ひぐらしのく頃に


漆し編


其の「悲しみの奇想曲」



「俺、この村を出ようと思う」
 古手神社の境内の階段に座りながら、俺はぽつりと零すようにそう呟いた。
 今この場にいるのは俺と里の二人だけである。隣に座っていた里は驚きの顔を露わにして羽柳の方を向き、次の瞬間には表情を怒りにして叫んだ。
「何バカなこと言ってるのさ!」
 その大声に、近くを歩いていた数羽の土鳩が驚いて一斉に飛び散った。
 驚いたのは俺も同じで、僅かに体を後ろに仰け反らせる。
「……仕方ないだろ」
 しかし気を取り直すと、俺はは理由を訥々(とつとつ)と語り始めた。
「村の様子がおかしい事には……里も気付いているはずだ。桜花の風当たりが悪くなって来ている。俺がいるからだ。だから……」
 俺なんか、いなくなればいいと言う言葉を、しかし口にしない。
「あんた、バカ?」
「何?」
「あんたの桜花への想いってそんなものだったの? ……羽柳、あんた桜花のことどう思っているのよ?」
 里の真剣な眼差しが俺の瞳に突き刺さる。
 そして彼女の問いは、深く、心の中へと落ちていく。
「俺が……桜花を……」
 俺は目を閉じて考える。桜花のことを。
 頭の中に過ぎるのは桜花の眩しいほどの笑顔だった。
 角の生えている俺を決して恐がらず、対等に接してくれた。
 彼女の声が、唄のようにいつも俺の耳に響いてくる。
 彼女の笑顔が、いつも俺の心を癒してくれる。

『風が気持ちいいですね』

『いいえ、あなたは清き心の方です。巫女である私が言うのですから間違いありません』

『あ……ご……ごめんなさい、羽柳様。……あぅ』

 ああ、そうか。
 この感情が……人を好きになる、と言うことか。

「俺は……あいつのことが……桜花が……好きだ」
 それを聞いた里は満足げに頷くと、不意に俺の目線から少し離れた位置を見て言う。
「だってさ、桜花」
 俺は咄嗟に振り返った。そこに立っていたのは、桜色の髪を靡かせながら頬を朱に染めて口元を抑えている桜花の姿。
 ……今の台詞、聞かれたのか?
「! 里、お前……わかっててやったのか?!」
「遅かれ早かれ想いを告げるんだし、早い方が良いじゃない」
「お前なぁ……」
 俺はがくっと項垂れる。ああくそ、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだ。
「あ、あの……羽柳様。その、さっきの言葉は……本当ですか?」
 顔を真っ赤にし、搾り出すような声で桜花が問う。
 今更誤魔化したって仕方が無い。それに、桜花のことが好きなのは事実だから。
 だから俺は、桜花の元へと歩み寄り、彼女を真っ直ぐ見詰めながら、応えた。
「ああ……。俺は……桜花が好きだ」
「羽柳様……」
 桜花は目尻に溜まった涙を懸命に拭おうとしている。俺はそんな彼女が堪らなく愛しくなり、ぎゅっと体を抱きしめる。
 抵抗することなく、桜花は俺の背中を両手で包み込んで来る。
「私も……羽柳様のことをお慕い申しております……」

「……よかったね、桜花」
 そんな里の呟きは、しかし次の瞬間風に乗って消えていく。
 ふと身を離して辺りを見回しても、里の姿はどこにもなかった。


 その夜、俺は桜花と体を重ねた。
 後悔なんて無い。俺はこれからも桜花と共に生きていく。




「結婚?」
「そ、結婚」
 里のいきなりの言葉に、俺は思わず鸚鵡返しをしてしまう。
 桜花に告白して数日、最初は少し気恥ずかしかったが、少し慣れてきたのか、今まで通りの態度で接せられるようになった。
 そんな時に里が突然、「三人だけで桜花と羽柳の結婚式をしよう」と言い出したのだ。
「しかし……結婚って」
「良いですね……結婚♪」
 ぽんっと手を叩いて笑顔。嬉しそうだ。
「桜花は乗り気だよ? どうする羽(はっ)ちゃん」
「羽(はっ)ちゃんはやめろ。しかし……いや、そうだな。するか結婚」
 これ以上「良いのか?」なんて訪ねるなんてバカらしい。
 桜花のことを信じないでどうするんだ。
「よーし決まり! それじゃ二週間後にここで式をあげよう。良いね、二人とも!」
 びしっと人差し指を俺と桜花に向ける里。
 俺達は互いに頷くと、首を縦に振るのだった。




「だが……幸せな日々は決して続くことはなかった」
 私は月を眺めてあの日のことを……運命の日となるあの日を思い出す。




 結婚式前夜、鬼ヶ淵村を今までに無く巨大な台風が襲った。
 被害は甚大ではなく、倒壊した家屋や村人が一生懸命育ててきた田畑が全滅に近いほどの惨状に見舞われたのだ。
 そして結婚式当日の朝、俺は村人に捕まった。

「お前の所為だ、この鬼が!」
 村人の一人が俺の肩を太い木の棒で殴る。
「この鬼めが!!」
「お前がこの村にいなければ!」
「この村に災いを運びやがって、この鬼がぁ!!」
 腕に、胸に、腹に、足に、顔に……村人が罵声と同時に次々と蹴り、殴る。
 俺は背後から抑えられているため、身動きが取れず、やられ放題だ。
「この野郎ぉぉぉおおっ!!」
「がっ!」
 村人の一人の投げた石が額に当たり、血が流れ出す。
 ……なんだ、こいつら。
 村人の目は尋常じゃなかった。目は血走り、焦点が合わず、しきりに喉をガリガリと掻いている奴もいる。
 狂っている。……こいつら全員、狂ってやがる。
「おい、連れていけ」
「おう」
 村人が俺を担ぐと、どこかへと移動する。
 ……駄目だ、力が出ない。一体どこへ行く気だ。

 辿り着いた場所は鬼ヶ淵沼だった。
 そこで俺が見たのは、想像を絶する光景!

