雨のち晴れを待つ






 大地が水を求めることを、天は知っている。
 雨はやむことなく降り続き、風は勢いを増した。右手に買い物袋を持ち、左手では傘の柄を握る。
 頭上では、百円のビニル傘が風に煽られ、空からの衝撃を受けとめる音を立てていた。今にも雨風に屈してしまいそうなそれが、せめて傘としての役目を全うできるうちに家に帰らなければと足を速める。しかし、その願いは空しく強風に吹き飛ばされてしまった。
 傘の骨は「く」の字型に折れ曲がり、支えを失った透明のビニルは風に弄ばれはじめた。一気に頭上から冷たい雨の滴が降り注ぐ。
「オイ神楽。お前の傘のなかに――」
 入れてくれ、と言うより早く、頭上に降りつけていた雨がやんだ。
 神楽の番傘が頭上をまもっている。隣で歩いていた神楽は、傘が壊れたことに気づくとすぐに、こちらへ番傘を掲げてくれたようだった。
「しょーがないアルな」
 そう憎まれ口を叩きながらも、番傘の柄を握る少女の手は、隣にいる自分のためにと高く伸ばされている。銀時はそれにひとつ笑って、神楽から番傘を奪い取った。
「あ、銀ちゃん!」
「こういうのはなァ、背の高い奴に任せとけ」
「フン。ちょっと背が高いからって調子に乗るなヨ、天パ」
 少女の手が、番傘を取り返そうと幾度となく伸びてくる。それをすんでのところでかわしながら、銀時は歩きはじめた。随分と意地悪なことをしているという自覚はあったが、銀時は少女との戯れにすっかり夢中になってしまった。
 我に返ったのは、ふたり同時に大きな水たまりに足を踏み入れてしまってからだった。
 ブーツだった銀時に被害はなかったが、神楽はそうではない。
 靴の中に浸入してきた水に、神楽は一瞬嫌そうな顔を浮かべて、すぐに平気そうな顔を取り繕った。
 水浸しになった少女の靴が、キュッキュと音を奏ではじめて、銀時は堪えきれず笑ってしまう。その音は、幼児の履く音の鳴る靴のそれと、とてもよく似ていた。
 笑われたことに気づいたのだろう。神楽は、ふてくされたように水たまりをワザと蹴り上げながら、前に進みはじめた。
 神楽の小さな両手は、前へ後ろへと落ち着きなく振り子のように動きはじめる。少女の刻むリズムは、自分の歩みに自然と馴染んだ。
 歩く幅も速さも異なる神楽と自分だが、互いに合わせようと意識せずとも傘下から外へ出ることはない。神楽が急に立ち止まっても、銀時はすぐにそれに合わせて足をとめることができた。
「どした? 神楽」
「な、なんでもないアル!」
 少女は焦ったように視界から何かを遠ざけ、また豪快な足取りで歩きはじめてしまった。
 神楽に気づかれないよう、銀時は少女が視線を送っていた方向を見る。
 小さな店の、ショーウィンドウ。――純白のウェディングドレス。
「六月の花嫁は幸せになれる……ってか」
 今が、梅雨で六月であるということを思い出し、銀時は思わず独り言を口にしてしまう。声は小さかったが、神楽の耳に拾われてしまったのかもしれない。神楽が小さく肩を震わせたのがわかった。
 雨より近いところで芽吹いた小さな予感が、陽を求めて歩みはじめた瞬間だった。
 番傘の下から見える光景を、銀時は仰ぎ見た。昼間だというのに、雨雲が陽を見せまいとしているせいで、梅雨の天の下は薄暗く、ひどく寂しげだ。――その世界を明るく照らす純白は、銀時の胸の底へ静かに辿り着き、輝きをとめることはなかった。
 万事屋に着くと、各々タオルを取り出し、濡れた体を拭く。
 銀時がソファに深く腰を下ろして髪の毛を拭いていると、神楽が窓際へと駆け寄っていったので、何とはなしに視線を向けた。
