69 片足








 本当に美しいのは、秋よりも冬の月だろう。
空気が透徹している中、鏡のような満月が輝いていた。冬の肌を突き刺す寒さとあいまって、ぞっとするような美しさがある。
 週の最後の夜に、市郎はいつもどおり彼を訪ねた。夏宿を見舞うのは、彼がここに入院してからの市郎の日課のようなものである。診療所といっても大きなものではない。郊外にある、古びた建物だ。 病室は、想像通り暖かさに包まれていた。市郎が歩いてきた市松模様の冷えた闇とは好対照をなす。白熱灯の下で、夏宿はあらぬ方向を見据えていた。端正な顔立ちはそのままに、睛に虚ろな色を湛えている。
「──どこにいる?」
 澄んだ声が呟く呼びかけに、市郎は眉をひそめた。いくら慣れているとはいえ、友人がこのような状態にあるのを見るのは、あまり気持ちのよいものではない。痛ましさが先立ち、何も言えなくなってしまう。
 夏宿が年の割には落ち着いたところのある少年だったからかもしれない。市郎は、自分が彼の冷静さを頼りにしていたことを、この一年で身をもって知らされた。
「そういう風に、故意と間違えるのはやめてくれないか。僕もそんなに気が長いわけぢゃない、」
だが、現状の夏宿に対してはどうしても冷淡にあしらってしまう自分を、市郎自身持て余している。
「……今日は、藍生先生は来るの?」
「――、何をしてる?」
 今の夏宿には、他人の言うことは全く届かない。市郎の言葉が伝わる筈もなかった。
「僕はそんな名前ぢゃないよ、」
 自分の言葉が、夏宿に何かよい影響を及ぼすのではないかという淡い幻想は、とうの昔に潰えている。それでも言わずにはいられないのだ。
 市郎は呼吸(いき)をついて、病室の窓の外に視線をやった。月の光を受けて、枯木立が闇に青白く浮かび上がっている。
 野茨が目についた。枯れた枝には棘だけが残っている。花の後むすぶ球形の偽果は、真赤に熟しルビィのような輝きを持つ。葉が落ち尽くしたあとも、しばらく枝上にあるのだという。夏宿が言ったことだ。
 夏宿は今年の夏の初めに池に落ち、以来著しく体調を崩しこの病院に入院している。だが、彼が入院しているのは躰の具合だけが原因ではなかった。
「―― 、雪を見よう。随分積もったはずだよ、雪折れの音がしたから、」
 もうずっと、夏宿は同じ状態にある。居もしない幻影の誰かと戯れている。
 それでも、いつもの夏宿であるときもあった。以前はそれが殆どだったはずだ。秋の終わりが近づいてから、夏宿は前にも増して「遠」くなることが多くなった。それに伴い、市郎をその幻影の人物と間違えることが常となりつつある。だが、市郎を市郎だと認識している節もあり、市郎は病室を訪れる度、夏宿に振り回されどおしだった。夏宿が、どういうつもりで幻の誰かを創りだしたのか、知らない。想像も出来なかった。
「ここは、気持ちいいよ。……―― 、」
 藍色の睛が突然、市郎を捉えた。それに惑わされ、これまでの思考も瞬間揺らいで消えてしまう。視線を交えて夏宿は、
「次はどこへゆくのかくらい、教えてくれたっていいぢゃないか。ずるいよ、――は僕には何も言わずに全部決めてしまう、」
悔しさの内にも甘えの滲んだ調子で不平を詰った。市郎の前でなら決して見せようとはしない姿だ。
「……」
 市郎は何も言えない。いつものことだ。
 このままではどうにもならないとわかってはいる。だが、かといって自分が何か出来るわけではないのだ。夏宿の主治医の方が余っ程今の彼の相手として相応しかった。
「藍生先生を呼んでくる。僕ぢゃ埒があかないんだろ、」
 目を逸らして部屋を出ていこうとした市郎はしかし、思いがけない力で引き止められた。確実に痩せた躰には似合わない程の力だ。
「市郎は僕に、先生に会えと言うのか、」
 口調は微妙に違ったまま、夏宿は市郎を認識していた。冷静な声音とは裏腹に、必死に行かせまいと縋る様子が演技なのかそうでないのか掴めない。途惑いを隠せずに、市郎は立ち尽くした。夏宿が主治医を避けていることは、明白だった。定期的な診断の他は、何があっても呼ぼうとはしない。そこに市郎は変わらぬ夏宿を見た。
 何も言わずに突っ立っている市郎に癇癪を起こし、夏宿が手近にあった枕を投げつけてきた。まるで予測していなかっただけに、市郎は狼狽した。
「市郎は、先生の方が好いんだ、」
「誰もそんなことは言ってない、」
 市郎は夏宿を宥めようとしたが、言葉がつまってうまくいかない。当たった枕の痛さが頬に熱かった。その様子を見て、夏宿は唇を噛んだ。
