Goodbye , my eden .

 天蓋付きのベッドに、白い太陽の光が、繊細な模様に編まれたレースのカーテン越しに射し込んでいる。
 瞼を閉じていてもわかるくらいの輝きは、無言のまま額に伸べられた母の手のように優しく、ネリネの意識を覚醒させた。
 ゆっくりと目を開く。ここ数日続いていた頭の痛みは引いたようで、陽の光に抱擁されているかのような、穏やかな心地がした。
 小鳥が囀るのに耳を傾けながら、上半身を起こす。
 体重がかけられたことで、ベッドの腰のあたりがふわりと沈んだ後、抱き上げるように少しだけネリネのお尻を押し返した。
 両手の指を組んで、顔の高さくらいで真っ直ぐに伸ばした。ささやかな、目覚めの儀式。
 身体が、とても軽い。
 病弱で頼りない、常に鎖をかけられたかのように重い身体は、すっかり過去のものとなっていた。
 空気を吸い、それを身体が受け入れる。それがごく自然にできる。そんな些細なことにさえも感動し、胸にじわりと温かい痛みを抱いた。
 春の風が心地良く髪を梳いたときのような清々しさを感じていたが、すぐさまその感情を仕舞い込み、そっと鍵をかけた。
 ――私の命が続いている理由を、決して忘れてはいけない。
 ぎゅう、とネリネは小さくて細い指を、胸の前で固く結び、表情を引き締めた。真剣というよりは、必死に何かに堪えるような、今にも泣きそうな顔をしていた。
(リコちゃん……)
 全身に入っていた力を緩め、何となしに足元の方に目をやった。
 そのまま、ベッドの縁をなぞるようにして、左から右へと視線をずらす。
 腰まで届く長い髪が、肩からさら、と流れ、庭にも咲いている白い花の香りがふわりと舞った。
 ――このベッドは、こんなにも広かっただろうか。
 今までだって、一人で寝る夜は数え切れないほどあった。
 幼いときには、静寂に包まれ、月光しか届かない暗闇が心細くて、身を縮めながら、どうして私の寝床はこんなに広いのだろう?と思ったこともあった。
 眠れない夜、一人きりの寂しさとほんの少しの恐怖に襲われることは、今でもたまにあるけれど、そういうときには、彼女との時間を思い返せば平気だった。自然と胸が温かくなり、安心して眠りの世界に行く準備が出来た。
 二人の夜。夢を見るまでのささやかな時間。囁きのように響く笑い声。
 一人で外に出歩くことも叶わなくなっていたネリネにとって、リコリスとの時間はかけがえのないものだった。
 もう、ネリネとそっくりの顔をした、あの少女をここに迎えることはできない。たった一つのその事実のせいで、生まれたときから慣れ親しんでいる天蓋付きベッドが、こんなにも広く、寂しく感じられる。
 ネリネは、ぎゅっと目を瞑った。
 そうすることで、寂しさを塞き止められるような気がしたのだ。
 ちょうどそのとき、厚く、色の薄い板チョコレートのような自室の扉が、コンコン、と叩かれた。
「ネリネちゃん、おはようございます。起きてますか?」
 控えめなノックをされた後、母の真っ直ぐな声がネリネのベッドまで届いた。
 目元に集めていた力をゆっくりとほどき、一度深呼吸をしてから、扉へ向かって答えた。
「……はい、どうぞ。お母様」
 一拍置いて、ドアノブが回される音がした。少女の面影が色濃く残る顔に、優しい笑みを浮かべたエプロンドレス姿の女性が、部屋に足を踏み入れる。彼女の歩みに合わせて、やわらかい絨毯がぽふ、と小さく鳴く。
「昨日までぐっすり寝ていたから、もう少し遅くてもよかったかしらと思ったんだけど……その様子じゃ、すっきり目覚められたみたいですね」
 セージは、花が開いたような明るい笑顔を娘に向けた。セミロングの黒髪が揺れて、彼女が手作りした花の石けんの香りがふわりと届く。
「はい。とても身体が軽くて、気分も良いです」
 セージにつられて、今まで難しい顔をしていたのが嘘のようにやわらかく微笑みながら、ネリネは答えた。
「そう。じゃあ、ママと一緒に来れますか? その笑顔を見せたら、パパもすっごくお喜びになるわ」
「わかりました。お父様は、こちらの屋敷にいらっしゃるのですか?」
 ここ数日、父親はいつになく多忙だったようで、自分の屋敷に帰る暇もないと聞いていたネリネは、首を傾げつつ尋ねた。
「ええ、昨日の夜中……というか、明け方に帰っていらしたの。バークさんがお迎えしたみたいなんですけど……。はあっ、本当に不覚です……フォーベシイ様のお帰りに気づかずに、寝室でぐっすり寝ていただなんて……! 私、これじゃあメイド失格だわ……」
 両手で顔を覆い、落胆してみせる母親の姿に、ネリネは少しだけ頬が緩んでしまった。
「でも、お母様はメイドではありますが、王妃ですよ?」
 くすくすとおかしそうに笑い、セージに至極真っ当な突っ込みを入れる。
「でも、私は王妃になる前はメイドだったんですよ……」
 そう言った母の表情は、意外にも深刻そうなもので、その瞳はどこか遠いところを見つめているように感じられた。
「じゃあ、ネリネちゃん。お着替えをして、御髪を整えましょうか」
 その顔に意識を奪われたが、気付いたときには、セージの切なげな表情は消え失せて、彼女の腕には娘のドレスが抱えられていた。