 神楽が驚いた声を上げこちらを振り返ったので、自然と目が合う。
「銀ちゃん! 銀ちゃん!」
「あ?」
「雨が降ってるのに、晴れてきたアル!」
 窓の外が明るい。雲の隙間から、陽の光と空の青が見える。耳を澄ませれば、確かに雨の音はやんではいなかった。湿気が熱を帯び、梅雨のジメジメとした不快感を呼び起こそうとするが、不思議と心は晴れやかだった。
「そいつァ、狐の嫁入りだな」
「狐の嫁入り?」
「お天気雨の日には、狐が嫁に行くんだっていう迷信みたいなモンだよ」
「お嫁さんアルか……」
 神楽は再び窓の外へと視線を向けた。青に青を重ね、潤みを帯びる目は、儚き遠い日を見つめているようだ。黙り込んだ神楽の顔が少しずつ下を向いてゆく。少女はもう、外の景色を見てはいない。今、少女がどんな顔をしているのかも、銀時にはわからなくなった。
 銀時はソファから腰を上げ、神楽の側に歩み寄る。
「オイ、神楽?」
「の、喉、乾いたアル! いちご牛乳~いちご牛乳~」
 顔を覗き込もうとしたところで、かわされてしまった。
「それは俺のだ。勝手に飲むんじゃねェ」
 台所へ駆け足で向かう神楽の背中に声をかけるが、返事はない。
 まだ完全には拭い切れていないのだろう雨の滴が、神楽の足元を濡らしていた。






 きっかけというものが果たして存在していたのか。銀時にはわからなかった。
 寝食を共にし、毎日顔を合わせているのだから、それを見極めるのはとても難しい。
 いつからだろうか。雨に濡れる自分に傘を掲げてくれたり、意識を失くすほど酒を飲んだ自分を介抱してくれたり、神楽が与えてくれるささやかな気遣いに、銀時はよく気がつくようになっていた。
 今日もそうであった。求めるより先に、朝の冷えに布の温もりを与えられていた。
 見慣れた薄暗い天井に、また飲みすぎてソファで眠ってしまったのかと銀時は苦笑する。
 窓の外からは、仄かな陽光。スズメの鳴き声に、そろそろ朝がやってくるのだとわかる。
 顔に触れる空気は冷えて肌寒さを感じるが、首から下はそうではない。見れば、和室に置いてあった毛布がかけられていた。自分で持ってきた覚えはない。
 銀時は毛布を持って立ち上がった。もうそろそろ夜が明けるが、あともう一眠りはできるはずだと和室へ向かうことにする。その途中、神楽が寝室にしている押し入れの前で、銀時は立ち止まった。
 神楽は押し入れの上段に首を突っ込み、敷かれている布団に右頬を押しつけた状態で寝ていた。上段に乗り上げる前に、睡魔に抗う力が尽きたのだろうか。立ったまま器用に眠っている。
 銀時は慌てて駆け寄るが、神楽の寝顔はいたって穏やかなものだった。だらしなく口を開き、顎には涎が伝ったあとも見える。
「神楽。お前、なんつー姿勢で寝てんだよ。オラ、一度起きやがれ」
「う……うー」
 声をかけてもびくともしない。しまいには歯ぎしりまではじめてしまい、銀時は頭を抱えたくなった。
「ヨダレに歯ぎしりって年頃の女がよォ。お前、嫁にいけなくなるぞ」
「嫁になんかいかないモン」
 寝惚けていた声に明瞭さが混じる。夢と現の狭間にいながらも、揺らぐことのない意思が見て取れる声だった。
 銀時は少女の顔を覗き込もうとしたが、見せたくないとでもいうように、神楽は布団に顔を正面から押しつけてしまう。
 銀時はひとつ息を吐く。吐息と溜息の狭間で湧き上がろうとした情に、銀時は蓋をする。
「やっと起きやがったか。ホラ、ちゃんと布団の上に横になって寝なさい」
「……いかないモン」
 子供が駄々をこねるときの口調にとてもよく似た声音で、神楽は二度同じ言葉を繰り返した。
