鬼灯 1








 この道は暗い。
 どこかで宿を取ってもよかったが、晴れた日中なら三時間の距離だ、高杉は夜のうちに新宿までを歩くことに決めた。
 何キロか離れて幹線道路のオレンジの灯が点々と繋がっている。その先が江戸だった。
 日付が変わった道は凍り、高杉が氷を踏みしだく音のみが異様に冷えた空気に通る。提燈を掲げたトラックの重く走る音は絶えることがなく、コンビニの明りも時折遠くに見えはする。しかし高杉が選んだ舗装も充分でない道は、ところどころに自販機があるかないかで、あとは軒に氷柱の垂れた民家が点在しているだけだった。
 ほんの時々通る車のヘッドライトが遠くまで届く。こちらは特に気にもしないが、向こうは照らし出される人影にぎょっとするようで愉快だった。
 轍の雪は解けて再び凍り、白く滑らかに光っている。滅多にない冷え込んだ夜だった。歩き慣れない凍結した路面を避け、道脇の残った雪を高杉は踏んで歩いた。裸の足はとっくに真っ赤に腫れ、草鞋の紐がゆるむ。
 小一時間ほど歩いたところで雪が降り始めた。さらさらと固い雪片が高杉の笠にかかり溶ける。雪は無音で高杉に纏わりつき、みるみる足だけでなく全身が濡れた。
 一昨日から眠らずに歩き続けているせいで、高杉の体力は限界に近づいてきていた。立ち止まったら動けなくなる、座り込んだら眠ってしまうだろう。ともすれば目先も見えない暗闇が続く中、高杉は勘だけで道を取った。
 雪はその間も小止みなくしんしんと降り、勢いも増し降りやまない。
 吹き付ける雪のせいで前髪から雫が滴った。歩いているから身体は温かいが、手足の先の感覚が怪しい。次に遭遇した自販機で高杉は缶コーヒーを買った。手をぬくめ、ぬるくなった液体を口に運ぶ。ほうと溜息が漏れた。眠かった。
 ふと白い髪が前方に見えた気がした。瞬時に緊張を走らせて視線をやったが、そこには何もない。雪だろうと高杉は微かに頬を歪めた。夜明けにはまだ遥か遠い。
 目の前には畑で葱が折れ曲がっており、今しも野犬か何かの遠吠えが聞こえた。風はない。明ければ一面白銀の世界だろう。夜目にも田に降り積もった雪が庭や垣根に氷とも霜ともつかぬものが白く光っている。強い勢いで風が笛に似た鋭い音を立てた。
 また、視界の端で白くちろちろと動くものがあった。
 目を上げると相変わらずそこに何もない。だが高杉は、視界を掠めたのはあの銀髪だと今度は確信していた。あそこにあったのは銀時のあの横顔だ。
 認めた途端駆け上がったのは杭を打ち込むような緊張だった。鳥肌立つ。瞬時に眠気が吹き飛んだ。
 からからから。
 空になった缶が足元から来た道に転がっていく。缶を手から落としたことを高杉は覚えていなかった。
細い道は相変わらず電灯ひとつなく、寒さに眠気が甘く襲う。しかし、ちらついた白い髪を思うと腹の底が奇妙に燃えた。あれは、確かに銀時だった。
銀時、その一言で熱が一点に集中して焦燥に高杉の指先は白くなる。
 不意に、遠く橙色の火が立った。
 高杉歩みを止めると、ぼうと光るそれは地面を舐めるようにゆったりと進んで遠ざかり、先を行く人があるのだと知れた。
 火は藪や民家に邪魔されちろちろ見え隠れしながら先に行く。高杉は足を速めた。温い黄色みがかった燈が揺れる。小石大の光を、高杉は追った。
 銀時かもしれない。
 ふざけていると心で吐き捨て、高杉は歩き続けた。
 かなり足を速めても、燈との距離は一向に縮まらない。逆に高杉の速度が落ちても距離は開かなかった。
 苛々しながらも高杉は、何かに憑かれたように明りを追いかけ続けた。