*


「ああ、ネリネちゃん! おはよう。うーん、肌がつやつやの桃のようだ! とっても可愛いよ……いや、美人さんだね! 最近、ますますママに似てきたみたいだ」
 ネリネの父親である魔界の王・フォーベシイは、たったの数時間しか寝ていないとは思えないほどの元気さで、愛娘を出迎えた。
 ネリネに寄り添っていたセージが彼の言葉を聞いて、もう、何を言ってるんですかっ、と怒鳴る。けれど、ネリネはそれが照れ隠しの反応だと知っていた。
 胸に温かいものが広がっていくのを感じながら、彼女は父親に微笑みを向けた。
「おはようございます、お父様。連日のお勤め、お疲れさまでした」
「いや、なに、ネリネちゃんが気にすることじゃないよ」
 と、彼は軽快に笑ったが、その目元にはうっすらと隈が浮かんでいる。鍛えてはいるが痩身に見えがちな彼の肉体は、以前よりさらに痩せているように見えた。
「さ、ネリネちゃん。パパの正面に」
「あ、はい。……あの」
 母に促されるがままに椅子に向かっていく。腰掛ける前に、ネリネは振り返ってセージの顔を見上げて、首を傾げた。
「なあに?」
 それにつられるように、セージも首を傾け、柔らかく微笑んで聞き返す。
「どうして、いつもの食堂じゃないのですか? このテーブルセットも……見るの、初めてです」
 朝食時、魔界王家の家族三人が集ったのは、馴染みの食堂ではなく、屋敷内の小ぢんまりとした空き部屋だった。普段は誰も使用していない――せいぜいリコリスやリシアンサスがやって来て、かくれんぼで遊ぶ際に使うくらいの――部屋だったが、セージの完璧なハウスキーピングにより、常に一定以上は綺麗にされていた。王家のコレクションである食器や魔法具なども、曇り一つないガラス戸の棚たちの中に収められていた。
 食堂よりも随分と狭いが、それでも親子三人が食卓を囲むのに不自由することはない広さだ。
 所どころに金や宝石などで装飾された、石でできたテーブルセットは、ネリネのベッドよりも二回りほど小さいくらいだ。
「いやあ、たまには良いかと思ってね。ちょっと雑然とした部屋の中で、小さなテーブルを囲って談笑し、食事を取る……魔界の民たちの暮らしを真似てみることも、王族として必要なんじゃないかと思うんだよ! ああ、みんなの距離がいつもより近くていいねえ、これは……。ふむ、これを機に一つの習慣にしてしまうのもアリかもしれないね!」
「は、はあ……」
 連日の激務をこなし、寝不足気味だという割には元気な父親の語りに、ネリネは困ったように曖昧な笑みを返した。
「はいはい。それはまた後日、お食事の時の家族会議で決めましょうね、フォーベシイ様。――バークさーん、準備が整いましたよ〜」
 空いていた椅子に腰を掛けたセージが、閉じられたドアの方へと呼びかけた。
「失礼いたします」
 部屋のすぐ側で控えていたのか、呼ばれた直後にドアがノックされ、ネリネが生まれる前から王家一家に仕えている使用人のバークが、一礼した後、軍人の如く姿勢を正したまま食事の載せられたワゴンをテーブルの脇まで押してくる。そして、ネリネに向けて頭を下げた。
「ネリネお嬢様。ご快復、心よりお慶び申し上げます」
「ありがとうございます、バークさん」
 常日頃から家族みんなで世話になっている使用人に、微笑みを返す。バークも幸せそうに微笑を浮かべた後、テーブルに配膳を始めた。
 ワゴンが空になり、それをバークは脇に避け、セージのもとで一つ提案をした。
「セージ。エプロンとカチューシャは私がいただきましょう。お部屋に置いておくから、食後に取りに戻ればよろしい」
「あら、ありがとうございます」
 そう言って、立ち上がり、指定された装飾具をバークに手渡す。