 そして今度は、布団に顔を擦りつけて、何かを拭おうとするような素振りを見せる。やっと顔を上げたかと思えば、神楽はすぐにそのまま押し入れの上段に乗り上げて襖を閉めてしまった。
 この家に存在する声と音が、忽ち消えてなくなったのを感じた。
 少女がこうした隔たりを作ったのは、おそらく初めてだろう。銀時はただそこに立ち尽くすしかない。
 どんな小さな音にでも気づくことができそうなほどに、ひどく静かな朝だった。
 喧騒の中では気づくことのない、一朝一夕で築かれるものでもないそれは、なかなかどうして形にならず、見ることもできない。けれど、もし、人の感情に小さな源があるとするならば、こうした無の世界で手を伸ばした先に、見つけることができるものなのかもしれなかった。
 この日を境に、何かが変わってしまったということももちろんなかった。いや、なかったはずだった。ところが、自分の気づかないところで、誰にも気づかれないような速度で、静かに変化を遂げてしまおうとしているものが目の前にはあった。
 意識を失うほど飲んで、ソファで倒れるように寝てしまう日々。もう何度も繰り返されてきたこの所業も、いつしか毛布をかけてくれる神楽を待つためだけのものになっていった。銀時は、自ら毛布を取りに行くことも、和室へ向かうことも、しようと思わなくなっていた。


 酒の匂いが、静寂に際立つ。スズメの鳴き声はない。酔っ払えば朝まで目を覚まさない日常が、壊れる日。
 その日、銀時は、ソファに寝転んで三十分も経たないうちに目を覚ましてしまった。
 何か物音が聞こえたわけではない。自分を起こそうと意図されたものがあったわけでもない。ただ、自分の掌に触れる温もりだけがそこにはあった。
 銀時は目を開こうとして、慌ててやめた。目の前に人の気配がある。それは、この身に慣れ親しんだ者の気配だ。目を開けないかわりに、銀時は耳や手の感覚を研ぎ澄ませることにした。そうしてすぐに、自分の掌に触れているものが、神楽の頬なのだということに気がついた。何度も触れたことがあるのだから、間違うはずがない。
 しかし、これまでの触れ合いとは異なっている。神楽は両手で銀時の手を持ち上げ、その掌に頬を擦り寄せているようだった。
 擦り寄ってくる温もりに、銀時は緊張した。掌に汗が滲みはじめているのを感じる。寝たフリを必死で装いながら、なぜ神楽がこんなことをするのかを考えようとして、考えてはいけないと言い聞かせた。
 どれほどの時間が経ったのだろう。銀時の手は、毛布の中に戻され、神楽は何も言わずに押し入れへと戻っていった。
 押し入れの襖が閉まる音に、銀時は弾かれるようにソファから起き上がる。全力疾走したあとのように呼吸は乱れ、脈動の強さに全身から汗が噴き出す。掌に余韻を残した温もりと柔らかさは、脳の髄まで熱を呼んだ。荒い呼吸を繰り返しながら、銀時は頭を抱えた。まだ酔いが醒めていないのだと、すべてを酒のせいにして、平静を保とうとした。
 神楽のこの行動を知ってから、銀時は飲む酒の量を一杯分減らすようになっていた。
 足元が覚束なくなるほどに酔い、和室の布団にまで行き着くことができないような泥酔状態のときでも、この一杯の自粛が、意識の浮上をささやかに手伝ってくれた。
 いつものように酒の酔いに圧しかかられてソファに身体をあずけると、すぐに自分へと近づいてくる音がある。その音は、酒に痛む頭に心地よい痺れを呼んだ。
「……飲み過ぎアルヨ。銀ちゃん」
 応えを期待しての言葉ではない。独り言なのだろう神楽の声に、返事をしそうになって銀時は口を噤んだ。
