92 マヨヒガ |
死んでいた風がそよぎ、縁側に寝転がった総悟の斜め頭上で風鈴を揺らした。格別何の特徴もない風鈴は、微かに動くだけでまだ鳴らない。 炎日に灼かれた草いきれが冷めていく。 今日は暑かった。屯所全体を、疲れた空気が包んでいる。 土方の自室を障子一枚隔てて寝そべっていると、部屋の入り口の障子の向こうから「副長、書類です。」と呼ぶ山崎の声がした。 「あれ、いねぇんですか」 問いかけた後、「お邪魔します」と障子が開き、畳を擦る軽い足音がした。 「そろそろ起きないと風邪引きますよ」 迷いなく縁側まで近づいてきた山崎は、縁側に続く明障子をがたりと引いた。覗き込まれるのが気に入らない総悟は上体を起こして胡坐を組んだ。日没直後の暗くなり始めた庭の白が目に入ってくる。 「……何でィ、山崎か」 どこからか飛んで来た鉄砲百合の種が、今年は屯所中にぽつりぽつりと白い花を咲かせている。雑草の中でひときわ高く目立つものだなと総悟は改めて思った。 山崎は沖田の右側にきっちり正座した。 「副長、知りませんかね。俺、この書類届けてしまいたいんですけど」 「生憎知らねェなァ。市中見廻りじゃねェのかィ」 少し困ったような問いに気の入らない返事をして、総悟はまた庭に目を向けた。 高さを揃え、首を並べて地面に水平についた花は、閉じた今重たげで茎を折りそうだ。 「うーん、確認したら居なかったんで。それじゃ、沖田隊長渡しといてくれますか」 ほんとうに何気なく、山崎は総悟がまだここにいるだろうことを疑わないように言い、思わず振り返った総悟にバインダを差し出した。そのまま総悟が無言で山崎を見つめる具合になった。すると、少しあって山崎はでたらめな明るさを捨て、へらりと肩の力を抜いた。 「最近、沖田さんは副長に対して呼び方が揺れてるんでね、まあちょっとしたお節介ってやつですよ」 山崎は、分かりやすい、と口元だけで笑った。沖田はその口元を見つめた。 この頃沖田にとって土方は、「土方」でも「土方さん」でも「副長」でも「あの男」でも「あの野郎」でも「あのひと」でも足りない。「土方さん」に固定できない。何と呼べばいいのか、仕事を離れると沖田は実は途方に暮れた。固定してしまってはいけない、それだけがはっきり分かる。だから半ば無意識に呼称が揺れている。 格別に何も言わない沖田に、山崎はちらりと視線を走らせた。 「余計なこと言っちゃいましたかね、」 「山崎ィ、」 あのひとを。わずか数秒だけ、沖田は土方のことをあのひと、と心の中で呼んだ。毛虫を踏みにじって歩くざらざらとした不快がある。 「何がしたいんでィ?」 静かに問うと、山崎は頭を掻いた。 「やぁ、ほんとうにただのお節介で。すみません」 遮られると、沖田はそれ以上問いつめようがない。途絶えがちだった蝉の声がまた止んだ。長く伸びている影が刻々と薄くなりゆく。 そういったものに紛れたように、山崎は沖田の間合いを軽々と侵して書類を押し付け、足音を立てずに去って行った。 「万事屋の旦那にもよろしく」 去り際の一言は、なぜか息が詰まった。悔しい。 山崎の気配が完全に感じられなくなると蝉が再び聞こえるようになった。昔何て無力に鳴くのだと思ったことがある。 庭に向き直り、沖田はひとりごちた。 「万事屋の旦那?」 あれは近しいなにものかだ。沖田の手本になりえる、既に土方とは異質の存在だ。万事屋は、かつてよく見知ったもののように沖田を知っている。 傷を負ったことのある万事屋の周りには、低く甘い修羅の音楽がたゆたっていて、何がしか沖田がそれに触れるたびに鳴り響くのだった。その音楽が何を湛えているのか、まだ総悟には正確にはわからない。 ただ、万事屋のもとでは、総悟は加減を知らずに叱り飛ばされる完全な子供だったし、土方をどんな風にも呼ばずに済んだ。 万事屋の土方に対する態度は、面白いものをつついて遊ぶくらいのもので、かつ、明らかな線が引かれていた。本気でやりあっていても、万事屋は必ず一歩引いている。土方は気づいていない。できることなら、それに気づかされるようなことを土方がしでかさなければいい、と底の底で沖田は思う。たとえばそうなって落ち込むのは自業自得にしても、沖田は、土方にそういう面で傷ついて欲しくない。土方が大人の男であることを信じられていない。 土方が立場を捨てて喧嘩をしにゆくのはいい。そうでないときが土方の何かを奪ってゆく。その期間が長く続けば続くほど何かの喪失は間違いないことであり、それが、沖田には赦せない。紅い紅い夕焼けに、土方が何かを失くしたと気づくような歳月を感じるような、そんな日が来たらお終いだ。 「お〜にさんこちら」 沖田は調子外れに歌い、ぱたんと後ろに上体を倒して寝転んだ。 昔した鬼ごっこ。夕闇に一人が抜け、もう一人が抜け、自分以外いなくなる。今では、それは過激攘夷志士を取り締まる鬼ごっこに変わった。 天井の木目が、ウエハースに見える。沖田はまた万事屋を思い出した。 一度、駄菓子を山ほど抱えた万事屋に、懐から取り出した飴を口に捻じ込まれたことがある。また一度、どんな表情をしていたのか、餡蜜を奢られたこともある。「旦那、金無ぇんでしょうが」と呆れると、「おまえが払え」とパフェを二つも食われた。 それだけで万事屋は、知らないところに沖田を連れ出してくれる。 かつてよく見知ったものの片鱗を万事屋はやり過ごし、ここにくるな、ここにはまだおまえは役不足だと芯を抉るやり方で沖田を躾ける。陥りがちな歪みはこっぴどく叱り付けられて、すこし、楽になる。 そう、楽になるのだ。 それが、総悟にとってはひどく新鮮な驚きだった。 本当は何にも縛られないのが沖田の望む在り方で、そうでなくては、今の沖田は均衡を喪失する。 ちりん、ちりん。風鈴が音を立てた。 束の間の今は、沖田は、土方からも山崎からも真選組からも沖田自身からも自由だ。まだ自由だ。 軽く汗ばみながら、沖田は目を閉じた。 |