
「あん?」
 杯を重ねていきながら、新八は銀時と神楽のことをずっと考えていた。
 そうして、自分がふたりに言いたいことは、今までもこれからも変わることのない、たったひとつの言葉に集約されることに気づいた。この言葉は、自分だけではない、誰もが、ふたりに対して望んでいることでもある。
「僕は、銀さんと神楽ちゃんに幸せになってほしいと思ってるんですよ」
 銀時が静かにグラスを置いた。
 虚空を見つめている銀時の目は、酒に酔ってはおらず、静かに瞼の内に隠れた。
「……ずっと前にな。神楽が寝惚けながら俺に言ったんだよ。嫁になんかいかねーって」
 自分の言葉に、銀時は神楽の幸せを考えているようだった。
「神楽ちゃんらしいですね」
 銀時は、目を伏せる。
「アイツは、俺に嫁さんができようが、ここに居たいって言いやがった」
「はい」
「でもよ、アイツはここから宇宙に旅立っちまって、いつの間にか、俺の手なんか必要ないとばかりに大人になっちまいやがった」
「……」
「俺がアイツの保護者だったら、さびしいとは思うだろうが、いつかこうなるだろうって覚悟ができてるはずなんだ。俺は、アイツにとって、そうあるべきだったんだよ。でも俺には、それができそうにねェ」
 銀時の告白は、神楽と初めて出会ってからこれまでずっと胸奥に隠していた想いだった。
 神楽は、きっと気づいていないだろう。銀時自身ですら、触れまいと、気づかないようにと、抑え込んでいたに違いないのだ。
 近過ぎたからこそ、わからないことだったのかもしれない。離れてから初めて、自覚したのかもしれない。
 さびしいという感情の先にあるものが、保護者的立場の人間が抱くそれとまったく違うことに、銀時は気づいていて、気づかないフリをしていた。
「銀さんが本当に望んでいることを、神楽ちゃんもきっと望んでるんじゃないかな」
 相手に伝えようとしているのか、自分の独り言なのか、その境界は曖昧になりつつある。
 だが、伝えたいことはこの男に伝わったと新八は思った。
 一緒に過ごすうちに、ますます似てきたふたり。歳を重ねるごとに似てくるふたり。そうして、何度も繰り返してきたこのすれ違いに終止符を打つ術を、きっと、ふたりはすでに知っている。気づいていなかっただけで、彼らは同じ道を歩んでいたのだから。
 頭にじんわりと響く酒の酔い。新八は陽の灯る時を待ち望んで、夜を明かした。
 朝。玄関の扉が開き、閉まる音がしたのを耳に入れて、新八はゆっくりと目を閉じた。






 翌日。秋の大型台風は、少しずつ遠ざかっているとはいえ、雨も風も、感情をたかぶらせているように勢いを増していた。
 妙は心配そうな顔をしていたが、万事屋に帰ることを告げると、「気をつけてね」と自分を送り出してくれた。
 武器でもあるこの番傘は、そう簡単に壊れることはない。物怖じしないこの傘に信頼をあずけ、神楽は万事屋への道を歩んだ。
 朝であるというのに、町は薄暗い。太陽は幾重にも重なった雲に、光を地に注ぐことを許してはもらえないようだった。
 一歩一歩、確実に歩を進め、神楽は心の中にあった階段を駆け上がりながら、銀時の言葉を思い出していた。
『階段は駆け上がらずゆっくり上れよ。じゃないと転ぶぞ』
 彼の言葉に、自分は、転んでも自分で起き上がるから大丈夫なのだと答えた。
 しかし、自分で起き上がることができても、この両腕は、彼を求めてやまないのだと、神楽は知った。
 ――一緒に、歩んでいきたい、男性(ひと)がいる。
 目の前に、白の際立つ男がいた。
 こちらに向かって歩いてくる彼の姿を見た途端、綯い交ぜになった感情が溢れ出し、胸が飽和し、目頭が熱くなるのを自覚するが、神楽は唇を噛んでそれに耐えた。
 銀時は、今にも壊れそうなビニル傘を頭上に掲げて、歩いてくる。目が合った瞬間、彼の頭上にある傘はとうとう限界を迎え、くの字型に折れ曲がり、彼の頭には容赦なく滴が降り注いだ。
 神楽は銀時に駆け寄り、彼の頭上に番傘を掲げた。彼は背が高いから、自然と踵が上がる。
 またあの時のように、傘の柄を奪われてしまうかと思ったが、彼のその手は、自分の手にそっと重なった。