 すぐに毛布の温かさがやってきて、頬の筋肉が緩む。神楽との距離が少しずつ近づいてくるのを感じて、不自然な呼吸の音を立てないように、銀時は自身を落ち着かせる。
 神楽の視線がこちらへ向けられているのを感じた。凝視されていると感じるほどの視線の強さだ。
 瞼を閉じた目が、緩んでいた頬が、緊張に硬直する。そこで、頬に小さくとも鋭い痛みが走ったことに銀時は気がついた。あまり記憶には残っていないが、帰り道に木の枝にひっかけたことだけは覚えている。そのときにできた傷が今になって痛みはじめてきたのだろう。酔いが醒めはじめた証拠だ。
 銀時が神楽の行動を静かに待っていると、予想に反して、神楽は自分の元を離れていった。目を開こうとして、慌てて閉じる。すぐにまた足音が近づいてきた。
 何かが破れる音と剥がれる音。自分の頬に、無機質な何かが触れた。何かを貼られてしまったらしい。
 ゆっくりとその上をなぞる神楽の指に、頬を撫でられていると錯覚しそうになる。その小さな手の温もりから与えられる心地よさは睡魔を呼び、銀時は意識を手放した。


 翌朝。新八に頬を指差されて、銀時は昨夜のことを思い出した。
 すぐに眠ってしまったので、何を貼られたのかを確認できていない。ふらふらと鏡の前に立ち、正面を見据える。
 ウサギのイラストの入った絆創膏が、もうすぐ三十路を歩む男の頬に乗っていた。
「……」
「カワイイ絆創膏ですね。神楽ちゃんですか?」
 新八の声に堪えきれていない笑いが混じっている。
「……たぶん」
 ぼんやりとした頭は思案を呼ばず、何とはなしにそれに手を伸ばす。爪先を頬にあてると、新八が背後から声をかけてきた。
「それ、はがしちゃうんですか?」
 銀時は鏡に映る自分の顔を見つめた。
 ――神楽から与えられる際限のない何かの反映。
 いつからなのかはわからなかった。はじめからそうだったのか。ただずっと気づかなかっただけなのか。
 ただ、銀時には予感があった。
 いつか、こうした小さな欠片が積み重なり形を成したとき、自分は選択を迫られる。
 答えは、避けては通れない。
「……いや」
 銀時は、絆創膏を上からなぞった。






 日常が少しずつ姿を変えてゆく。
 右手には買い物袋を引き下げ、左手には傘の柄を持ち、雨の中を神楽とふたりで歩く。
 雨は勢いを増している。風も強く吹きはじめ、買ったばかりの百円傘がそのうねりに煽られて叩き合うような音を立てていた。今にも壊れそうだと思ったときにはすでに遅く、傘の骨は見事に「く」の字型に折れ曲がり、冷たい雨が一気に自分の身体に降り注ぐ。
「オイ、神楽。お前の傘のなかに――」
 入れてくれ、というより早く、神楽がこちらへ傘を傾けてくれていた。爪先立ちで、濡れないようにとその傘を頭上に掲げてくれている。
 不思議になるほど、辺りが静かだと感じた。雨の音を遠くに感じ、傘を打つ雨滴の音も、耳元に留まることなく去ってゆく。
 自分を見上げる神楽の目に、銀時は我に返った。少しずつ少しずつ変わってゆく少女の瞳は、しだいに揺るぎない意志を見せはじめる。
 少女と暮らしはじめてからおよそ二年の月日が流れたが、少女の目に映るものはそれほど変わっていないはずなのに、その対象へ向ける感情は変わってしまったようだった。その瞳が心の内を語りはじめないうちにと、銀時は神楽の手から傘の柄を奪い取った。
「銀ちゃん! それ、私の傘アル!」
「こういうのはなァ、背の高い奴に任せとけ」
 神楽は番傘を取り戻そうと手を伸ばしてきたが、指先が空を掴むと、大人しく重力に身を任せて手を下ろした。
 ひとつの傘をふたりで分け合い、万事屋へと帰る。相合傘と呼べるこの行為ですら、銀時にとっては特別な意味を持っていない。しかし、神楽にとっては違うのだとわかってしまう。