 そのまま燈を追って一刻も過ぎたろうか、ゴールのない鬼ごっこは明りが唐突に消えて呆気なく終わった。緩いカーブの他は直線が続いた道が直角に折れて、見失ったのだ。
 その角を曲がった高杉は、何の光も見えないことを確認しようやく立ち止まった。
 半ば機械的に動いていた手足は金属の棒のように鈍く痛み出した。
 改めて周囲を見渡すと、家々の間隔が詰まってきたのが分かった。交通量が増え、トラックの唸りが轟々と通り過ぎていく。
 高杉は排気音の中に息をゆっくり吐いた。悔しいような、安心したようなでもある。
 そのまま、ごみごみした裏路地を行くと、汚れた雪が泥水になって高杉の足を取った。空気から水からすべてが生温い。
 もう街中に入っておかしくないが、裏道らしく異様に暗い。店の気配も人の気配も、まるで無いというのでないのに、とにかく右も左も分からぬ闇だ。大体こうだろうという風に道を取り、正面に現れた行き止まりに高杉は舌打ちした。土地勘が雪に狂わされている。
 ゴミ捨て場になっているのか、夜のうちからゴミ箱ゴミ袋からゴミがあふれ積み上がっている。背を向けようとしたとき、奥の青い丸ゴミ箱のふたが唐突に目一杯持ち上がった。ごみ箱の中の人物と正面から目が合う。
「どうした高杉久しいな」
 今し方別れたばかりのように桂は平然と言い放った。そうしながらゴミの箱のへりに足をかける。ゴミ山の中から抜け出した桂のいた空間に生ゴミの臭いが立った。
「ヅラぁ、てめー、何」
「ヅラじゃない桂だ。高杉、また痩せたな。きちんと食っているか」
 呆れて身を引いた高杉の勝手に袖を捲り上げ、腕をぺちぺち叩いて桂は形のよい眉をひそめた。
「うるせぇよ。大体てめえこんなところで何してやがる」
「真選組に追われている。全くしつこい奴らだ」
 端的に言い、桂は真顔で尋ね返した。
「おまえはどうした?江戸にいるとは聞かなかったが」
「ヅラぁ、銀時見なかったかよ」
 素直に高杉は問うた。その瞬間、桂は無表情になった。
「銀時だと?高杉おまえ、雪の中はしゃいで熱出たんだろう」
 高杉の額に手をあて、桂はほら見ろと溜息をついた。白い息が闇に消えていく。
「大体なんだそのザマは。真冬にそんなぺらぺら一枚で死ぬ気か」
 桂は自分のマフラーを強引に高杉に巻きつけて寄越し、見るだけで寒いと自身は懐からカイロを取り出した。高杉に対して桂はいつまでも年長者らしく振舞う。
「とにかく無茶をしてばかりいるとおまえが死ぬ。」
 カイロをしゃかしゃか振りながら、桂は不機嫌そうに重い口を開いた。
「それから銀時の行方は俺も知らん。もう関わるな。……俺ももう行かねば」
 言うことだけ言うと、寒そうに羽織の前をかきあわせ、すたすたと桂は迷い無く闇の中に消えていった。
 桂の後方には火薬と水の匂いがした。
 それを否応なく吸い込み眉を顰めながら、高杉は再び歩き出した。
 マフラー一枚で違うものだと思っていると雪はいつのまにか霙に変わり、更に排気ガスをまとった温かな雨になった。
 そしてまたどれだけ経っただろうか。桂との遭遇を忘れた頃、前方で親指ほどの大きさに提燈の明りが現れた。
 先刻と違うのは、幾つも光る火のうち、数個がゆっくりこちらに向ってくるところだった。珍しい朱色の鬼火だろうか。しばらく高杉は、ふわふわと揺れるそれを眺めていた。我に返ったときには存外に素早く火は距離を詰めており、それが避けようとした高杉の首元を掠った。途端闇に落下する感覚があった。






続きます。



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