「また世話になっちまったな」
 銀時の表情はいつもと変わらず、けれどどこかいつもとは違った雰囲気をそこに醸し出していた。
 神楽は彼を見上げて、そしてまた前へと視線を戻す。重なり合った手の温もりに胸を温められながら、ふたりで万事屋への道を歩む。
 ふと、ウェディングドレスの飾られていた店が目の前にあることに気がついた。
 しかし、シャッターが閉められていて、ガラスの内を見ることはかなわない。
 少しずつ雨の音が、風の勢いが、穏やかになってゆくのを肌で感じながら、神楽は記憶の中であの純白を思い出していた。
 万事屋に着くと、各々タオルを取り出し、濡れた体を拭く。
 まだ朝も早い。新八は珍しく昨日酒を飲み過ぎたようで、まだ和室で眠っていた。
 ソファに腰かける銀時に、「ただいま」と告げると、一瞬の間のあと、「おかえり」と返事がかえってくる。
 自分の居場所は、まだ失われていないのだと、神楽はタオルを強く握りしめた。
 偶然なのか、必然なのか。今となってはもうわからなくなってしまったが、あの日、彼に聞いた問いと、今、自分が彼に問いたい内容は一致していた。
 これでもう、最後になるのだろう。
「……銀ちゃん」
 声をかけると、銀時がこちらを振り返った。
「……どした」
「銀ちゃんは、お嫁さんをもらいたいアルか?」
 銀時は、一時だけ目を見開いて、大切な思い出を語るように、目を伏せた。
「ああ」
 彼の答えは、予想していたものだったけれど、やはりその衝撃は大きく、頭の芯が、胸が、足元が、目の前が、ぐらぐらと揺れるのを感じる。昨日と同じく舞い戻ってきた感覚に心をかき乱される。
 神楽は、妙のくれた言葉を思い出した。
『ちゃんと本当のことを聞いて、本当のことを言ってみたら? ……神楽ちゃんが失うものは、きっとなにもないから』
 ――まだ何も、失ってなどいないのだ。
「やーヨ……」
「神楽?」
 神楽は、銀時の目を見つめ返す。
 涙で滲む世界は、銀色の光で満たされていた。
 今までずっと胸の内に堪えてきたものが、次から次へと溢れ出す。もうこれが最後だから、と自分に言い聞かせた。
 長かった。これまでの道のりを、言葉に綴るのに、必死だった。言ってはならない言葉なのかもしれなかった。
 けれど、伝えたかった。
「銀ちゃんがお嫁さんをもらうのはやーヨ。銀ちゃんと一緒にいられなくなるのはやーヨ。ずっと、一緒にいたいネ。コブでもいいから、ずっと一緒にいたいと思ってたネ。でも、やっぱり、私は、私は……銀ちゃんが、好きアル。ずっとずっと好きだったネ。銀ちゃんと、ずっとここにいたいネ。銀ちゃんを見ていたいアル。銀ちゃんに触りたいアル。本当はあの時、銀ちゃんに――」
 強く抱き寄せられて、紡ぐ言葉を塞がれた。何が起こったのか、わからなくなった。一瞬だけ触れたそれは、すぐに離れた。
「あの時、銀ちゃんに?」
 そうして、彼は言葉の続きを促す。銀時からの熱い視線を直視できず、神楽は下を向きながら答えた。腕が絡まり、身動きすらできない。胸だけではなく、頭の芯からもどくどくと脈打つものを感じる。
「あの時、銀ちゃんに、キス……したかったアル」
 たどたどしく口にすると、銀時の大きな両掌に両頬を捕えられた。ぐいと引き寄せられて、それでも最後の距離を縮められることはない。
 神楽は目を閉じ、震えながら、銀時のそれにそっと自分のそれを触れ合わせた。離れようとするより早く、そのままさらに強く引き寄せられて、唇を覆われる。ほんの少し伸びた髪が、引き寄せる彼の手によって擦られてじりじりと首元で音を立てた。
 どれくらいそうしていたのか。呼吸することを思い出して、必死に空気を求めていると、そのまま彼の胸元に抱き寄せられた。初めて触れた彼の境界の内側に、神楽は涙を零した。
 失うものは、なにもなかった。
「俺んとこに、嫁にこい」
 滲む世界は銀色の光の輪を帯びた。真っ白な光で満たされる、眩しい世界だった。
 銀時の腕の中から見上げた空には、いつしか真っ白な雲が広がりつつあり、その奥では、許しを得た太陽が、きらきらと輝いていた。