 小さくとられた距離。隠し切れていない耳の色。仄かに色づいた頬の赤。俯いた顔を少しずつ上向かせ、視界を巡らせるその仕草は、少女だった頃の記憶を少しずつ思い出にしてゆく。
 一体いつから、こんな顔をするようになったのだろう。
 ふと神楽が足をとめたので、銀時も立ち止まり、神楽が濡れないようにと傘を傾けた。
「オイ、神楽。どした」
「……なんでもないアル」
 感情を取り去ろうとして失敗したような声。すぐに視線を逸らし、派手に水たまりを蹴り上げながら、神楽は前を歩きはじめた。
 銀時は神楽が視線を送っていた方向を見る。
 小さな店の、ショーウィンドウ。――純白のウェディングドレス。
「六月の花嫁は幸せになれる……ってか」
 小さな呟きは、強い雨の音に吸い込まれてゆく途中で、二巡目の邂逅を呼び起こす。
 年頃の女ならば誰もが興味を抱くだろう結婚。神楽はもう十六歳だ。実現させることも可能な年齢ではある。
 まだまだ遠い遠い先のことのような気がしていたが、その時が近づいていることを知らせる足音は、しだいに大きくなってきている。
 万事屋に着いても神楽は一言も喋らなかった。銀時が濡れた体をタオルで拭っていると、神楽がじっと見つめてくるので、問いかける。
「……どした」
「銀ちゃんは、結婚しないアルか?」
 突拍子なその質問に、思わず「え」と驚いてしまったが、平静を装うためにひとつ咳払いをする。
「あいにくとその予定はないな」
「じゃあ……銀ちゃんは、お嫁さんをもらいたいアルか?」
 真剣な瞳が、追いかけっこをはじめる。置いてきぼりを食らったような子どもの表情に、女の影が混じる。またこの瞳だ、と銀時は思った。
「……何を、言ってるんだ?」
「……私、ずっとここにいても良いヨネ? ……銀ちゃんにお嫁さんができても、ここにいて良いヨネ?」
 震える小さな手を、神楽は握りしめる。握りしめた手の中にある、神楽が想像する未来。神楽が最も恐れているものが何であるのか。わからないはずがない。
「――当たり前だろ」
 笑うのか。泣くのか。喜ぶのか。悲しむのか。予想できない少女の表情は、小さな拳の中に消える。
 少女の瞳に含まれる、色も、熱も、すべてがすべてを語り、時の刻みに呼応するかのように、情を強めてゆく。胸の内にあった予感に腕を掴まれるが、それを受け入れることも、受けとめることも、銀時にはできなかった。
 自分が神楽へ向けている感情は、神楽が自分へ向けているそれに、似ているようでまったく違うものであるはずなのだ。


 その日、神楽の様子はおかしかった。酒を飲みに出かけると玄関先で告げても、少女は返事をしなかった。
 酒に足を取られ、和室へ向かう気力もなくソファに崩れる夜。
 今日ばかりは神楽も自分を放っておくに違いないと思っていたが、それはまったくの見当違いだった。すぐに自分へと近づく音がある。
 暖かな毛布の感触が上から羽のように降りてくる。銀時は、身体を埋めて、擦り寄った。手だけは毛布の外へ出し、ぶらりと宙に浮かせる。
 神楽は、いつものようにその手を両手で持ち、そっと頬を寄せてきた。
 繰り返されてきたこの行為は、もうお約束のようにもなっていて、銀時は神楽の行動を特別意識することもなくなっていた。
 なぜ神楽がそうするのか。その疑問も、時の経過とともに埋もれてゆくことを望んでしまっていた。
 しかし、不変のものなど、自分たちの境界には存在しなかった。どんな形であれ、はじまりがあれば終わりがある。
 自分の手に添えられていた少女の両手が離れ、支えるものを失った手がまた宙へと戻される。