 王妃と使用人という立場にありながら、二人の関係には主従らしいやりとりがあまりない。というのも、婚前はメイドだったセージの上司が他ならぬ彼であったせいである。結婚した二人が王位を継承したのを機に、バークはセージへの態度を仕えるべき者へのそれに彼らしい厳格さで切り替えたのだが、
「なんだかむずむずします……というか、気持ち悪いですっ! せめてプライベートな場では今まで通りに接してくださいぃ〜!」
 と、セージに泣きつかれたため、私的な場面ではかつてのような態度をお互いに取っているらしいと、ネリネは父から教わったことがあった。
 エプロンとフリル付きカチューシャを外し、シックなワンピース姿となったセージが再び席についてから、バークはワゴンを室外に移した。
「それでは、失礼いたします」
「ああ、ご苦労。君も食事や休憩を取るといい」
「お心遣い、痛み入ります。坊ちゃま!」
 愛する主の言葉に感極まったせいで性急な動きになったものの、いつものように完璧と言ってしまいたくなるほどの美しい礼をし、殆ど音を立てぬまま扉を閉めて、バークは去っていった。
「ふふ。お母様がお食事を運ばれないのは、珍しいですね」
 ナプキンを膝の上にかけながら、ネリネは無邪気に笑う。
「というか、王妃がメイド業をやっていることの方がおかしい……もとい、珍しいことだけれどね」
「私としては、メイドの方が本業なんですよっ。王妃になってから、臨時休業の時間が増えてしまっただけで」
 苦笑しながらもどこか愛しそうな目を妻に向けた父と、冗談交じりに笑顔で主張する母。
 家庭内での二人の掛け合いは、いつも楽しそうで、子供であるネリネが思うのもおかしいけれど、どこか子供じみていて――なぜだか、二人がとても若くなったように見える。
「ふふっ、うふふ」
 そんな両親の姿を見るのがひどく久しぶりに思えて、幸福で……ネリネのお腹のあたりから、自然と笑いが漏れていた。
「さて。ネリネちゃんの笑顔を眺めながらの食事としようか」
「ええっ?! あ、あの、じっと見られていると、落ち着きません……」
 思いがけぬ父の言葉に、ネリネは身を縮ませた。
「もう、ネリネちゃん。パパの言葉をいちいち真に受ける必要なんかないって、いつも言っているでしょう? パパも、病み上がりのネリネちゃんを必要以上にからかわないでください」
 膝の上できゅっと結ばれたネリネの手に、そっと手を重ねながら優しい言葉をかけ、セージは夫をたしなめた。
「あああ、ごめんよネリネちゃん! パパを嫌いにならないでおくれ! ……こほん。では、いい加減いただくとしようか。ママの料理を放っておくなんて、罰が当たってしまうからね」
 フォーベシイは慌てて態度を改めて咳払いをし、グラスに手をかける。
「そうですよ〜。悪いことをしたらサンダーキックが落ちますからね♪」
 緊張を解そうと、ネリネの腕をそっと撫ぜてから、セージは座る姿勢を正し、同じようにグラスを手にする。太陽のような微笑みが眩しいが、それを向けられたフォーベシイは頬を引き攣らせながら苦笑した。
「お母様も、あまりお父様をいじめないであげてくださいね」
 そのやりとりをおかしそうに笑い、ネリネはグラスを持ち上げた。
 そして、父の言葉を待つ。
「……では、ネリネちゃんの快復に。……そして、私たちの、もう一人の家族に」
 前半のお祝いムード全開の言葉とは打って変わって、後半部分は、まぶたを少し落とした彼の口から、暗さをを含みながら発せられた。
 ――父は、いつものように乾杯、と口にしなかった。
 グラスを持つ手が力を失う。胸の奥に熱い何かが奔流している。しかし、それはすぐに身が震えるほど冷たいものへと変わり――緋色の、リコリスと違う色の瞳から、ネリネの意思とは関係なしに溢れ出す。
 横に座っている母がネリネの肩を抱き、そっと涙を拭う。
 ――ああ、この食事が、いつもと違う趣向で行われた理由は……。
 ネリネは、悲しみと感謝の気持ちの波に溺れて何も言えないまま、ただただ涙を流し続けた。


