[ 残暑お見舞い申し上げます ]






 蝉の声が夏らしさを演出している、じんわりと汗ばむような季節。
 青く広がる空には白くて大きな入道雲が広がっていた。
 そんな夏のある日、学校の帰り道。
 十代はふと、前を歩いていた親友の足がおぼつかないのに気付く。
 足元が浮ついていたり、時々立ち止まったり。
 その視線は高く高く上げられ、見ているこっちが心配になってきてしまうほどだ。 
 普段とても落ち着いてしっかりしている大人びた彼ではあるが、それがなかなか。時折どこかとても抜けている部分がある。
 なので歩き始めたばかりの赤子を見守るような気持ちで少し心配になった。
 声をかけようか、と考えていたところ、ふと、ふらふらとしている親友に危険が迫っていることを認知。
 目の前にいる親友に危険が押し迫っている事態を伝えるべく声を掛けた。
「ヨハン!危な―――……い、かなあ」
 しかし、咄嗟に気付いた危険を伝えようと紡いだ言葉は途中でキレの悪い言葉に変化した。
 危険を知らせる前に、危険だと思ったモノ―――道にあった”この先崖”と書かれた看板―――に危険を知らせたい相手……ヨハン・アンデルセンがすでにぶつかってしまったからだ。
 ゴン、と鈍い音と共に、うずくまって座り込んでしまう親友に声をかけた。
「大丈夫か、ヨハン」
「痛い……」
「だろうな」
 打ち付けたであろう場所はきっと向う脛。
 それは、痛いだろう、と十代は密かに同情した。
 本人の不注意招いた痛さであるのだが、しかし向う脛では同情の余地はある。
 唸りながら自分の足の具合を気にしているヨハンに、十代はもう一度ねぎらいの声を掛けようとした。
 しかし、その前にヨハンは足を気にしつつもゆっくりと立ち上がった。
 なかなかバツの悪そうな顔をしながら。文句を言わないのは9割が自分の不注意だと自覚しているからであろう。残りの1割は運の悪さだ。
「上ばかり見てるからだぜ。危ないなあ」
「だってさ、目を離したらわかんなくなっちまう」
「何が?」
「積乱雲」
「せきらんうん?」
 ヨハンの口からでた単語を追うようにして十代は空を見上げた。
 夏の日差しの眩しさに目を細めて見上げれば、青い空に白くて巨大な積乱雲が広がっていた。
 でかいな、が十代の率直な感想。
 簡潔な感想を持った後、十代は視線を再びヨハンに戻した。「だからどうした」と暗に言う。
「目の錯覚かなあ、って思ったんだけどさ。ほら、やっぱり動いてる。ほら!十代も見ろよ」
「ぅえ?」
 そして、ヨハンの言う通り、空高く聳え立つ積乱雲にもう一度目をやった。
 ヨハンが見ていたであろう白く、まるで空に浮かぶ城のような入道雲は、その居住を天に構えたかのように、つまり自分の目には一向に動いているようには見えなくて。
「動いてるか?アレ……」
「絶対動いてるっつの。よく見なきゃわかんねーよ、ほら、よく見ろって!」
 そう言ってヨハンは十代の顔、もしくは頭をその両手の平の中に収め、首を強制的に上へと向かせた。
 首の根が少々痛いように感じられる不自然な体制でしばらくその、ヨハンが動いているといった入道雲を十代は再度見つめる。
 すぐ隣に、ヨハンの顔を感じながら。
 しばらく、沈黙を保ちながら。
 しばらく、瞬きをする間も惜しむ位空を眺めた、が。
 しかし。
(動いてるのか?)
「なっ?動いてるだろっ?」
「……そう、なんだ?」
「お前いっつも暑い暑いって言ってアイスばっか食ってるから節穴になったんじゃねーの?」
「そう言う理由で節穴になりたくない」
「もしくは、良く見てないからだぜ」
「見たぜ。すんげー見たぜ、これでもかってくらい」
「お前ね、ただ見ればいいってもんじゃないんだぜ?ちゃんと、向き合って見なきゃ、見てねーのと同じ」
 ビシ、と人差し指を立てて力説された十代は、「ちゃんと見たのに」と心の中で悪態をつきつつ嘆息した。
 けれど普段しっかりしていて落ち着きのある大人びた彼ではあるが、一度騒ぎ出したら止まらないのということも知っている十代は、素直に彼の言う事に従う。それが一番ベーシックな……手っ取り早く事態を収拾する方法だと過去の経験から本能が学んだ。
 なので、もう一度、そのヨハンが動いていると言った入道雲を見上げた。
 まあ、動いているように見えない事もない。
 しかし、肉眼で確認できる範囲ギリギリのレベルのような動きだ。
「肉眼で確認できる範囲ギリギリのレベルで動いているような」
「だろっ?あの積乱雲。あ、日本じゃニュウドウグモって言うんだっけ?なんか絵みたいだよな。でも、動いてるからやっぱ本物だよなー」
 そう嬉しそうに言ってくる親友を見て、十代はなんだか自分も嬉しさが浸透してくるのを感じた。
 どんなものでも、ヨハンの視点を通ればそれはとても素晴らしいものに変化してしまうように思えてならない。
 そして、その「ヨハンによって素晴らしいものに変化したもの」は十代の中にもその感性の余波を与える。
 この親友は、自分に何も考えない時間を与えない勢いで様々な事を提示してくれる。
 そのことが十代にはとても眩しかった。
「あーまた形が変わった」
 風が全くといっていいほど吹いていない夏の日の積乱雲の動きは、かなりのかなりの牛歩であると思われるが、ヨハンにはその動きが解るらしい。
「まじか。よく解るな、ヨハンは」
「ほら、十代もよく見ろって。二度と同じ入道雲は見られないんだからさ。そう思うと、すげーと思わないか?」
「何が?」
「もう同じ形のものは二度と見ることができないんだぜ?」
「うーん。まあ、そうだな」
「だから、すげーってこと。あの雲はもう一生見れないんだからな」
「一生モノだと言えば、うん。そうだな」
「そ、だよ。十代だって言ってただろ。ハレー彗星が来た時にさ。あれは約76年周期だからな。もしかしたらもう二度と見れないか、あと1回見られればお終いだな、って」
「ハレー彗星と同レベルか」
「レベルの問題じゃないっつーの。二度と見れない、ってコトが同じって話」
「ヨハンはさ、もう同じものが二度と見れないからすげーってことを言いたい?」
「うーん」
 少し唸ってからヨハンは空を見上げた。
「絶対に変わらないモノっておもしろくないと思うんだよな、俺」
 ヨハンは空に視線を固定したままそう一言つぶやいた。
 興味を一身に注いでいる入道雲を見ながら。

