76 影法師








  部員が足りない練習に、筧は少し焦っていた。自主練習までこなして上がると、もう誰もいない。
 帰国してから、苛々することがあると、筧は屋上でひとり時間を潰す。アメリカでしばらく自棄になっていた時期夜遊びを覚えてから、門限は無いのと同じだ。高層ビルの絢爛たる喧噪を見ると懐かしさで胸が悪く、戒めが甦る。
 出入りは禁止されているが鍵も随分前に壊れたまま放っておかれて、好きなときに好きなだけ頭を空にするのに具合良かった。
 十五階までのエレベータの周りの壁の中では、ブルーライトに照らされた熱帯魚たちが泳いでいる。
 更に上まで行くエレベータを目指し、筧は夜の廊下を端から端まで歩いた。
巨深高校には、至るところに水族館じみた水槽がある。食堂は四方八方が明るい水槽になっていてさながら水族館で、殆どの教室にも長さ数メートルの大きな直方体の水槽が設置されている。色とりどりの熱帯魚からカメまで飼われている種類は多岐にわたる。そして夜になると、学校中でこぽこぽと濾過装置の音がひときわ響く。
 ちょうど食堂のある階だった。何も思わず通り過ぎようとした筧は、ふと足を止めた。何かが目を引いた。教師が居ては厄介だ。
 気配を殺して覗くと、人間がいた。
 色の抜けた髪の毛の先だけが見えた。
 生徒だと分かると興味が湧いた。帰ってきたばかりで、元居た場所にも関わらず冒険心が強くなっていた。
 食堂の入り口では全面ガラス張りの巨大水槽は、うっすらと光っている。
 普段自然光と照明と生徒の喧騒で満ちている食堂は、今は人気もなく最低限の照明が青く物の影がわかる程度だ。非常口案内が白く、自販機の売り切れ表示が赤く光っている。
 白いテーブルとパイプ椅子が少し乱れ、そこに水の影がゆらゆらと落ちている。
 暗がりの中で、モーターが低く唸る音が震え、異空間に迷い込んだようだと筧は思った。
 窓際近く、リノリウムの床に人影があった。
 筧は息を吸って一歩踏み出した。
 まだ春シャツ一枚でも寒い夜、赤いタンクトップが膝を抱えてうずくまっていた。
 低いテーブルの足に身体を凭せ掛けて全身を弛緩させている。
 魚たちの銀色の腹と鱗が光る。近づくと水槽に影が落ちて、彼は身体を竦ませそして大儀そうにゆっくりと振り向いた。
「……水町、」
すぐに筧にはそれが誰だか分かった。
「悪ィ、誰だっけ。」
億劫そうに水町は言葉を投げ出した。
「筧。筧駿」
「うっわ、でっけー。」
 感嘆したように水町はあけすけに言って寄越した。その実、目はガラス玉のように綺麗でかつ何も写していない。
「おまえもだろ」
「まーね。」
だらり。また水町は身体中の力を抜いた。それでは立てないと思った。
「筧さ、」
膝に顔をうずめた上目遣いで水町は立ち去らない筧を見上げた。
「早く帰って寝ないと身体壊しちゃうって」
「そんなヘマしねえよ。どっちかっつーとおまえの方がやりそうだ」
「はは、そうかもね」
 愉快そうに水町は笑った。
 本当に楽しそうに笑った。 空虚だ。耳障りに耳が鳴る。
 ゆらゆらと水草が水の影で揺れる。
 水町は再度、元の場所で膝を投げ出した。
 リノリウムの床に座り込み、放心したように目線だけは窓際の水槽に固定されている。
 筧のことなど意識にないような素振りだ。
 近づいて来るな。
 懇願に似たそれだけを読み取って、筧はそのまま椅子を引いた。
 ガタガタと思ったより大きな音がして、水町が勢いよく振り返る。
 数メートル離れて腰を落ち着けた筧を見て、呆れた色が掠め、また水町はぼんやりと水槽を眺め出した。
 お互い距離を測っている。背中からこちらを意識する気配が漂っている。二列隔てた水町の髪が、ぱさぱさと乱れていた。
 そのまま、筧も水町も黙っていた。
 少しずつ、意識が消えていく。
 水槽のガラスに映る水町の横顔はゆらゆら揺れている。
 小さな銀色の魚群がその背後で波打った。
 水町が水泳部に所属していて夜になってもプールで泳いでいることを留学前の筧は知っていた。
 いつ知ったかはもう忘れた。夜遅くに暗い水面は僅かな光を反射して、何回か見たその光景はいつも夢のようだ。
 そのときはバカじゃないのかと片付けて、それでもまるで銀色に光る髪が印象に残った。
 水町には水中の方が呼吸しやすそうだとそれを見るたび思ったのだ。
 陸でも類稀な身体能力を発揮する身体は、水の抵抗を受けて嬉しそうだった。
 立つ波をかき分けて水を蹴り進む。居心地悪そうにも思える姿勢の悪さが、そこでは伸びて、全身を取り囲む物質と格闘している方が楽そうだった。水の塊と戯れている。
 今はプールには誰もいないのだ。がらんと静まり返ったプールサイドではビルの間冷たい風が吹き荒んでいるのだろう。筧は舌打ちして踵を返してしまいたくなった。
 咽喉に魚の骨が刺さったような違和感がある。もどかしくて痛い。
「何かさ、べたーって水槽に手ぇくっつけて見てるやついるじゃん?」
やにわに言い掛け水町は手をかざしてみせた。
「魚ってさ、人間の体温が熱すぎるから小さい水槽とか手で触ってるだけで火傷するんだってさ」
「触りたいのか?」
「違えって。帰ろーぜ」
 伸びをして水町はすっかり憑き物が落ちた爽やかさで寛いだ。
 筧は思わず歩み寄って寒々しい腕を掴んだ。
 魚のようかもしれないと思った身体は表面こそ冷えていたが、すぐにそれと分かるほど熱かった。
 水をあたためる熱を持っている。 筧は思わずスタートレックじみた制服の上を脱いでばさりと水町の肩に落とした。
「着て帰れよ。風邪引いたりしたらゆるさねぇ」
 塩素で傷んだ髪からは水の匂いがした。
 その日以来、魚のように水を、そして独りを恋しがる水町の姿を時々、筧は無性に見たいという衝動に駆られる。
 そういうとき、筧はそっと夜の食堂まで足を伸ばす。
 こぽこぽと気泡のもれる音が紡ぐ檻に、銀色と虚ろを湛えた水町が居る。



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