「羽柳……様」
「ごめん、羽柳……しくじっちゃった」
 そこにいたのは、村人に両手を掴まれ、動きを封じられている桜花と里。
 いや、待て羽柳。何故彼女達がいるのかなんて……問題じゃないだろ。
 もっと問題視するべきところがあるじゃないか。
 ああ、直視出来ない。嘘だと信じたい、叫びたい!
 どうして……どうして桜花の服が乱れている。どうして顔に傷が付いている!?
 それは里にも同様で……いや、彼女の方がもっともっと酷い。
「ごめんなさい羽柳様……私」
「桜花の所為じゃないよ。あんたが村人に殴られているのを見て、桜花に知らせに言ったらこの様だよ。……桜花まで巻き込んじゃって……ごめん」
「お前等……よくも!」
 しかし、俺の腕はここに来る途中でしっかりと鎖で縛られ、殴ろうにも殴れない。
 くそ! くそくそくそおおおおおお!!!
 俺の友を……仲間を! こんな目に遭わせたこいつらが許せない!!
 その時、村長らしき男が桜花の前に立ち、一本の刀を彼女に手渡す。
「……これ、は……」
 桜花はその刀を手に取り、驚きに満ちた表情で村長を見た。
「その刀でその者を斬ってくだされ」
「! ちょっとあんた、何を!?」
 里を抑えていた村人が里の顔面を思いっきり殴りつける。
「里ちゃん! やめて、里ちゃんは関係無い!!」
 必死に、涙声で訴える桜花。
「ならば斬りなされ。さもなくば、お主ら三人とも死んでもらおうぞ」
「あ……ああ……」
 震える両手で刀を握り締める。
 辺りはいつしか夜となり、月の光に刃が反射して妖しく光っている。
「出来ない……そんなの……出来ません」
 声は震えとなって、桜花の苦しみが伝わってくる。
 ここで桜花が俺を斬らなければ、俺達は全員殺される。
 だが、俺だけが斬られたら、桜花と里は助かるんだ。
 ……何を躊躇う必要がある、羽柳。元は俺が招いた事態じゃないか。
 冷静になれ、KOOLになるんだ、羽柳。俺はもう、どうするべきかを知っている。

「……俺を斬れ。桜花」
 桜花がはっとなって顔をあげた。
「そ……そんな…………そんなこと、出来るわけ無いじゃないですか……」



 震える声で、刀を握ったまま、桜花は言う。
「こいつらの目は尋常じゃない。やらないと、本当にお前達も殺されてしまう」
 まるで何かに取り憑かれたかのように、村人の目はおかしい。
 そう、何かに操られているようで。
「……でも、でも……そんな」
 涙を流しながら、桜花はそれでも首を横に振る。
「お前がやらなくても、どうせ俺は殺される。……だったらせめて桜花、お前の手で」
「出来ません! ……出来ません……出来ない……よぉ。……だったら……私も羽柳様と」
「馬鹿野郎……里はどうする? ……あいつは俺達の大事な仲間だ。里が殺されても良いのか?」
「……里ちゃん」
 桜花が後ろにいる里を振り返る。
 里は先ほど村人に殴られた衝撃からか、気絶していた。
 桜花はどこか寂しげに、里から視線を外すと俺の方に向き直る。
「桜花、俺はやはり人間が嫌いだ。でも、桜花と里には……生きていてもらいたい。……俺の所為でお前達まで死ぬのは嫌なんだ。……だから、やれ」
「ずるいです。羽柳様は……ずるいです」
「そうだな……俺はずるいな」
 俺は苦笑。
 桜花は震える刀を握ったまま、ゆっくりと前へと歩き出す。
 彼女をバックに月が明るく輝いている。
 ああ……満月か。
「うっ……うう……羽柳様。私は……羽柳様を愛しております。……今までも、そして……これからも」
「……俺もだ」
 瞬間、ずぶっと生暖かい感触が腹からした。
 桜花の握っていた刀が、俺の腹を突き刺し、貫通する。
 ぽたぽたと流れる赤い血が、桜花の手を、服を真っ赤に染めていく。
 やがて視界が狭くなり、意識が途切れ始める。



 薄れゆく意識の中、桜花の悲しみに彩られた顔で呆然と佇む姿を最後に…… 俺は目を閉じた。









 俺はやはり、桜花と里以外の人間は嫌いだ。
 人間が……俺のような角を持つ人間を嫌うならば。

 俺は人間の友なんてもう要らない。
 ……俺は鬼ヶ淵の沼の底でいつか必ず甦る。たとえ鬼神となろうと も、俺は人間の存在を認めない。
 人間なんていない、鬼達だけの理想の村を……真なる鬼ヶ淵村を必 ず作ってやる。

 ……桜花、たとえお前がそれを認めてくれなくても。

 ……里は怒るだろうな。
 
 ……でも。

 

 俺は……お前を苦しめた人間達を決して許すことは出来ないから。


 ……桜花、お前はこの村を出て、里と一緒にどこか静かな村で暮ら して欲しい。
 俺がいない方がお前にとっても幸せなんだ。
 里と一緒なら、きっと大丈夫だ。きっと。


 ……だから、これが……俺から贈る、最初で最後の言葉だ。








 ―――桜花、俺はお前を愛している。ずっとずっと……永遠に。