「嘘だ。僕の病室に来て言うことはそればっかりぢゃないか、」
「……それは夏宿が、」
 思わず口にしかけ、慌てて言葉を呑んだ市郎に、夏宿は諦めたように笑った。
 瞬時に印象が変わる。
 市郎のよく知る夏宿だ。
「ごめん。……この頃はもう、僕が何処にいるのかさえ、わからないんだ。」
彼は止める市郎を無視しベッドから降りた。そのまま、曇った窓際へ裸足のまま歩いてゆく。
「……市郎には迷惑かけてばかりだね、本当に。」
窓から、黒々とした影を浮かび上がらせる林を見やり、夏宿が呟いた。
「今も、これが現実かどうかはわからない。」
「そんなこと、」
 言葉を失う市郎に背を向けたまま、夏宿は満ちた月を仰いだ。寒寒とした光がいっそ心地よい。
「この頃は、」
 振り返って言葉をつなぐ夏宿の寝間着の襟もとに、鎖骨が浮き上がっている。病んだ印象を、鮮烈にした。
「すぐに眠気が襲ってくる。寝てばかりだから、うつらうつらしか出来ないんだ。それで余計に夢をたくさん見るんだろう。……見分けがつかなくなる、どれが夢でどれが現実なのか。」
夏宿は微笑んだ。柔らかい表情は市郎からは見えない。月の光が邪魔をした。
「夢と現実の狭間を漂うのは案外楽しい。躰が融けてゆく気がするんだ。」
「……」
「それでも、まともなときは、残っている。そんなときは、市郎、君のことを思い浮かべることにしている。自分が以前に戻れるような気がするから、」
「夏宿は何も変わってないぢゃないか、馬鹿なことを言うな」
 漠然とした不安に駆られ、市郎は夏宿の言葉を闇雲に否定した。夏宿は軽く睛を閉じた。
「病室から外を見ていると、日毎に日脚が短くなってゆくのがわかる。終日薄暗い感じがして、気が滅入りそうになるんだ。」
「夏宿、もうそこは寒いから戻った方がいい、」
市郎の声はまるで夏宿に届いていないかのようだ。彼は、硝子が伝える冷気に、懐かしむように手を当てた。
「――と過ごした季節で一番印象に残っているのも冬だった。凍てた星が見えると、どんなに寒くても躰が引き締まる気がした。……大気が澄んでいるからなんだろうね、青い光が近くに見えたのを覚えている。」
「……」
 夏宿が嬉しそうに笑うところを、市郎は随分久しぶりに見た。
「それが朝起きると、霜で地面も屋根の上も一面真白なんだ。澄み切った碧空と陽光が眩しいくらいで、日が昇るにつれて軒や木の枝から滴が落ち始めるのを二人で見た。」
「……夏宿、それは、」
「すごく綺麗だった。たとえ躊躇っても止まらないからいいんだ、機械的に落ちてゆく、」
 夏宿の声に覗く焦がれる響きに、市郎はまた言い様のない不安がこみあげてくるのを感じた。何か、忘れていることがある様な嫌な気分だ。夏宿の話はそれを鋭く抉った。
「その人の、何もかも失くしても、残るものがあるんだ。思い出が薄れ、あれほど焼き付けた筈の面影ですら消えてゆくのにね、」
 彼は言葉を切った。静かな笑みを浮かべ、しかし瞳にはなぜか凍てついた光をひそませ、市郎を見つめる。
「何も、変わらないなんてこと、有り得ない。そうぢゃないか、」
ストーヴのたてる音がひどく響いた。
「まだ、わからないんだな、市郎、」
いつも君はそうだ。遅れてはいけないときに限って遅れる。この時間はすべて君のものだったのに。
咎めるように自分を見る夏宿を、ただ呆然と見返していた市郎の元に、ジャスミンが甘く匂った。
「行かないと、」
不意に表情を失った夏宿が、呟いた。
「夏宿、どこへいくつもりなんだ、」
「弥彦がいない。どういうことか、君にももうわかっているはずだ、」
この世界は、冷たく体温を失った躰の持ち主を閉じ込めておくための籠だよ、と囁く夏宿の瞳は糾弾よりも哀しみを湛えていた。
「市郎、僕は君の創った檻の中で居たかった。」
今、手を伸ばしても遅すぎる。
「夏宿、僕は、」
 君をつかまえて君の近くに居たかった。どんなことをしても。
 伸ばした手は、繋ぎ止めることだけを、望んでいた。
遠くで送り火が燃え尽きる。鳥の声は途絶えた。







長野の「魚た○の離宮」のしかもパラレルという誰にも分からないモノを発見。軽く七年は前(耽美から入った人) 。説明すると、夏宿(かおる)は本当は死んでいて、でも市郎はそれを忘れて勝手に違う設定として思い込もうとしているという。夏宿の「――」は本当は市郎を呼んでいたり(本当説明しても分からない)。市郎も片足突っ込んでますよ、というこじつけ。


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