 眉をひそめてしまったところで、少しずつ少しずつ顔に近づいてくる影があった。銀時は緊張した。銀時が焦る一方で、神楽との距離はますます近づいてゆく。頬に神楽の髪が触れ、くすぐったい。神楽が自分の唇に触れようとしているのがわかり、銀時は呼吸をとめる。息苦しいが我慢した。
 このまま気づかないフリをしていればいいのか。自身の躊躇をやはり酒のせいにして、銀時はすべての思考を頭から追い出そうとした。
 神楽が動きをとめたのがわかった。触れゆくものはなく、かわりに頬に一滴の滴が落ちた。それと同時に、走り去ってゆく神楽の足音が重なる。耳元に残る足音が、酒に滲みた頭を揺らし続けた。


 この日を境にして、神楽が自分に触れてくることはなくなった。ソファで寝ていると、毛布をかけてまたすぐに押し入れへと戻ってしまう。
 これが、自分達の不変としてきた境界線だったのだとわかってはいるが、物足りなさを感じずにはいられない。こうあるべきだったのだと自身に言い聞かせ、知らなかったフリを通し続けることで、銀時は己の境域を守ろうとした。
 だが、酒はときに自身の意思でさえも粉々に打ち砕こうとする。
 いつものように毛布をかけて立ち去ろうとした神楽の腕を、銀時はとうとう掴んでしまった。
 神楽が驚きに身体を震わせるのがわかったが、銀時は寝たフリをし続ける。
 静かな夜の波。頑なな意思を持つ手は、神楽の腕を離さず、少女の行動を見守るだけだ。
 その場に神楽が腰を下ろしたのがわかった。
 ゆっくりと腕に絡まる手をほどいた神楽は、銀時の手を毛布の中へ戻した。冷たくも熱くもない、人肌の心地よい温もりを帯びた手で、銀時の顔に触れる。
 小さな子どもが、顔のひとつひとつのパーツに興味を持つように、記憶と実物の相違を確かめるかのように、触れてゆく。
 くすぐったさに身を捩り、声をあげたくもなるが、銀時は腹の底でそれを堪えた。
「……銀ちゃん」
 小さな呟きが耳に優しい。零れ落ちたような声音。酒に痛む頭へ流れ込んでくる情動。寝たフリをし続けて、初めて後悔した日。
「……もうこんな事、二度としないアル。今までごめんネ、銀ちゃん」
「……」
 神楽が自分へと向けてくる感情と、自分が神楽へと向けている感情は等しいものではない。
 それを互いにわかってはいたけれど、喉元まで湧き上がってきた言葉の存在を銀時は自覚した。それは、自分がこれまで築いてきたものとは真逆の意思だった。
 言葉が喉元でつかえた。神楽が受け入れようとしている現実を知るべきだと思った。
 神楽は自分の気持ちが報われることのないものだと知っている。そして、それをわかっていながら、それでも優先させたいものがあるのだと、少女は告げているのだ。
 神楽は、側にいたいという気持ちひとつで、胸を満たしている。


 その日から一週間も経たないうちに、神楽の父、星海坊主が神楽を迎えにきた。
『宇宙一のえいりあんはんたーになってくるアル!』
 旅の準備は事前に終えていたのだろう、迷いひとつみせず、神楽は宇宙へと旅立っていった。
 いつ帰ってくるのかと、銀時は神楽に問うことができなかった。その前に、帰ってくる意思があるのかを確かめることすらできなかった。
 地球と宇宙――距離は完全に離れてしまった。
 万事屋は昼間でも静かになった。酒に酔い、ソファで寝転んでいたあの時分を思い返す日々。
 ずっと側にいてもいいかと問うたではないか、と、探すつもりもない捌け口を求めて、胸の内にかたく閉ざす。
 これでよかったのだろうか。これでよかったのかもしれない。――選択肢すら、与えてはもらえなかったのだ。