*


 夜を迎えた。
 湯を浴びて部屋に戻ると、ネリネは吸い込まれるようにベッドに潜り込んだ。
 ――微睡みの中。
 知らない顔が頭に浮かぶ。でも、ネリネはその子のことを知っている。
「ネリネ」
 と、その子が楽しそうに呼びかけてくる。
 その顔を見るだけで嬉しくなって、世界には自分とその子しかいないんじゃないか、なんて高揚感に全身が支配される。
 髪が、脚が、風を切る感覚がとても心地良い。前髪が翻って、おでこがほんのり風の冷たさを感じる。
 知らないはずの身体の軽さ。けれど、馴染み深い自由な運動。相反する感覚が、自身の内部に混在している。
「まって、りんくん!」
 知らない男の子なのに、ネリネの口からはとても親しげにその子の名前が飛び出した。
 りん、りん、稟……リン――――
 同じ名前が、その意味を万華鏡のように変化させながらこだまする。
(これは、リコリスの……。そして、私の、あの子が、呼んだ、名前、の……)
 縺れる記憶の糸の中で、何かを掴みかけた瞬間、ネリネの意識は眠りの奥深くに引きずり込まれた。


*


 ほぼ同じ時刻。
 月と星々が、夜に沈む魔界をぼんやりと照らしている。
 拓かれた森の中に佇む広い屋敷の中、橙色の明かりが灯っている部屋が、一つだけあった。
 フォーベシイの書斎。
 入浴を済ませた王と王妃は、寝間着姿で本棚の前に立っていた。
 お疲れでしょうから、早めに寝ましょう――というセージの気遣いがこもった言葉に対し、フォーべシイはこんな提案を持ちかけたのだ。
「気持ちはとてもありがたいのだけれど……少し、付き合ってくれないかい。君と、話がしたくなってね」
 予想外の返答に、セージは少しだけ慌てながらも反射的に、はい、喜んで、とはにかみながら答えた。自然と口角が上がり、胸も高鳴ってしまう。
 彼の真面目な口調から、深夜のデートなどとはとても思えないのだけれど、それでも、愛する人に必要とされているのだ、と久しぶりに実感できたような心地になってしまうのだ。もう、輝くような未来を夢見て、それゆえに苦い思いも抱えていた少女ではないというのに。
「ははっ、そういえば、君とゆっくり話すのも久しぶりだね。……抱きしめても、いいかい?」
 セージの反応にフォーベシイは思わず笑い、同時に、誰よりもこの人が愛おしい、と実感した。だから、その気持ちをすぐに彼女に伝えたくなる。即実行は、愛情表現のマナーというものだ。
「もう……こんな時は、聞かなくったっていいんですよ……」
 言うやいなや、セージは愛する人の胸に抱きつき、タイミングをほぼ同じくして、彼の温かな腕に包まれた。
 まるで息をするように自然に、見つめ合って、唇が重なり合う。
 深い口づけの後、両手を重ね合わせながら、二人は身体を引き離した。熱が空気に溶けていく感覚は、いつだって名残惜しい。
「……それで……。どこへ、行かれますか? フォーベシイ様」
 片手をしっかりと絡め取って手を繋ぎ、セージは背の高い恋人を見上げて問うた。
 そして彼は、現在いる場所と寝室から近い、自身の書斎を挙げたのだった。
「ネリネちゃん、すっかり顔色も良くなって……安心したよ。君に似て美人になったというのは、冗談ではなく本気でそう思ったんだ」
 書斎に足を踏み入れ、背後のセージが扉を閉めたのを確認すると、フォーベシイは穏やかな顔で語りかけた。
「もうっ、リップサービスはいいんですっ。……そうですね。私も、とても安心しました。あの子が最初に目覚めて、すぐに寝てしまった後、私、大泣きしてしまって……バークさんに、お恥ずかしいところを見せてしまいました」
 照れくさそうに笑い、両肩を上げたセージの表情には、どこか苦い色も混ざっているように見える。
「何……それは初耳だよ。バークの奴め、そういうことこそ報告しろと……全く」
「あ、あのっ。それは、私が黙っていて欲しいとお願いしたからで……! それに、あなたも忙しそうで、私たちとも、まともに話す時間すらなかったじゃないですか」
