ちゃんと呼ぶ声に自然と惹かれた。高校生にもなってちゃん付けなんて私の性には合わなかったんだけど、彼に呼ばれるならいいかなと思っていた。格好良い見た目のわりにちょっぴり真面目な君のこと、実は結構好きだったんだ。誰にも言わないけどね。
「…留学するって言ってたよね」
「うん」
「どこ?」
「中南米」
「―――そっか、頑張ってね」
 二年生の二月の中途半端な季節に、治安も余り良くない国へ君は留学することに決まった。帰って来た時には就職も進学も絶望的だから、留年すると言って。行かないでなんて言えなかった。だって私は君の彼女でも何でもない友達の一人にすぎないから。引き止めることなんてできなかった。人と違ったことをしたいと真面目に言った貴方を見たから。頑張ってね。それしか言えなかった。
「何語?」
「スペイン語」
「じゃあ帰って来たらスペイン語で自己紹介してね」
「任せとけ」
 心配だった。ただ心配だった。一年間もここにいない。一年間も会えない。頑張って来てね。思う存分楽しんで学んで来てね。何も失わないでね。そのままで帰って来てね。
 私のこと、忘れないかな。忘れないでいて欲しいな。
「…あー、行く前にチョコ欲しかったなあ…。ちゃん、持ってない?」
「…キットカットなら」
「ちょうだいっ」
 鞄の中を漁ってキットカットの袋の中から一つ取り出す。一日中鞄の中に入っていて少し溶けかけていた。冬だと言っても今年は暖冬で大分暖かい。ほんの少しだけ溶けたそれを手渡す時に君の掌に触れて、嬉しくなって切なくなった。もう今日でお別れなんだね。永遠の別れじゃないのに、私達の年代からすると一年というのは凄く長くて、とてもじゃないけど耐えられそうもないもの。
「手作りが食いたいなー」
「……帰って来たら作ってあげるよ」
「本当に!?」
「スペイン語教えてくれたらね」
「やった、頑張って覚えてくるよ」
 ありがとうと笑った顔がどんな気持ちでその表情になったのか分からなかったけど、もし嘘でも冗談でも良いと思った。本命を義理の義理だと偽って来年あげるよ。その時もありがとうと笑ってくれるんだろうか。笑って欲しいな。
「じゃあ、出発する前になったらメールするから」
「うん、バイバイ」
 バイバイと言う言葉が今になって凄く悲しい言葉なんだって思えた。学校から帰る君の後姿を、ずっと、ずっと見ていた。忘れないように目に焼き付けて、一年後にまた分かるよう。明日日本を発つ貴方の姿を消えるまでずっと見ていた。

 翌日の午後五時頃、いつ来るかと待ち遠しかったメールが来た。ベッドの上に正座して目の前の枕の上に携帯を置いて、まるで今から恋人に電話をかけるように格好で。
 メールが来て嬉しかった。だけど同時に泣きたくなった。もうすぐ行っちゃうんだって思えたらメールが来ない方が良かったのにって。
『二時間後に出発します。今電話していい?』
『うん、いいよ』
 メールを送って一分もしないうちに電話の着信音が鳴った。ワンコールで電話に出る。早く、君の声が聞きたい。
『――もしもし?』
「も、もしもし?」
『何動揺してんの?』
 電話の向こうで笑い声がする。いつもの君だった。きゅんと胸の奥が痛くなる。
『……どうしたの?』
「ううん?どうしたのって、何で?」
『や、泣いてるかと思ったけどちゃんに限ってそれはないかー。元気そうで良かった』
「元気が有り余ってる感じだね!」
 本心を隠して無理に元気なのを装って、ここで寂しいと一言言えたら良いんだろうか。男を落とすテクニックを知ってる子ならそうするんだろう。でも私はそんなものは持ち合わせていない。できるなら心配をかけずに飛び立って欲しいだけ。思い残すことも何も無く、空っぽのままで。
『…あのさ、今日のあの質問の答え、冗談でも嬉しかったよ』
「答え?」
『ショートホームルームにやったお別れ会の、クラスで付き合うなら誰って質問』
「ああ…、私ちゃんと空気読んだでしょ」
『うん、大分読んである』
 また電話の向こうからの笑い声。私はそれだけで嬉しくなるの。クラスで付き合うなら誰?と言う質問に、君と書いた。括弧で冗談だよ。ちゃんと空気読んだでしょと区切って。本当は冗談なんかじゃない。だけど言わない。何も知らなくていいの。そのままさよならしたいの。悩むのは私だけで充分だから。
『――あれさ、本当に冗談?』
「うん、冗談」
『そっか…、期待した俺が馬鹿だったんだな』
「……え?」
 受話器の向こうで呟かれた言葉に耳を疑った。それってちょっと期待してもいいってことかな。冗談じゃないって言ってもいいのかな。寂しいって言ってもいいのかな。聞いてもいい?
「それってどう言う…」
ちゃん、聞いて』
「う、うん」
『留学するから敢えて言わなかったんだ。叶わなくてもそれで悩ませたくなかったし、叶っても悲しませたくなかったから。でもさ、ちゃんが付き合いたいの俺って書いてくれて、冗談でも凄く嬉しかった』
 今まで片思いが叶ったことなんてなかったから余計に信じられなかった。素直に喜んでいいかな。でも今、君の顔が見れないことが凄く寂しい。
ちゃんが冗談で書くとも思えなかったから、期待してもいいのかなって思ったんだけど、本当に冗談だったの?』
「…冗談じゃ、ないよ。私も悩ませたくないって思ってたし、叶う訳ないって思ってたから」
 嘘みたいだ。
『帰って来たら伝えるから、それまで待って欲しいんだ』
「うん、待ってる、待ってるよ」
『ありがと、ちゃん。じゃあ搭乗手続きして来る。また一年後』
「うん、またね」
 一年後、私も君もちょっぴり大人になっていることを祈って電話を切った。チョコレートも本命として渡すからね。海の向こう側でもずっと私の恋人。
優しい嘘