冷えきった空気に肌がふれて、びくりと背筋が震え、意識が覚醒へと向かう。 自分のものではありえない体温に我に返って、慌てて半身を起こそうとする。途端種々の痛みが襲ってきて顔を顰めると、人影がゆっくりと覆い被さってきた。 「……まだ寝ていて大丈夫ですよ」 「……ああ」 手が乱れた前髪を撫でて聞き心地のよい声が囁く。たちまち眠気が如月をさらう。 「ばかな人だ。」 それはおまえだろう、と思いながら如月の意識は泥のような眠りに呑みこまれてきえた。 シグナル・レッド01 如月はひとり火鉢に手をかざしながら不機嫌に唇を結んだ。 壬生と寝た。 それがこの一週間と少し、如月の脳裏から消えない、即刻に解決すべき問題だった。 初めて寝た。他人と。……しかもその相手が壬生ときた。酒を飲んでいたらいつのまにかそういうことになっていた。が、いったい自分が何を考えていたのか分からない。そもそも酔っ払いの思考なんてそんなものだ。素面に戻ったとき居た堪れない。……どうしよう。 どんな醜態をさらしたのかと思うとぞっとする。最後の方はもう何も覚えていない。ただ微かに残る記憶だけでもこんなに。自分が自分ではない。記憶が全部飛んでいた方がいくらかましな気もしてきた。 いったい何をどうしてそういうことになったのか。 それは覚えている。龍麻だ。自分は龍麻の一番じゃない。別にそれがショックなんじゃなくて、蓬莱寺が憎いんじゃない。ただ何かが辛かった。 しかもそういうときに限って準備のいいことに、冷蔵庫にはこの間龍麻と京一が持ってきた缶ビールが半ダース冷やしてあった。それでも飲んでやれ、と店を閉めた。馴染みとの約束もないし、一見の客に応対するような気分でもない。一日くらい、休んでもいいかと思ったのだ。少し自棄になっていた。そんな自分が恨めしい。 まだすべての元凶には遠く、先の見通しなど無いに等しい。東京からは妖の者が消えるどころかますます増えてきている現状だ。そして、如月の家は北の守りの要ともなるため、色々なモノが襲ってくることも頻繁にある。 だから、いくら結界を強化してあったと言っても、自分のしたことは殆ど狂気の沙汰だ。ひとりで酒に逃げるのは、無様だ。それで龍麻が護れようか。使命を果たせようか。 それでも、一度くらい溺れてしまいたかった、というのもあるかもしれない。いや、少なからずあった。 それで自分が酒を飲み始めたのは分かる。ならどうして壬生と二人で酒を飲むことになったのか。あまり覚えていない。……ああ、確か、自分がやけ酒を呷っている最中に壬生が訪ねて来たのだ。それで、そのまま。家に上げて酒を飲ませて、それから。 そもそも、壬生本人は如月達と馴れ合おうとする気持ちなど全くなかったくせに、何故かすごい勢いで自分達の間にとけ込んでいた。麻雀要員として如月の家に呼び出されることが原因かもしれない。元々は龍麻や蓬莱寺と如月で打っていたのだが、壬生ができることがわかって、すぐさま龍麻と蓬莱寺が半ばむりやり引っ張り込んだ。そんなわけで、如月は出会って数週間もしないうちに壬生とはごく普通に話す仲になっていた。あちらもこの店が居心地いいのか、暇なときはひとりでもちょくちょく訪ねてくるようになった。 多分、問題の夜も、壬生はごく普通に訪ねてきたのだと思う。確かにそうだ。 飲み始めていくらか経ったあたりで壬生が訪ねて来た。それで、……如月自身が壬生にも酒をすすめた。壬生は困惑したような色をちらと浮かべたが、結局「つきあいますよ」と言った。それでビールが焼酎になってポン酒になってその辺りから記憶が曖昧だ。 ひとつ覚えているのは。 勝手によみがえるのは。 「あなたは龍麻が好きなんでしょう?」 そう単刀直入に聞かれた。何と返したのかは記憶が飛んでいて分からない。 ただ、壬生には見抜かれた。全部に近いほどわかられた。知られたくないところまで。 如月が龍麻にどれだけ執着しているかだとか、その相棒に屈託を抱いていることだとか、それから、龍麻をまるで綺麗なものの象徴みたいだとか、光そのものみたいだとか思っている、そういうところまで見抜かれた。 「……っ」 「僕は、龍麻が欲しいあなたを」 その声は遠くで聞こえて低く響いた。あのとき、壬生にもたれかかった気がしないでもない。声がそういう伝わり方をしていた。 体温が心地よくて、多分。 我を失うことなど初めてに近くて、他人の熱をじかに感じることは初めてで。酔っ払っていなければ絶対あんなことはできなかった。とそれだけは自信を持って言える。 壬生が、殺気を一瞬でも放てば、自分は正気に返って蹴倒していたと思う。 壬生の来訪の時点で、如月は既に酔っ払いつつあったから、壬生がどの程度飲んでいたかに全く注意を払っていなかった。壬生は自分よりそもそも酒は飲めないから、もしかしたらあっちも酔った上の衝動で流されてしまっただけかもしれない。そんなことを認めるのは癪だが自分も酔っていたのだから仕方ない。 それならお互いに忘れたいはずだ。そうだ、そうに決まっている。 もう忘れてしまおう。そう如月はまたいつも通りの結論に達した。 無かったことにできるはずだ。 ただ、熱が。 どんな言葉も言い訳に過ぎないと如月に思い知らせる。 そこへ、まるでタイミングでも計ったかのように、 「こんにちは。」 元凶の声が響いた。肩が勝手に揺れる。 「……やあ、いらっしゃい」 のろのろと立ち上がって店に出た如月の、動揺を隠せない間を置いての返答にも、 「お邪魔します。僕の使っている靴のことなんですけど」 壬生は眉ひとつ動かさなかった。そして、用件はとても、とてもごく普通のことで、壬生の声音も全く普通だ。 如月は安心した。これなら大丈夫だ。 「ああ、そろそろもうひとつ上のを使うかい?」 「もうひとつ上、ですか?」 「このあいだ手に入ったんだ。今のは少し疲れてきただろう。今度のは防御が、ああその前に上がりたまえ、茶でも入れよう」 「お邪魔します」 壬生を直視し続けてはおれず、声を後ろに聞きながら如月は先に台所へ立った。 |
続きます。 |
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