放課後、担任の先生の所に行って、これからの進路について色々話し合った。部活も随分前に卒部した。もうすぐ受験だ。単位は充分足りている。成績だってギリギリセーフ。学力はまあまあ、頑張れば大丈夫だと言われた。頑張らないと落ちるとも言われた。そして優しく背中を押された。
「うあー、頑張らなきゃなァ」
 首を捻って頭を掻く。何が一番難しいかって、現状維持が一番難しい。頑張って順位を上げて、上に立った、その時が一番難しい。下は上だけを見ていればいい。上は現状維持と下から上がって来る人と戦わなくちゃいけなくなる。したがって、今以上に頑張る羽目になる。溜息が出た。頑張らなきゃいけないのに、現実逃避をしたくなる。このまま遠くに逃げてしまえば、受験のしがらみから解放されるのに。
「…駄目っ!弱気になるな、自分!」
 首を大きく振って、気持ちを入れ替えた。頑張れ、頑張るんだ。ここで終わっちゃ女が廃る!大きく一歩を踏み出して、鞄を取りに教室に戻った。

「…あれ?」
 ドアを開けようとして、中に人がいることに気が付いた。ドアを少しだけ開けてその隙間から中を伺ってみた。ある机の前にぽつんと立っていた。紙を、じっと見ている。
(…君…?)
 学年で一番頭が良いと噂されていて、生徒会長の彼だった。黒縁の眼鏡と黒の短髪が良く似合う。じっと観察していると、君は紙を手にしてゴミ箱の前に歩を進めた。そこでバリバリとその紙を破き始める。
「ああ―――ッ!」
「ッ!?」
「―――…あっ」
「……、さん?」
 私は思い切り大きな声を出していた。ドアを全開にして、まるで教室に飛び込むような格好で。空気が一瞬止まった。その次に自分の名前がその口から紡がれる。名前を呼んで貰えた。知ってくれていた。そんなことよりも、酷く困惑した顔で眼鏡を鼻の上に押し上げる彼の顔が、やけに目に付いた。
「…なに?」
「や、あの、紙破いてたから…」
「僕のだから問題ないでしょ」
「だって…何だか、大切そうに見てたから…」
 私は彼の隣まで歩いて行った。大きいとは言えないような背だったけど、その威圧感だけは凄く感じる。いつも思う。人と一線を張った空気を纏って、近寄って来るなとでも言いたげな表情。眼鏡の奥に黒い瞳が見えた。誰よりも、綺麗で澄んでいた。私はその瞳から目を逸らしてゴミ箱の中を覗いた。模試結果と書かれた紙切れに目が行った。徐に手を伸ばす。
「ちょっと…こんな大事なもの、何で」
「下がった」
「え?」
「…とてもじゃないけど、余裕で合格、なんて言えたもんじゃないよ」
 自分を嘲るように、君は鼻を鳴らした。もう一度眼鏡を左の中指で押し上げる。でも模試って家族に見せるもんじゃないの?こんな、学校の、教室にゴミ箱に。
「でも…」
「僕が天才とでも思ってた?」
「――うん。…あ、ううん、頭良いなとは思ってた、けど…」
「…さんって素直だよね。あれは僕の努力の結晶だ。なのに先生ときたら頭が良いからって生徒会長に推薦して、この一年、どれだけ忙しかったことか。なのに引き継ぎが終わったと同時に受験に打ち込めだって?成績が下がったらお前らしくないだって?笑っちゃうよな、本当…笑っちゃうよ」
く…」
「両立するってどんなに難しいか知ってるのかな。それを維持するのが、どれだけ難しいか、って」
 同じ、だ。だけど君が言っていることと私が思っていることと同じなのに、全然違う言葉のように感じた。こんなの別次元だ。纏っている空気が違いすぎる。格が違いすぎる。頑張っている度合いが違いすぎる。苦しむ筈なのは貴方じゃないのに、そんな顔をして欲しくないのに、何でそんな悲しそうに笑うの。何で文句の一つも言わないの。何でいつも首を縦に振るの。何でこんなことを私は思ってるの。いつも遠くから見ていた。尊敬の眼差しで凄いなと思ってた。何でもこなせる天才と思っていた。だからつい貴方の言葉に頷いてしまったの。その頑張りの裏に、どれほどの痛みを抱えているのかも知らずに。ごめん、ごめん、ごめんね。頑張りたくないって一瞬でも思ってしまった自分が、酷く惨めだった。
 遠すぎる。貴方には、触れられない。

「――――ッ…」
「…え、ちょっ、うわ、何で…!?」
 ギョッとした表情で私を見た。無性に泣けてきた。泣いたって何も変わらないのに。泣きたい訳じゃないのに。こんな顔、絶対見られたくない。一番見られたくない人。
「…ごめん、何も持ってない、けど」
「う…うん、いいよ、別に…」
 制服の袖で涙を拭ってくれた。吃驚して顔を上げると、困った顔で私を見つめてた。そして気付いた。私は、貴方に笑って欲しいと思ったの。
「いきなり、どうしたの?何かあった?」
 何でそんなに優しいの。一回くらい怒ったって誰も逃げていかないのに。首を傾げて私の顔を覗き込むように、その困った顔を見せる。私はずっと首を横に振っていた。この涙は、決して貴方の為に流した涙じゃないから。自分の思考が酷く稚拙で、だから恥ずかしくて泣いただけ。知られたくない。
 また涙を拭ってくれた。その綺麗な手で触れて欲しくない。私には触れちゃ駄目。なのに、振り解けないのは、その理由は、
「好き」
「…え?」
「好き、です。君のことが、好きです。ずっと見てました、遠くから見てました。今、気付いたの。君が好きです」
 困らせてしまって、ごめん。だけど思い当たった言葉がこれだったから。一回言ってしまったからにはもう二度と引き戻せない。
「好き…です」
「――――え、わ…えと、ごめん」
「…だよ、ね」
「――あ、違う違う。そう言う意味じゃなくって、えと…何て言ったらいいのかな…。僕、こう言うの初めてで、さ…。その、凄く、嬉しい」
 さっきまで私の涙で困惑していた表情は、私の告白で困惑している表情に変わった。耳まで真っ赤の顔を見て、あ、ヤッタ、と思ってしまったのは秘密として。
「うん、宜しくね、さん。…で、いいのかな、あれ」
 照れた笑いを見せた君を見て、頑張れる理由ができたと感じた。維持することは難しいけど、この関係を維持することだけは、酷く容易そうだよ。
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