09 かみなり








 バラバラと打楽器の音が鳴り止まない。うるさい、と思った。それから、酷く寒い。余りの寒さに歯をがちがち噛み鳴らし桂は目を開けた。
暗い和室の天井が飛び込んでくる。ここはどこだ。
一拍遅れて現実認識がついてきた。
潜伏先の一つだ。聞こえているのは梅雨の雨が窓と屋根に打ちつける音だった。
トタンの騒々しい反響が遠くなり近くなり、奇妙に膜を通したようにゆらめく。ぞくりと悪寒が背筋を伝った。
ゆらゆらと水中にでもいるようで、酔いそうだ。
何もしないで床に沈んでゆくような、床がそのまま回り出すような。
寒気が引かず、掛け布団に伸ばした手は空を切った。ここには寝袋しかない。仕方なく、みのむし状態の寝袋から這い出す。やけに熱が篭っている。
(風邪のはずがない)
こんなところで風邪ごときで倒れている場合ではない。 幕府の大々的な取締りがあるかもしれぬ、との風評に江戸中の反幕勢力は神経を尖らせている。熱があるなど気のせいだ。
枕元の目覚ましは夜七時を指している。夜のうちに江戸を抜ける算段だった。
早く着替えて出立しなければならない。
よろめく身体を起こし、桂はふらふらと数歩窓へ歩んだ。震える手を伸ばす。アルミ製のサッシは予想通り身を切る冷たさだった。
そこにガン、と額をぶつけ桂はずるずる座り込んだ。
自分で吐いた息が、唇を乾燥させる。熱い。嫌な熱さだ。
立ち上がらなければ、と思うほど手足は鉛を詰め込んだように重い。加えて窓の冷たさが火照った肌を冷やしてくれる。もうしばらくこのままで、と息を吐いた途端、意識は遠のいた。
紫陽花が雨に叩かれている。朦朧とした頭でそれだけ思った。
ここは戦場だ。





ひどい雨だった。近くの山で土砂が崩れたという情報が入ってきていた。地盤が緩んでいる。ここも危ない。
誰の陣笠もとっくに用を為していない。部分的な勝利だった。おそらく味方の三割は死んだ。
べっとりと具足に貼り付いた赤黒い血痕は、それを吸った地面ほどは雨に洗い流されて消えなかった。ひっきりなしに伝う雨のせいで、その場にいる全員泣いて見えた。
「退くぞ!」
桂は声を張り上げた。
離れて天人の残党を立ち回っている高杉には聞こえなかったのだろう。わらわらと駆け抜けて退却を始める仲間を一顧だにせず、高杉は刀を振るう。
天人を斬り伏せる高杉を、雷光がストロボのようにこま切れに映し出す。
額を滴り落ちる雨が邪魔する視界に舌打ちし、桂は高杉を凝視していた。
白い鉢巻も黒い革具足もとっくに血で染めあげられている。
最後の一人を斬り伏せて、高杉は唇の片の端を歪めた。笑ったのだ。昏く。雨に打たれた寒気か、肌が粟立った。
「高杉、退却だ!」
桂は近づこうとしたが、どういう訳か手足ひとつ自由にならなかった。 雨が入った目が痛い。
全身に返り血を浴びていたせいで見過ごしていたが、よく見ると、土方は肩の辺りから止まらない血を流し続けていた。ぞっとする。
雷鳴が轟く。
視界が悪い。
ようやく高杉が桂の存在に気づく。
その背後で山が膨らんだ。崩れてくる。
「高杉っ!」
桂は絶叫したつもりだった。声が出ない。目だけで叫んでも高杉は背後を振り向かず、桂にまだ幼さの残る皮肉な笑顔を見せた。
「……!」
絶望に桂は咽喉を詰まらせた。
ひやり、冷たいものが額に触れた。
「おいヅラぁ、生きてるかよ?」
膜を通したように遠くで声がする。
ヅラじゃない桂だ、言い返したかったが咽喉は奥からひりついて動いてくれなかった。ああ夢だったのか、と混濁した意識で桂は知る。
息を吸うだけで身体中が寒い。吐くだけで熱い。関節が痛い。気持ち悪さに胸が焼ける。吐き気がする。
「ち、」
苦々しげな舌打ちを夢うつつに聞いた途端、
「何だありゃ、てめーの趣味の悪いペットどうにかしろよ」
がんがん鳴る痛みのせいで聞こえにくかった声がいきなり直接響いた。
クリアになった。鼓動が近い。背中に腕が回っている。
人肌だ。窓にもたれかかってそのままずるずるとのびていたはずだから、今抱え起こされてどうやら抱きしめられているらしい。目を開けるのすら億劫で桂はそのままに任せた。随分近くで心音がひびく。熱が行き交う。
激しい震えはやがて体温が同化するにつれ収まった。あとは温かさがじんわり広がってゆく。緊張が解けた。
見計らったように、何かが唇に触れた。そして生温かい液体と錠剤のようなものがゆっくり口内に侵入する。桂はおとなしく嚥下した。水が落ちてゆく。
ザッ、ザッ、ザッ、ダダァン、ダン。
雨の反響が隊伍を組んで行軍する足音に聞こえた。薄目を開けた桂の目の端を、極彩色の桜文様がちらりと掠めた気がしたが、確かめる間もなく眠気が襲う。随分と都合のいい幻だろうか。
どちらにせよ、次に目覚めるとき高杉がいるはずもない。いたという証拠さえ残さないだろう。せいぜい、ペットボトル一本が枕元に置かれているといったところだろうか。笑いたい気分になったところで強制的に訪れる眠りに抗えず、再び桂は引き戻されて意識を落とした。窓の外の青紫の花には構いもしなかった。




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