 怒ったというよりは、呆れ、情けなくて仕方ないというように、フォーベシイは盛大なため息を漏らした。いくら二人きりとはいえ、こんなにも露骨に、しかも身内の人間に対して嫌悪を剥き出しにする様子があまりにも珍しかったので、よほど疲れているのだろう、とセージは感じつつ、これ以上彼から悪い感情を引き出さないようにと、落ち着いた声で諭す。
「……そうだね、すまない。どうも、冷静さをどこかに落としてきてしまったらしい」
 頭を振り、息をついて、体の力を緩める。漸く、自分が今まで通りに振る舞えていないことに気づき、フォーベシイは少し落ち込んだ。
「いいえ……仕方がないです。ここのところ……ネリネちゃんや、研究所のことで、色々と奔走されていたのでしょう?」
 セージの気遣いに対し、申し訳ないと感じるよりも有難い気持ちの方がずっとずっと強かった。
「まあ、ね……。厄介なものだよ。ネリネちゃんのためにしたいと思ったことは、そのまま国のため、魔界のためのことにされてしまうんだ。そのせいで、たった一人の愛しい我が子のために出来るかもしれないことが、国や世界からの要請で引っ込めざるを得なくなることもある……。味方になってくれるとき――利害が一致するときには心強いものだけれどね。大抵は、しがらみにしかならない」
 俯き加減に、眉間に皺を寄せて語る夫の姿に胸の痛みを覚え、ほんの少しの慰めさえ出来ない自分に、セージは悲しくなる。
 こんなとき、どうすればいいのかわからない。たとえ何があろうと運命を共にする覚悟をしているのに、痛みや苦しみを肩代わりできるわけではないのだ。
 いくら王家の者と言えども、幸せを求めながら安穏に過ごす日々を確保する力など、持ってはいない。この立場にあるためにのしかかってくる問題は、山ほどある。
「リコちゃんの葬儀……ごく一部の人達だけで、って案があったらしいですけれど、却下されたそうですね」
 下手に慰めの言葉を投げかけるよりは、話題を変えたほうがいいと思い、セージはとある筋から耳に入れた情報の確認を試みた。
「……君は、何気に情報通だよねぇ。ああ、私が断固として拒否した」
 どうして――と、言いかけたセージのその反応を見越してか、それを遮ってフォーベシイは続ける。
「研究所の者たちが、葬儀にかこつけて、ネリネちゃんのその後についてあれこれ直接探りを入れるだろうことは容易に想像できる。そんなこと、父親として許せるものか」
 普段の飄々とした物言いが嘘のように、彼の声は重々しく、そして確かな憎悪が込められていた。
「そう……だったんですか……。私、葬儀をすれば、ネリネちゃんの中でリコちゃんのことが、形だけでも区切りがつけられるんじゃないかって思ってたんです……ごめんなさい……」
 セージは、胸元で手を組み、俯いて肩を震わせた。娘のことを考えていたつもりで、娘の心が他人に傷つけられる可能性に思い至らなかった自分が情けない。
「どうして、君が謝るんだい! 私だって、同じようなことは考えたよ。ネリネちゃんの心が少しでも軽くなるようなことなら何だってしてやりたい! それは、私も君も、変わらないはずだよ」
 セージ、と囁いて、小柄な、愛する妻を抱きしめた。
「……ただね、わからないんだよ。私たちはネリネちゃんの支えくらいにはなれるはずだ。でも、支えくらいにしかなれないのだろう、とも思うんだよ……。あの子が抱えてしまったものは、あまりにも重い。――ただでさえ、たった一人の大切な大切なお姫様だ。思い悩んだり考えたりすることも、年の割には多いだろう。ネリネちゃんは君に似て真面目な質だからね――。……そして、そんなあの子の荷物の中身を、私たちが勝手に覗いて、消し去ろうとするなんて――とても、傲慢なことではないのかと」
 耳元から伝わる、長き重い懺悔のようなその言葉のひとつひとつを、セージは沈痛な面持ちで受け止めていた。
 胸の痛みが喉元まで迫り上がり、瞳にじわり、と涙が滲む。
 二人は、相手の重荷を少しだけでも軽く出来るように、もしかすると自分を慰めるように、抱きしめた愛しい人の背中を撫で続けていた。