 いつも。
 ヨハンは心の琴線をとらえる感動を、十代に伝える。
 十代はそのことに対して、思うことが多々あった。
 以前は、その事が少し眩しくて、ほんの少し疎ましいと思うことがあった。
 ヨハンの突き抜けるような真っ直ぐな心は、あまりにも眩しくて、眩しくて。自分の手には届かないという事が思い知らされて焦燥感に駆られる。
 ヨハンと出会った頃の十代は、こんなにも気の合う相手は初めてだ、と思う反面、ほんの、ほんの少しだけ、苦手だった。
(お前と出会った頃のオレは、お前の事が苦手だったんだ)
 その、ヨハンの真っ直ぐな感情が。
 苦手だった。
 誰とでも仲良くなれる性格を持つ反面(実際誰とでも仲良くなれた)心の奥の奥で、一歩引いて自分を見つけているような、そんな自分がいることを十代は薄々感じていた。感じてはいたが、ただ気づかないふりをしていた。
 けれど。
 ヨハンを見ていると、ヨハンと一緒にいると、その事に嫌でも気づかされるような気がして、ほんの少しだけ苦手だった。
 しかし、ヨハンは十代が心の奥で作っていたであろう壁に気付き、強引すぎる強引さで解体作業に取り組んできた。
 解体なんて生ぬるいモンじゃない。
 破壊、だ。
 そんなヨハンを十代は少し疎ましく思った事もあった。

『―――人はそう簡単に変われない―――』

 ヨハンと出会った頃の十代は、そうヨハンに言ったことがある。
 ヨハンと出会った頃の十代は、ほんの、ほんの少しヨハンの事が苦手だった。
 その、真っ直ぐな感情が。
 苦手だった。けれど、

