ある寒い日のこと

「優子。お前、風呂に入ってる時間短すぎじゃないか?」
 火村夕が、すっかり顔に定着してしまった不機嫌そうな表情で言い放つ。随分とぞんざいな、家族と会話をすることを忘れかけた頑固親父のような口調だ。
「そうですか?」
 問われた雨宮優子は、あら、と少々大げさに首を傾げた後、笑顔を崩さすに、心底不思議そうに問い返す。夕の決して良いとは言えない態度には慣れたもので、彼女からしてみれば、現在の夕は格段に優しくなったと思う。
「女のくせに、俺と大して変わらない時間で出てくるなんておかしいだろう」
 夕の優子を射抜く視線が鋭くなる。彼にそういう自覚はなく、優子もまた、敵意や反感の表れではないことをわかっている。
「まあ、女の子の平均入浴時間をご存知だなんて、夕くんて、もしかしてものすごい発展家さんですか? ひどいです、私をだまして弄んでいたんですねー」
 バスタオルで長い黒髪を拭いていた手を止めて、優子はオーバーな泣き真似をした。
 今度こそ、夕は怒りを込めて優子を睨む。
「違えよ! ……ったく。もう冬になるっていうのに、烏の行水なんかするんじゃねえ」
 呆れて、はあ、と大きなため息をついた後に、乱暴だが優しい言葉をかけてくる。優子は、そんな夕の誠意の塊みたいなところが愛しかった。
「……すみません」
 だから、つい、優子も自分を晒してしまう。夕に対してフェアでありたいと思っているせいなのか、夕の誠意に甘えてしまいたくなるからなのか、未だに判別することは出来なかった。
 しおらしいと言うよりは、重くなった優子の雰囲気をすぐさま察した夕の眉間は、無意識に複雑な皺を寄せていた。
「湯船につかるのは、苦手でして」
 優子が自分のことを語るときは、たいていこんな風に俯きがちで、歯切れが悪くなる。どこか懺悔じみた告白をされるたびに、夕の心では怒りと自制心とが拮抗した。
「……わかった。それでも、身体は冷やさない方が良いぞ。風邪ひくから」
 ただでさえ、お前は不安定なんだから、という言葉は秘めておく。
 暗い過去と、それを作りだした亡き人間への怒りを、優子への思い遣りで抑えられるくらいには、夕は大人になっていた。
 夕は、ちゃぶ台越しに優子と対面していたその距離を、確かな意思を持って縮めた。
「はい。ありがとうございます」
 優子が夕の左肩に少しだけ頭を寄せた。中途半端に間を開けているのは、水分を含んだ髪で彼の服を湿らせてしまうのが忍びないためだった。
 そんな気遣いを知ってか知らずか、夕は強引に優子の左肩を引っ掴み、自身の肩にもたれさせた。
「……夕くん。濡れちゃいますよ」
 優子の声は、少しだけ満足そうに響いていた。
「いいんだよ。俺はこれから風呂なんだから」
 寄せ合った身体から伝わる体温が、肌寒さを忘れさせ、冷たいなにかを溶かしていく。
 熱と、鼓動と、呼吸音に、自身の全てを任せられるような安らぎを、二人は互いに感じていた。
「夕くん」
「なんだ」
 他には誰もいないというのに、夕と優子は、まるで内緒話でもするような小さく低い声で言葉をかけ合う。
 どうかしている、と夕の頭のどこかが告げたけれど、今この瞬間、この世界にはたった二人しかいないのだ、というような漠然とした感覚を受け入れている彼がいた。
「あの」
 優子は更に声を落とす。
「……ん?」
 聞き取ろうと、夕が更に身を寄せると、優子は少しだけ気まずそうに顔をそらした。
「優子?」
 彼は更に、優子の顔を覗き込むようにした。
「……あんまり、見ないでください。照れますよ」
 優子が苦笑する。純白の手袋を纏った細長い彼女の手が、やんわりと夕を制した。本音を言うと、彼女が照れていたのは、あんまりにも優しい彼の声に、だった。
 なんだよ、と顔を逸らして、拗ねたように夕が言った。普段は彼のほうがずっと照れ屋だと、優子は思う。
「あの」
 一息ついた後に、優子は先ほどより少しだけ高い声を出した。
「うん」
 夕は頷いて、彼女の言葉を受け入れる体勢を取った。
 心を伝え合う行為は、何ともいえない充実感を与えてくれる。告げる側でも、受け取る側でも。いくつものやり取りの中で、彼女との間に見えない糸があることを、何度も何度も実感する。
 夕は絶対に口には出さないが、これが幸せか、と感慨深くなることも何度かあった。くだらないやりとりがとても愛おしかった。
 このような雰囲気になると、何もかもが優しいように思えて、彼女の言葉を待つ間も、未来の幸せを確実に約束されているように感じられるから、何を言ってくれるのだろうと待つその時間すら、満ち足りたものを感じていた。
「お風呂、一緒に入りませんか?」
 が、優子の口から飛び出した言葉は、夕にとってあまりにも不意打ちだった。
「…………は?」
 間抜けな反応しかできない。彼女の言葉は、どう解釈すればいいのか? なんて、努力の天才、イコール超秀才の火村夕らしからぬことを考えてた。
「……いや、おまえ、さっき入っただろう」
 とりあえず、一番突っ込みやすいところから突っ込みを入れてみた。
「湯冷めしちゃったみたいです」
 夕くんの言うとおり、ちゃんと温まらないとだめですねーなんて、優子はにっこりと笑いながら返した。
 彼女がこういう態度を取るときは、大抵の場合はその意志を貫こうとするのだ。何を言っても無駄だろうな、と夕は瞬時に悟る。
「……いいのかよ」
 恋人関係、しかも同棲している男女が、一緒に風呂。この流れから導き出される結末は、たった一つしか思いつかない。
 夕は一向に構わないというか、むしろ歓迎したい申し出だが、優子の湯船に浸かるのは苦手だという先ほどの告白と、裸体を晒すことを嫌がることを考えると、素直には喜べなかった。
 風邪を引くんじゃないかだとか、無理をさせるんじゃないかという心配の色が、夕の顔に広がっていた。
「はい、大丈夫だと思います。……でも、バスタオルの着用は許してくださいね」
 困ったように優子は微笑む。
 バカ、そんなの、嫌がるわけねーよと夕は笑い、その言葉にできる限りの冗談っぽさを響かせた。


(08/11/23)
(09/02/25)



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