91 サイレン








 どこかの工場の昼休みを報せるサイレンが、遠くから靄を帯びて教室の中にまで柔らかく伝わってくる。窓際後ろから三番目の席で、獏良はうつらうつら彷徨っていた意識をふと立ち返らせた。あと十五分もすればこの教室も昼休みだ。じきにここにも、クラスメートがカバンに忍ばせている弁当やパンの熟れた匂いが満ちるだろう。喧騒と開放を待つそわそわとした教室の雰囲気は、獏良にとっては他所事に思えたが、あくまでも現実だった。一瞬ここが熱のない硬質のフィギュアの世界であれば、と獏良は想像し、それならどれだけ良かっただろうと遣り切れなさが溢れた。
 以前にバクラは、現代の学校生活のだらだらとした日常に対して、理解しかねるといった風に呆れていた。好き放題している癖に、ほんの時々、気まぐれのように話しかけてきた。そんな時は決まって優しかった。傷の匂いと自虐を感じた。彼がいるという気配とそれがもたらす緊張は、獏良にとっては身に染みついていた。怯えて憎んでもう恋していた。どこかがすうすうする。足りない。プールからの歓声に引かれて獏良は窓の外を眺めた。
 無人の校庭は光っていた。水はけのよい白茶の土の中の、細かな石英の粒子が反射しているのだ。
 彼はここを砂漠とすればよかった、と獏良は願う。バクラに対してそれは残酷なことであるのだろうとぼんやりと思った。
 今度こそは行かなければならない、彼の生まれ死んだ場所を見ずに済まない。きっと呆然とすることしかできないだろう、そして彼がいたなら肩を竦めたに違いないと思うに決まっている。それでも、友人が還ることを見届けずに、これからが区切りなく続いていくことが獏良には耐え難かった。
 教室に目を向けると、眩しさに慣れた視界に赤暗い影が広がり、暫くして人物の判別がつく。遊戯は、廊下寄りの席の一列前に座って真っ直ぐ前を見ていた。珍しくもう一人の遊戯だった。獏良の視線を感じたのか、彼が振り返り目が合った。獏良は反射的に表情を強張らせてしまったが、遊戯はゆっくりと獏良に笑いかけた。再度の死へ近づく彼は澄んでしまって、見て切なくなる。獏良はとびきりの笑顔を返した。
 自分が勝利を手中に収めずに消滅することを、バクラは予期していただろうか。大事なものを総て奪われ復讐も果たせず死んで死に切れず、憎しみの原因を忘れるくらいの間の宿願も叶わずに、そう思うと口惜しい。
 あっけなさ過ぎた覚悟のない別れは、悔いることばかりが押し寄せる。
 そもそも獏良や遊戯と和解して未練なく還る彼など腹が捩れるほど可笑しいくせに、今、自分自身から手痛いしっぺ返しを食らっている。
 バクラとの関係においては、獏良は故意に傷つけられることを欲した。
 腕に大怪我したとき、嬉しかっただなんて、彼以外の誰にも知られたくない。
 彼が獏良の身体を使った生きたしるし、彼が獏良を媒介にして生きていたという生々しい証を、手にしてあのとき獏良ははしゃいだ。
 バクラはそれを笑っていたような気がする。知っていてくれたらのならそれでいい。
 死者に恋をした。それを引きずったままでいる。
 影のない正午の白い砂は、熱に揺らめいている。しかし決して遥かエジプトの蜃気楼を映しはしない。照りつける光線だけが遠い国でも変わらない。生命ひとつ感じさせないここも一つの墓だ、と獏良は思い、何百万の一に縮めたら彼が生きたエジプトをこの校庭に移すことができるだろうと埒もあかない考えに遊んだ。
あいたい。





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