■プロローグ


 ―昭和58年9月8日


 深夜の村を、古手梨花はただひたすら真っ直ぐに走っている。
 その隣では羽入が、ボロボロの制服をまとって同じように懸命に走る。
 靴など履かずに裸足で。舗装されていない道がこれほど不便だとは思わなかった。
 小石などが足の裏に当たって痛い。けれど、立ち止まってはいけないのだ。
 立ち止まったら最後。それこそが本当のゲームオーバー。
「はぁっはぁっはぁっ!」
 梨花は走っている。この闇の世界を。
 いや、逃げているのだ。何から? それは、鬼から。
 鬼ごっこのまるで逆パターンのようでは無いか。鬼が捕まえに来るのだから。
 背後から聴こえるはおよそ人とは思えない足音。音はだんだん近くなり、そろそろ限界かも知れない。
 けど、振り返れない。振り返るな。
「急いで羽入!」
「解ってますです。くっこのぉ!!」
 羽入は走りながら、後ろからやって来る鬼達をふっ飛ばしていた。
 最初こそ優勢だったが、羽入はそろそろ体力の限界に近く、息も絶え絶えだ。
「あぅっ?!」
 瞬間、敵の鋭い爪が羽入の肩を掠めた。
「羽入!」
 梨花は足を止め、羽入の方へと駆け寄る。けれど羽入は梨花の体を、片手で制した。……肩からキズが開き、血が流れ出す。
「ボクのことは良いのです。それより……早く逃げるのです、梨花! ここで梨花が捕まったら元も子も無いのです! 奴等の……奴等の目的を完遂させて は……っ!」
「羽入! 羽入!!」
 梨花は羽入を置いて行くことなんて出来なかった。出来る筈が無い。
 仲間はどんな時でも、仲間を見捨てないこと。だから、だから……!
「梨花……。行くのです」
 その表情はきっと、羽入にしか出せない顔だった。まるで母のように穏やかで、しかし有無を言わせない絶対的な促し。
 梨花は顔を俯かせ、しかし次の瞬間には決意に満ちた表情で羽入を見る。
「……梨花、早く!」
 羽入が指先を前に向ける。走れ、ただひたすら真っ直ぐに走れ、と。
 梨花は無言で頷くと、立ち上がり、再び走り出す。
 ……刹那、轟風が吹いた。
 それは足を止めるには十分すぎるほどの風。
 風は一箇所に集まり竜巻となり、やがて一つの影がその中から姿を現した。
「どこへ行こうと無駄だ、贄よ」
 黒い影で詳しいシルエットは解らない。だが、きっと人では無い。
「私は捕まらない。あんた何かに屈しない!」
 ギッと強い眼差しで影を睨み付ける梨花。
「私をあまり煩わせないで頂こうか。さあ、贄よ。その躰、我が大願の為に捧げるのだ」
「梨花は渡さない! 梨花、逃げるのです!」
 羽入が両腕を広げ、梨花を庇うように黒い影の前に立ち塞がる。
 影はそれが面白く無いのか、僅かに目を細め、人差し指を羽入に向けながら言った。
「貴様は……邪魔だ」
 瞬間、羽入の体が、右の肩から左の脇腹にかけて一閃された。
「……え?」
 一瞬何が起こったのか、二人は理解出来ない。
 出来るのは、羽入の体が斬られたことぐらいで……瞬間、鮮血が舞った。
 赤い血が、どくどくと流れ出す。
「あっ……がはっ……」
 ぼたぼたと、胸から、そして口から、まるで嘔吐物のように血を吐き出す羽入。
「敢えて急所は外した。だが、次私の邪魔をすれば……解るかね?」
 圧倒的過ぎた。
 何なのだ。この圧倒的な力は。
 梨花は混乱している。
 仲間が、羽入が目の前で血だらけになって倒れている。
 どうしてこうなった?
 ……私の所為?
 私が奴等に捕まれば……羽入は助かる? タスカル?
「……待って」
 静かに、梨花は顔を伏せて、呟く。
「どうしたのかね?」
「……私があんた達の方に行ったら……この子は助けてくれる?」
「り、り……か……」
 ひゅーひゅーと、口から漏れる短い息が痛々しい。
 梨花はもう、傷つく羽入を見てはいられなかった。
「ふむ……。よかろう。私としても贄を手に入れることこそが第一の目的。そちらが抵抗しないのであれば、約束は守ろう」
「ありがとう」
 一歩一歩、静かに前に歩き出す。羽入は止めたいのに、今すぐ梨花を守りたいのに、体が言うことを聞いてくれない。
「梨花ぁ……」
 悔しい。悔しくて涙が出る。梨花の保護者なのに。梨花の……仲間なのに。
「大丈夫よ羽入。私は大丈夫。じゃあ、ちょっと行ってくるわね」
 それはまるで、今からちょっと買い物にでも行くような言い方。
 けれど、一度行ったら最後、きっと戻っては来られない。
 こちらから行かない限り、二度と帰っては来られないのだ!
 羽入は渾身の力を振り絞り、鬼達から背を向けて歩き出す。



 僅かに振り向き、しかし次の瞬間再び前を見て、瞳から流れる涙を拭うことなく走る。
 もう走る力さえ残ってないはずなのに。でも、羽入は体を引きずるように走る。
 鬼達は後を追わない。やがて羽入の姿はまるでそこから何も無かったかのように、すうぅーっと、足元から姿を消した。

「ふむ。肉体再生と精神回復の為に霊体化したか」
 影は言った。まるで今でも、霊体化した羽入の姿が見えているかのように。
「さて諸君。ここに贄は手に入った。我等の大願成就の為、今ここに、鬼ヶ淵村復活のために!!」
 影が両手を大きく広げる。同時に聞こえる無数の雄叫び。
 刹那、夜が明けると共に黒い煙が雛見沢の村を覆い始める。
 まるでドーム状に。包み込むように。
「儀式執行は12番目の9の月。さあ、……宴の始まりだ!」








ひぐらしのく頃に


贄漆し編




SS:SEENA
挿絵:テナガエビ様