*


 リコリスが消えて、数カ月が経った。
 体力回復のためのリハビリや、特別式典への出席、社交界への顔見せなどのために、日々は目まぐるしく去っていった。
 最近は、漸く屋敷から外に出なくても済む日が増えてきたところだ。
 溜まっていた疲れを癒すために長時間睡眠を取ってしまう日もよくあったが、段々と、散歩や買い物、家庭教師から学ぶ時間、読書の時間などを増やすことが可能になってきた。
 ――とても、充実しているのだろう。
 どこか他人事のように、ネリネは思う。
 実際に、充実した、密度の濃い日々を過ごしてきた。以前はそもそも屋敷の外に出るのも一苦労だったのだが、今は地方都市への短期の旅行だって行ける。これまでに出逢うことのなかった、接することのなかった、沢山の人々と交流することができる。
 私の世界は、少し……いえ、大きく変化した。
 自室の窓から庭を眺める。今まで通り綺麗に手入れされたその景色も、まるで何か別のもののように感じられてしまう。
 ネリネが具体的にイメージできる「世界」は、この屋敷や庭と、近所の公園と、城の一部の部屋くらいしかなかった。しかし、この数ヶ月で今まで尋ねたことのない場所を訪れ、様々な光景を目にし、沢山の人々と交流した。
 世界は、広い。今まで漠然としていたそのイメージも、短期間の経験の記憶によって、だんだんと具体的な像を結ぶようになってきた。
(あの向こうには、たくさんの人々が暮らしていて、色々な生き方があって、美しいものも沢山存在している――)
 そのように認識が変化したのは、良いことなのだろう。社交界での振る舞い方や日常的な所作の指導を行なってくれる、アイという家庭教師もそう言っていた。
 でも、その変化に伴って、この屋敷がとても空虚な場所に感じられるようになってしまった。
 世界の中心だった、何者も侵すことの出来ない園のようなこの場所は、かつてのように、完全なる安らぎと、ささやかで大きな幸福を、もたらしてはくれなくなった。
(それは、多分……世界を――私を、支えてくれていた大切なものを、なくしてしまったから……)
 きめ細かなシルクのような肌に、涙がすうっと伝う。
 誰かの姿が見えたわけでもないが、無意識のうちにネリネはレースのカーテンを引く。
 誰にも見られずに泣く時間が、随分と増えた。
 ――リン。リンは必ず幸せになってね。だって、あなたは愛されるために生まれてきたんだから――
 夢の中でか現でか、いつ聞いたのかも思い出せない、けれど強く強く刻まれている彼女の言葉。
 ……それが、あなたの願いならば。
(私は……私は、あなたのために、愛されるために生きます……)
 細く小さな身体の、儚げなお姫様は、誰にも気づかれないうちに、密やかな決意の花を、その内で育てていた。


