僕たちの間には、ベルリンの壁よりも高く聳えるものがある。
 そう言ってしまえば、それは、それで、それだけのことだ。




72 喫水線







 波の音がする。
 大介は不意に目覚めた。暗い中で目覚ましをつかむと、まだ夜の二時だ。
 短い夏休みに帰省して、三日目の夜だった。
 久しぶりの家で居心地が悪いのか、と再度眠りに沈もうとした大介を、引き留めるものがあった。部屋の入り口で気配が揺れた。
 遠くで、波が規則正しく打ち寄せる。不意に、大介は幼い頃寝付けなかった夜を思い出した。自分だけが起きていると思う夜はひどく恐ろしく、しかし波の音だけは永遠に続いているのだと思うとそれが心音と重なって抱かれるように眠りに誘われた。今は。
 しっかりした足取りで音を立てずに、誰かが部屋に入ってくる。大介は寝たふりをして息を殺した。
 誰なのかは、疑う必要がなかった。
 障子を閉めた雄介は枕元まで来て、腰を下ろした。身動ぎの気配で分かった。見下ろされている。視線が頬を焼く。反応してはいけない。寝たふりを。
 必死で自然を装うとするうち、大介は夢とも現ともつかずまどろんだ。
 きらきらと光る波打ち際で、小学生の雄介が何一つ隠さない幼い笑顔を大介に向けている。しかし、雄介を祝福する一方で海は大介を引きずり込もうとしている。雄介は気づかないで波と戯れている。
 雄介。
 大介の立つ砂浜は足元からずぶずぶと海に沈んでゆく。
 雄介。
 心の中で叫ぶのに、声は出ない。あっという間に膝までが濡れた砂に埋まった。
「兄ちゃん」
 夢か。
 現実の雄介の掠れた声に、大介は落ちかけた意識を取り戻した。
 海の近くで育ったのに、大介は海には恐れしか抱けなかった。父を奪った海。生まれたときから親しんでいるから愛着はある。けれども、心底となると、怖いのだ。
 海で生きてゆくような、そんなものにはならない。海は、陸でない海でしかない。
 本土と島を結ぶフェリーでも、落ちたら死ぬ、そういうことばかりが頭を巡る。
 幼い頃から「外」を見せてくれた奈緒子に憧れた。自分自身、少し「違う」と思っていたから余計だった。雄介のように、この島に愛されこの島が似合う余計なものを必要としない海の男とは、違う。いくら勉強が出来ても、雄介のような生粋のこの島の人間にはなれないのだと、幼心にぼんやり悟っていた。
 だから、「外」のような、物の溢れた世知辛い過剰と不足が入り乱れる世界が、中途半端な自分には似合いできっと「外」でやっていけるとも思った。
 けれども大学に入り、実際生活してみると莫迦のように波切島に郷愁が湧いた。
「……雄介」
 自分も寝起きの酷い声だ。
 このときがいつか来てしまうことを、大介はもうずっと前から知っていた。散々逃げて直視せず、気のせいだと思い込もうとした。
 自分の好きになった女の子が、雄介を好きになって、それで、どうなったろう。
「兄ちゃん、起きてるか」
 何かが起きてしまう。潮騒が聞こえない。
 雄介の気持ちに、大介はいつ気づいてしまっただろう。嫌悪はなかった。だから余計に苦しんだ。あるはずがない、と決めつける傲慢は、雄介の眼を見ると吹き飛んだ。
 雄介を愛している。奈緒子を想う感情は、憧れだと分かってしまった。それでも何もできない。もしそうなって、どこへゆける。恐ろしい。
「返事しなくていい」
大介の躊躇いを最初から承知したかのような、強い言い切りだった。
 大介に、返事をゆるさない。
 おまえは辛くないのか。その問いかけもゆるさない。
 大介は知らず震えた。この時が。
「俺、本気だ。兄ちゃんが好きだ」
 目を閉じたままの大介の唇に、柔らかいものが触れた。
 ベルリンの壁が。
 触れるだけの唇は、乾いていて、それだけでざわりと蠢くものがあった。
 もう、これだけでいいと思った。
 雄介の強さ、弱さ。
 己の保身を思う気持ち、波切島の海と空、小学校の校庭を走り回った頃、海の中を走れると言った雄介の笑顔、悔し涙を呑み込んだ雄介の眼差し、漁港の潮の匂い、波、雄介の握りしめた拳が震えていた夜、雄介の帰るたびに伸びている身長、雄介の海の男になってゆく身体、ふと海を見ている雄介の大人びた表情。雄介の、
雄介、
雄介。
雄介だけが。
 泣いてはいけないと思った。
 大介は、今一度、雄介の兄であることを、呪って感謝した。
 ――父さん。母さん。
 その糸を伝い、無明と思える岩間を行く良心の呵責と喜びに耐えかねて蹲っている間に、それだけでないものに、雄介はもう独りで辿り着いていた。
 目を開け、大介がゆっくりと上体を起こすと雄介は唇を噛んだ。
「兄ちゃんが欲しい」
「うん」
 もういい。
 頷くやいなや、熱い身体に痛いほど抱きしめられる。意識の只中をがらがらと石が崩れていった。
 辛くないのか、問いかけの答えはここにある。
 声にならない雄介の嗚咽が空気を揺らす。
 大介も、雄介の背に腕を回し、強く抱きしめ返した。
 自分たちを育てた島で生きていけない。
 けれど、雄介がいるなら、そこには、波切島がある。自分にとってはそうだ。
 自分を抱く雄介の肩は、まだ少し頼りない。泣いてはいけないと思ったのに、嗚咽で震える身体を止められなかった。





同人やってる人をみかけたことがないちゃんとした感動大作。でもゆうすけは数ある攻の中でも、一、二を争ういい男攻だと思います。
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