『なあ、十代。一生変わらない自分って楽しいか?』

 ヨハンはもうは覚えてないだろうけど。
 以前、ヨハンが十代にそう言ったことがあった。
 どんなに素晴らしいものがそこに存在していても、それを見ようとしなければ、それは、無いのも同然。
 ヨハンはそう、十代に言った。
 その時十代は、暗闇から一気に光差す場所へと出でたかのような感覚を体験した。
 目に映る色彩のすべてがモノトーンに敷き詰められたゆっくりとした世界が、一気に色鮮やかな世界へと変貌していくような、そんな感覚。
 頭の中に一面に広がっていた深い静寂の中から、何か太いチェロの弦を振るわせたような、脳髄の底を透明な振動がくぐっていくような地響きのような、感覚。
 そしてその感覚の中で、一際鮮やかな色合いを見せていた、その唯一の色が鮮明に自分の脳裏に映し出されたのを覚えている。
 その唯一の、青。
 とてもきれいな、青。ヨハンの色。
 その唯一が眩しそうに笑ったから。
 その唯一が眩しそうに笑ってから。
 モノトーンで敷き詰められていた自分の色彩が、徐々に鮮やかに彩られていった。
 ヨハンは心の琴線をとらえる感動を、高らかに鳴り響く鐘のように常に響かせている。
 少々強引ではあるが。
 そして、これからも彼がそう有り続けて欲しいと十代は願っている。
(お前のお陰で―――)
 自分の気持ちは、お前のお陰で、色々な形を彩る事ができるようになったぜ。と。
 十代は心の奥でこっそりと思った。
 その種類が豊富すぎて、自分自身でも驚くくらいに、ほんとうに色々な色が出来たんだ、と。
(なあ、ヨハン)
「なあ、ヨハン。オレは……変わったかな」
「は?」
 突然とも思える言葉。
 ヨハンは話の流れをつかめていない様子だ。
 しかし、「うーん?」と唸りながら顎に手を当てて、
「変わった、ってゆうか、十代ってさ、俺の事あんま好きじゃなかっただろ」
「そんなことないぜ」
「そうか?」
「まあ、少し苦手っつーか、どう接していいのかわからないってことはあったけど……」
「十代はさ、そう簡単に人は変われないぜって前に言ってたことあったよな」
「え?あ、ああ」
「それって、今もそう思ってるか?」
 真っ直ぐ、射抜くように見つめるヨハンの視線。
 その視線を一身に受けながら、十代ははにかんだ。
 ヨハンと出会って、力づくで気付かされた事がある。
「ヨハンと一緒にいると、それは違うんじゃないかーってなんか力技で思い知らされた気がする」
「なんだよ、それ。つか、お前今も俺の事苦手って思ってる?」
「そんなことはない」
 そう、言葉を区切り、十代視線を真っ直ぐヨハンに合わせた。
 するとヨハンは穏やかに笑って言った。
「じゃあさ、俺はお前の親友になれたか?」
「何をいまさら!」
 十代が思いっきり即答すると、ヨハンは弾けるように笑い出した。
 夏の季節にその大輪を華やかに彩ってる向日葵の花のように。
 その笑顔が、なんだかとても心地よい空間のように感じられて、十代はまぶしそうに目を細めた。
 なんだか目の奥が少し熱かった。
「なあ、ヨハン」
「何?」
「……オレはお前の親友になれた?」
 風に解けてしまいそうなくらいな小さな声で、つぶやくように言った。
 眩しくて、眩しくて、手の届かないと思って、焦がれた存在。
 手に入らないなら、望まないと心のどこかで諦めようとしていたほど、焦がれた存在。そんな彼が今は隣にいる。
 けれどそのことは蜃気楼のように心もとないもので、そのことが実感できなくて、いつか終わってしまうんじゃないかってそんなことを心のどこかで思っているものであって、ついついそんな事を言ってしまったのだが。
 けれど、十代の小さな声をヨハンはしっかり受け取ったようだ。
「はっきり言うぜ」
 ヨハンは十代を真っ直ぐ見つめ、きっぱりと言った。
「何を、イマサラ」
 そう言って太陽に負けじと明るく咲き誇る向日葵のように、眩しく笑った。
 以前はほんの、ほんの少しヨハンの事が苦手だったのに、今ではなによりも大切だと思える。
 人の心は常に流動し、その彩りを変える。
 十代はそんな変化を齎してくれた目の前の親友が、今では何より大切に思えてならない。
 不変のモノなどない。
 だからこそ、この一瞬が大切だと。
 ヨハンはそう言った。
 苦手だと思ったのは、ヨハンの感情表現が余りにも真っ直ぐだから。
 心の奥の奥で、どこか一歩引いて自分を見つけているような、そんな自分にとって、それは少し威力が大きかったのかもしれない。
 しかし――――
 苦手意識を身軽に飛び越えて。
 不安と悲しみの雲を溶かして。
 隔たれた壁を難なく壊して。
 ヨハンは十代の中にその存在を大きくしていった。
 この移りゆく季節と共に。
 自分の気持ちはより一層深まり、ヨハンへの思いはその彩りを増す。
 不変のものなど、無いと思うから。
 今感じる、この一瞬が大切。
 ヨハンと過ごす、この一瞬が何よりの宝物。
 不変のものなど、今は無いと思うから。
 世界は、常にその彩りを変える。
(その方が、きっとおもしろいよな。そうだろ――――?)
 ヨハン。

 ヨハンと出会って、初めての夏。
 移りゆく季節は、夏の終わりを迎えようとしていた。

 彼への思いもその彩りを増しながら。










end.





As Brilliant As Brilliant
2008/August




As Brilliant As Brilliantの節さまより残暑お見舞いを頂いてきました。
ヨハンが嫌いというか苦手な十代が実は好きだったりします。自分では書けないのでどうしたものかと思っていたら、節さんがそれはもう素晴らしい感じに書いて下さって、持ち帰り自由なのをいい事にかっぱらってまいりました。我が人生悔いなしです。