*


 陽が一番高くなってから、二時間と少しが過ぎた。
 お屋敷の一室。応接間として使用されているそこに、魔王一家が顔を揃えていた。
「珍しいね。ネリネちゃんが、改まって私たちと話がしたいと言うなんて」
 ベルベットのソファに腰掛け、湯気の立つティーカップを手にしながら、フォーベシイは言った。
「ごめんなさい。お二人とも、なかなか都合が合うわけではないのに……」
 愛娘であるネリネが、テーブルの向こう側にあるソファで、申し訳なさそうに顔を伏せる。
「何を言ってるんですか、ネリネちゃん。フォーベシイ様はともかく、私の場合は自由業ですから、パパの時間に合わせることなんて簡単なんですよ」
 ネリネにも紅茶を注いでいるセージが、ソファの脇からにこにこと娘に笑顔を向ける。
「君……大切な仕事が疎かになってはいけないよ、王妃様」
 苦笑する父の姿に、ネリネは自然と笑みが浮かんでしまう。
 彼は一転して優しい穏やかな顔で、君も座りなさい、とセージに告げた。手を差し伸べる様は王子様然としていて、セージははにかみながらその手を取って、一つのソファに収まった。近頃のネリネは、こういう場面を目にすると、少しだけ居心地が悪いような気がしてしまう。
「それで、話というのは何だい?」
 両親に見つめられる。どちらの表情も同じように穏やかで、優しい視線に包まれる。
 これから自分がしようとしていることを思うと、胸が痛んだ。
 この優しい人たちを、そして、今まで私を支えてくれていた人たちみんなを、私は裏切ることになるかもしれないのだ……。
 呼吸が上手く出来ず、胸の苦しみが増していく。それでも、ネリネの決意は変わらない。
 すう、と息を吸って、ゆっくりと吐く。肩の辺りから余計な力が少しだけ抜けていく。
 娘のただならぬ様子に、フォーベシイとセージは顔を見合わせ、心配の情が零れ落ちない程度に、表情を固くした。
 僅かに間をおいて、ネリネが口を開く。
「お父様、お母様。今まで、たくさんのご迷惑をお掛けしてきたのに……更なるわがままを申し上げることを、どうか、ネリネをお許しください。私、私は――……」
 面を上げたネリネの赤い瞳が、真っ直ぐ前に向けられる。
 両親を見据えていながらも、どこか別の場所を見ていて、まるでそこに向けて誓いを立てているような……そんな真剣さを帯びている。
 この子は、いつからこんな顔が出来るようになったのだろう、と夫妻は思う。娘は、たしかにその足で、自分たちが守ってきた楽園を自ら去ろうとしている……と、無意識のうちに感じながら。
 固く結ばれてしまったネリネの口が、再び開く。
 歌えば、その空間に天使の鐘を織りなすことのできるその口から、強い決意の籠った言葉が発せられる。
「私は――人間界に、行きたいのです」



(11/11/17)



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